第12話 お湯は怖い

「あっ……!」


 窓の下に広がっていたのは、空、空、空。

 一面の青空の遥か下に、緑と茶色の大地が見える。

 まるでいつもの夢のような光景に、ジョゼは口を開けた。

 ここは浮遊島。

 空中に浮かんだ巨大な島なのだ。

 アンリの屋敷は島の縁に建てられているようで、こちら側の窓の外はどこを見ても空。

 飛び降りようものなら、下の大地まで真っ逆さまである。


 仕方なく屋敷の中に戻ろうとしたそのとき、バタバタと足音が聞こえてメイメイが追いついてきた。

 窓の棧に立ったジョゼを目にした少女の顔が一気に青ざめる。


「きゃアぁぁ! ジョゼ様……! なっ、何してるんデスか、そんなところで! 危ない、降りてくだサイ!」


 両手で顔を押さえながら、メイメイがその場にへたり込む。

 

「お風呂に無理やり入れないなら降りるわ!」


 自分よりも年下の少女に向けた言葉としては甚だ情けないのだが、先ほど服をはぎ取られそうになったことを思い出しつい言ってしまう。


「いいい入れマセン! 無理にしてしまってごめんナサイ! お願いデスからそこから降りて……!」


 涙を浮かべて懇願するメイメイである。

 これ以上脅かすのもさすがに悪いかと思い、中に戻ろうとしたそのときだった。

 なんの気まぐれか、上空の強い風が突如として吹きつけ、ジョゼの足をよろめかせた。


「あっ……」

「きゃああ、ジョゼ様!!」


 急に風に押されてバランスが取れず、大きく態勢が崩れた。

 落ちる……!


「ジョゼ!!」


 一陣の風のようにアンリが廊下に現れる。

 翼を広げると、そのまま落下しかかっているジョゼに向かい、空中で素早く抱きとめた。

 勢い余って二人は窓の外に飛び出すが、アンリが翼を羽ばたかせて飛翔する。


「危ないですよ! 何やってるんですか」 

「何って……」


 さすがに身を固くしているジョゼを強く抱くと、アンリは大きく息を吐いた。


「一瞬たりとも目を離せませんね、俺の使い魔さんは……」

「好きで使い魔になったんじゃないわ!」

「はいはい、わかってます。でも一瞬本気であなたを鎖で繋いでおきたくなりましたよ。落ちたらどうするんです?」

 

 普段は甘く垂れたアンリの瞳が、今は強い光を放ちながらジョゼを見据えた。

 いつもの残念な性格は影を潜めてしまって、知らない男のように思える。

 アンリに触れられているところがやけに気になって、ジョゼは居心地が悪くなった。


「…………アンリ、怒ってるの?」

「怒ってません」

「嘘、怒ってる」

「………………」


 逃げ出したのはさすがにやりすぎだったかもしれない。

 屋敷の窓に視線を向けると、泣きそうな表情のメイメイが身を乗り出してこちらを心配しているのが見えた。


「……悪かったわよ」

  

 小さな声で呟く。

 ジョゼの獣の耳がしゅんと垂れているのに気がつき、アンリは苦笑した。


「あなたが本当に落ちてたら怒りましたけど、無事だったからよしとしましょうか。さ、戻りましょう。このままじゃメイメイまで危なそうです」 


 メイメイはいまや身体の半分以上を乗り出して、食い入るようにこちらを気にしている。  

 アンリがジョゼを抱いたまま、窓からふわりと舞い降りるとすぐさま頭を垂れた。 


「申し訳ありまセンでした、ジョゼ様……! 私が無理強いしてしまったせいで危険な目に遭わせてしまうなんテ、侍女として失格ですヨネ……」


 おいおいと泣くメイメイを前に、ジョゼも困ってしまう。


「原因は風呂……ですか? メイメイ、俺はジョゼの面倒をよく見てやってほしいとお願いしましたが、逃げ出すほどもてなしを押し付けろとは言ってませんよ」

「本当に申し訳ありまセン……。アンリ様からジョゼ様のご事情を聞いて、勝手に自分と重ねてマシタ。煤と埃だらけのジョゼ様を、見違えるほど綺麗にしてあげたかったんデス」  


 聞き捨てならない言葉にジョゼの耳がぴくりと動いた。


「自分と重ね合わせてって?」

「……メイメイは家を妖魔に焼かれたんです。孤児となったのを天翔族が保護して、それからずっと浮遊島で働いてもらっています」

「じゃあ、メイメイは人間なのね」

「はい」


 家を焼かれた同士とでもいうのか、ジョゼの境遇に同情して、ぜひとも寛いでもらいたいと余計に気合を入れていたらしい。

 事情がわかると、冷たい氷が溶けていくようにジョゼの警戒心も解けていく。


「でも、わたしは妖魔よ」

「半分は人間ですよネ? アンリ様と同じデス。それでご苦労されていることもあるんじゃないかっテ……」

「…………」


 どう答えていいかわからずアンリを見ると、彼は困ったように微笑んだ。


「俺も、半端者の半天翔族ですからね……けど、その話は追々しましょう。今は風呂をどうするかです」

「ハイ! 本当にお湯が嫌なら水風呂もご用意がありマス! お一人でも入れマスが、浴場の使い方をご説明したいので、付き添いをお許しいただきたいんデス……」

「う……、わかったわよ。水風呂なら入るわ」


 メイメイが嬉しげに手を叩くのと、アンリが「もったいない!」と叫ぶのとが同時だった。


「もしかしてジョゼ、お湯に浸かるのが怖いんですか?」

「ええっ、ただ嫌なんじゃなくて? 怖いんですカ?」


 二人に同時に問いかけられ、ジョゼはうっと詰まった。

 ここまで事を大きくしておいて、お湯が怖かったとはとても言い出せない雰囲気である。

 だが何かを察したのか、アンリは大きく頷いた。


「わかりました! じゃあ、俺と一緒に入りましょう!」

「え……はっ!?」


 呆気に取られるジョゼを抱き上げ、さっさと歩き始めるアンリである。


「ちょっと……!?」


 あっという間に大浴場まで戻ると、服を着たまま浴槽に向かっていく。


 靴だけは脱がされた。

 アンリも眼鏡を取る。

 金の瞳がジョゼを射抜いた瞬間、意思に反して心臓が早鐘を打ちはじめた。


「やっ、やめて! 降ろしなさいよ!」

「温かい湯に浸からせてやりたいとのメイメイの真心を捨て置いていいんですか? 試すだけでもしてみましょうよ」

「アンリの嘘つき! わたしの意思に反することは絶対にしないって、ついさっき言ってたじゃない!」

「実際に入ってみてそう言うならすぐに出してあげますから」


 じたばたと抵抗するジョゼを抱きかかえたまま、しかも二人とも着衣のまま湯に入っていく。

 

(怒ってないなんて言って、絶対にさっきのこと根に持ってるでしょ、アンリ……!)


「ひゃうっ……!」


 ジョゼの腰に温かい湯が触れて、思わずアンリにしがみついた。 

 驚いた拍子に尻尾がぶんっと大きく動いて、湯を跳ね上がらせる。 


「やっ……! アンリ、熱い……!」


 震えるジョゼをアンリはしっかりと抱き寄せ、子供にしてやるように膝に座らせる。


「熱く感じるのは、あなたの身体が冷え切ってるからですよ。少しだけ我慢してみてください。すぐにそれほど熱く感じなくなりますから」

「うううっ……」


 湯が触れたところがぴりぴりと熱い。 

 濡れた衣服がぴたりと身体に張り付いてくるし、恥じらいもなくアンリに抱きついてしまっている。

 怖いし、わけがわからない。

 だが、しばらくするとぴりぴりを感じなくなってきた。

 ぬるくはないが、先ほどまでの身が思わず縮まるほどの熱さは感じない。

 それどころか、時間が経つにつれて緊張しきっていた筋肉がゆるゆると緩んでいくのを感じる。

 

「………………はぅ…………」


 知らずしらずのうちに声まで出てしまう。

 ふと見ると、メイメイが嬉しそうに側に佇んでいるのが目に入る。

 何を誤解しているのか、目を両手で覆っているのだが、指を大きく開いているのでどっちみち全部見えている。

 

 自分にしがみついていたジョゼの腕が少しずつ緩むのがわかり、アンリは微笑んだ。

 

「はー、いい気持ちですね~。昔はよく川で皆で水浴びしましたっけ。すっごく冷たくて毎回死にそうだったんですけど、浮遊島に来て初めてお湯に浸かったときはあまりの温かさにびっくりしましたよ」

「アンリの、馬鹿……子供の頃と今は違うでしょ……」


 ジョゼが大人しいのをいいことに、アンリはジョゼの頭を撫でている。

 ふわふわの耳に触れられて、ジョゼは赤くなった。


「ですね、すみません。俺はもう出ますね。後はメイメイにお任せします」


 そう言うと、アンリはそっとジョゼを湯の中に下ろして出ていってしまう。

 湯気のせいなのか、その顔は赤く火照っているように見えた。


 入れ替わるように、メイメイが浴槽の縁までやって来て跪く。


「ジョゼ様、お湯のお加減はいかがデスか?」

「…………わよ」

「え?」

「いいわって言ったの!」 

「本当デスか!? 良かっタ……!」


 メイメイは嬉しそうに手を打った。

 その様子に、今更ながら自分の大人気なさを恥じる。


「さっきは、その……ごめんなさい、メイメイ」

「いいんですヨ! 私こそジョゼ様を警戒させてしまってごめんなサイ。あの、服を脱ぎマスか?」

「……ええ」


 もう降参だった。

 アンリはもういない。

 湯から一度上がり、メイメイに手伝ってもらって濡れた服を脱ぐ。 

 一糸まとわぬ姿になると、メイメイが感嘆の声を上げた。

 

「わぁ……ジョゼ様の身体……! やっぱり思ったとおりデス! 一級の素材の持ち主ですヨ〜! あの、あの!! よかったら、髪だけでも洗うの手伝わせてもらえまセンか!?」

「……もういいわよ、メイメイの好きにして」

「本当デスか!?」


 ジョゼは頷いた。

 この少女が心からの好意で自分を綺麗にしてあげたいと思っていることは十分伝わった。

 あとは勇気を出してそれを受け入れるだけである。


 長い風呂になりそうだとジョゼは思った。

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