第21話 宰相代理は大忙し

 ジョゼはいつもの夢の中にいた。


 重い瞼を持ち上げたジョゼは眼下を見やり、思わず息を飲む。

 いつもなら紺碧の海が広がっているはずの足元には、天を突くほどの大きな山がそびえ立っていたからだ。


 草木のまばらな寒々しい山肌。

 頂上には雪が降り積もっている。

 山の周囲にはところどころ霜のおりた、荒涼たる大地がどこまでも広がっていた。


 南の海から一転、どう見ても北方である。

 

「……ベルメロ……?」

  

 赤髪の男に呼びかけるが、気配が返ってこない。

 自分をここに導いたのはベルメロだという確信だけはあったが、不穏な空気にジョゼの胸に不安が押し寄せる。

 

「……えっ!?」


 不意に辺りが暗くなる。

 禍々しい妖気が山から放出されるのが見えた。


「あれは、森で見た……!」


 迷いの森で自分を捉えた黒と赤の妖術の光とともに、まるで火山の溶岩のように峰から腐臭と邪気が垂れ流されていく。

 

「……いやっ……!」

 

 空中に浮いた自分の足の近くまで妖気が流れてきたかと思うと、突如としてそれが黒い触手に変化した。

 意思を持ったかのようにうねる触手が、ジョゼの細い足首に絡みつこうとする。

 

 夢とわかっていても、もしもあの触手に捕まったらただでは済まない予感がする。


 焦りが全身を貫き、とうとう触手に触れられてしまうという寸前。

 ジョゼの左腕が突然熱を発した。

 そこから、何か温かいものが血管を通して身体の隅々にまで伝わって来る。


 いつの間にか、ジョゼの全身は白い光に覆われていた。

 けれど、ここからどうしていいのかわからない。

 ジョゼの戸惑った気配を察知したのか、一瞬怯んだように見えた触手は再度勢い付いて襲いかかってくる。


「こないで……!」


 悲鳴を上げそうになる寸前、力強い腕がジョゼの身体を包んだ。


「ジョゼ!」


 この声。

 この腕、知っている……。


「アンリ……!」


 ジョゼは自分を抱きしめる腕に夢中でしがみついた。






 アンリが自分の屋敷に戻るのは実に十日ぶりだった。

 寒々しい曇り空の中、疲れきってほとんど気を失いかけているアンリをヒュベルトが抱えて飛んでくる。


「アンリ様! 一体今まで何してたんですカ? うワー、すごい顔! もしかして全然寝てないトカ?」


 出迎えたメイメイは始めこそ責めるような調子だったが、隈がくっきりと浮かんだアンリの顔を見るとその矛先を引っ込めた。 

 ぐったりして返事もできないでいるアンリに代わってヒュベルトが擁護に回る。


「メイメイちゃん、こんばんは。ちょっと天宮でトラブルがあってね。殿下はその処理に追われてたんだよ。この十日、ほとんど寝てないし、食事もほとんど摂られてないんだ。悪いんだけど、何か食べやすいものを差し上げてほしい」

「エー! 大変! すぐファビオさんに用意させマス!」


 急いで厨房に走っていくメイメイを見送ると、アンリはやっと自分の足で立った。

 ふらつきそうになるところをなんとか踏ん張り、長椅子まで自力でたどり着く。

 だが一度椅子にもたれかかると、もはや立ち上がることは不可能に思えた。


「すみません、ヒュベルト。送ってくれてありがとうございました。もう大丈夫ですから、さっさと天宮に戻ってください」

「おおっと、あからさまに俺を帰そうとしてませんか? 心配しなくてもジョゼちゃんにちょっかい出したりしませんよ! ……今日のところは」

「ヒュベルト……」 

「やだなぁ、殿下。顔が怖くなってますよ。冗談ですって」


 アンリをからかいながらもヒュベルトは苦笑する。


「天宮でもドリューゲルト殿下やゾフィー皇女殿下にあれこれ詮索されても、ジョゼちゃんについて一向に答えようとなさりませんでしたね」

「…………鳳凰帝陛下に口止めされていると言えばそれ以上追求されないかと思いましたが、なかなか諦めなくて困りましたよ」

 

 頭を掻きつつ、やれやれとばかりに答えるアンリである。

 兄姉たちに対して複雑な思いがあるはずだが、金の双眸にはなんの感情も浮かんでいない。


 ヒュベルトは腕組みをしてにやりと笑った。


「俺はいいと思いますよ、今のアンリ殿下の方が」

「何がですか?」

「おや、ご自覚がない? これまでドリューゲルト殿下やゾフィー皇女殿下に反抗的な態度なんか一切取ったことなかったじゃないですか。アンリ殿下の変わりように、かなり驚かれてると思いますよ」

「……俺は特に変わったことなんかしてないですよ」

「何をおっしゃりますか。今までだったら質問を突っぱねたりしませんでしたよ……俺たち近衛軍の兵士がどれだけやきもきしてたことか」


 後半は小さな声でぼやいただけだったので、アンリの耳にはほとんど届かなかった。

 不遇の末っ子皇子に起こった小さな変化は、ヒュベルトたち近衛軍に好意的に受け止められていたのだ。


「亡きお母様を思って泣きべそかいてたアンリ坊やも多少は成長したってことですかね」

「……その呼び方は勘弁してください」


 昔のあだ名でヒュベルトに揶揄されると、アンリは情けなそうな顔になった。

 そうしていると、鳳凰帝に連れられて浮遊島にやって来たばかりの幼い頃の面影が漂う。

 だが、今のアンリは飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍する宰相代理閣下なのである。


 兄皇子や姉皇女にだって、いまやアンリに命令できる権限などないも同然なのだ。


 年長者だから。

 純血の天翔族だから。

 そんなことを理由として体よくアンリを使い倒し、彼らはただ宮殿で怠惰な毎日を過ごしているだけだ。

 天翔族の未来を思い骨身を惜しまず働いているのは誰なのか、兵士たちは皆知っているのである。


「あとはアンリ殿下次第だと思いますがね」

「……俺は何もする気ないですよ」

「そうですか? ジョゼちゃんに手出しされてもよいと?」

「……それはまた別です」


 ドリューゲルトとゾフィーが薬草園でジョゼと相まみえたという話は、アンリの耳にももちろん入っていた。

 破魔の陣を展開したと聞いたときには全身の血が沸騰する思いだった。

 何も起こらなかったというのも不思議ではあるのだが、それより、ジョゼに傷ひとつでも負わせていたらドリューゲルトたちをどうしたかわからない。


 そんな心中を慮ってか、ヒュベルトが苦笑する。


「半妖の娘を皇子妃にしたいとお望みでしたら多少の無理は必要になりそうですがね」

「な……」

 

 反論しようと勢いよく顔を上げたが、途端に血の気が引いてくらっとしてくる。

 疲労困憊である。


 それにも構わず、ヒュベルトが身を乗り出した。

 アンリの尖った耳の近くに唇を寄せたかと思うと、こんなことを言いだす。


「もし今回の大事件を見事解決できたら、下剋上も十分ありだと俺は思いますね。むしろ兄皇子殿下たちが何もできないようなら、天翔族の軍勢はもはや彼らには従わないでしょう」

「ヒュベルト……!」

「まさか鳳凰帝陛下が帰還中に消息を絶たれるなんてね。兄皇子殿下たちが探し回ってるといっても闇雲じゃ埒が明かない」

「……陛下は俺が必ず見つけますよ。おそらくは妖魔の罠に嵌ったんでしょうが……」


 そう。

 鳳凰帝は現在行方不明なのである。

 天翔族の軍勢は南方での妖魔討伐を無事終えて、つい先日転移陣のある街までたどり着いた。

 だが、浮遊島に転移するはずの陣に鳳凰帝が足を踏み入れた瞬間にどこか別の場所に飛ばされてしまったというのだ。

 

 なんらかの術が発動して転移陣が一瞬だけ書き換えられたと見られているが、詳細は明らかになっていない。  

 転移陣はその後効力を失ってしまったため、急遽斥候隊が別の街にまで移動して浮遊島に状況を報せてきた。

 ジョゼとアンリが目撃した一団がそれだったのだ。


 天宮は上へ下への大騒ぎとなった。


 呼びつけられたアンリには、一人ではとても処理しきれない膨大な量の仕事が課せられた。

 斥候隊からの事情徴収に、現地に残っている天翔族の兵士の健康状態の把握、鳳凰帝を探すための捜索隊の組織に至るまですべてアンリが整えた。


 その間、戦地から戻ってきた第一皇子は久しぶりの浮遊島でのびのびと楽しむため、馴染みの女官たちに声をかけて回っていた。

 近衛軍を指揮するはずの第四皇子のドリューゲルトもそれに便乗するかのように遊びまわっている。

 すべての仕事を押し付けられたアンリは孤軍奮闘を余儀なくされた。


 皇女たちは皇女たちで、事の重大さがわかっていない。

 アンリをつまらない用事で呼びつけては仕事の邪魔ばかりする。


 ドリューゲルトとソフィアが薬草園でジョゼと邂逅したのも、ソフィアが外でお茶をしたいだのと我儘を言ったからだ。

 ヒュベルトたち近衛軍はそのすべてを冷ややかに見守っていたものの、内心では天翔族の次世代を担うのはアンリしかいないのではという雰囲気が徐々に広がっていたのだった。


「じゃ、俺は戻ります。明日の朝また迎えに参りますんで」

「来なくていいです……」

「アンリ殿下を休ませてあげたいのは山々ですがね。兄皇子殿下たちに任せておいたら事態は一向に改善しませんから。ではまた明日」


 そう言い残すとヒュベルトは宮殿へ向けて飛び立っていった。

 部屋に一人になると、どっと疲れが押し寄せてくる。


「あっ、アンリ様! こんなところで寝ないでくだサイ!」


 湯気の立つ椀を盆に載せて部屋に入ってきたメイメイが、長椅子に沈み込みそうになっているアンリを見つけた。

 どうやら一瞬の間に眠りそうになっていたようだ。

 アンリは椀を受け取ると、屋敷を離れている間ずっと気になっていたことをまず訊いた。


「ジョゼはどうしてます?」

「すぐそれですカ。ジョゼは……まあまあ元気ですヨ」

「……随分曖昧な言い方ですね」


 中途半端な答えでは満足しないだろうと最初からわかっていたメイメイは溜息を漏らした。


「元気といえば元気なんですケド、実はここのところあまりご飯を食べなくテ。きっと突然知らない所に連れて来られて、まだ慣れてないのに放置されたからですヨ〜」


 まるで捨て猫を拾ってきたかのような話しぶりだが、強烈な睡魔に襲われていたはずのアンリの目がくわっと見開かれる。


「食べないって、本当ですか?」

「少しは食べるんですケド……それでも果物なんかをちょっと食べるだけなんデス。ほかの食べ物は勧めてもいらないって言いますネ。それにどことなくだるそうで……。もしかしたら夜もあまり眠れてないのかもしれまセン」


 アンリは強力な意思の力を発揮して眠気を振り払った。

 石のように重い身体をしゃんと伸ばし、椀の中の粥を勢いよく平らげるとすぐに立ち上がる。


「よし、俺の大事な幼馴染を見舞いにいくとしますか」 

「ハイハイ、ジョゼは部屋ですヨ〜」

「ちょっと、蝿を追い払うみたいにしないでくださいよ!」

 

 シッシッと手を振られアンリは傷ついた表情になる。

 仮にも主人なのに……とブツブツ言いながらも早足は止まることがない。

 メイメイに生暖かい目で見られても今は気にならなかった。 


 ジョゼを浮遊島に連れてきてからはできるだけ一緒に過ごしたいと思っていたのに、まったく事が上手く運ばない。

 そのことに一番焦燥感を覚えていたのは自分だ。

 

 迷いの森で再会した半妖の幼馴染、ジョゼ——。

 黄金色の獣の耳を持つ美しい少女。  

 アンリはいまやジョゼに夢中だった。


 アンリのもとへ外征中の鳳凰帝から書状が届いたのはほんの数日前のことである。

 手紙というより走り書きに近いそれには「不老の魔術師 迷いの森 半妖 守れ」とだけの指示だけがあり、ほかに説明は一切なし。

 頭を抱えたくなったが、天翔族の宿敵である「不老の魔術師」の情報が寄せられたとあっては動かないわけにはいかなかった。


 何かの符合に引き寄せられるかのように、迷いの森に単身向かったアンリの目の前に現れたのが、バルディア王都の下町で一緒に育ったジョゼだった。

 正体がばれ、都から突然姿を消してしまった幼馴染。

 半妖などそれほどあちこちにいるわけではないから、もしやと思っていたが……。


 さらに話を聞くにつれ、彼女が「不老の魔術師」に狙われているのが明らかになってきた。

 事実ジョゼに手出ししてきたし、そのせいで彼女は帰る家を失くしてしまったのだ。

 

 思うに、ジョゼはただの半妖などではない。

 狙いはおそらくジョゼの持つ聖なる力——。

 

 この十日間、アンリもただ兄皇子たちにこき使われていただけではない。

 ジョゼの母ナディーヌが聖女だという話が本当かどうか、アンリはすでに調査を始めていた。


 だが、調査の結果が出るまでにも時間がかかる。

 一番手っ取り早いのは鳳凰帝に直接訊くことだ。

 ジョゼの力について何かを知っているに違いないのだから。

 父王を一刻も早く見つけ、なぜジョゼを保護しようとしたのか、その意図について詳しく訊ねなくてはならなかった。

 

 可愛いジョゼ。

 決して人に慣れぬ獣のような半妖の少女。

 その境遇からか、硝子玉のような水色の瞳には常に警戒心が浮かんでおり、態度も素っ気ない。


 けれどアンリは知っている。

 人にはなかなか見せないけれど、本当はジョゼはすごく優しい少女なのだ。


 幼い頃からジョゼは変わっていない。

 つれないことばかり言いつつも、気弱な自分を必ず気にかけていてくれた心根の優しい女の子。

 その性格は健在らしく、森で迷っていた自分を放っておけずに助けてしまう人の良さを今でも持ち合わせている。


 ジョゼの母ナディーヌ亡き後、独りきりで森で生きてきたジョゼの寂しさを思うと胸が締め付けられそうになる反面、逆に何にも縛られずに自然の中で自由に生きてきた彼女を羨ましくも思う。


 一人でいるときの胸に染み込んでくるような孤独と、人の中にいて感じる、肌を突き刺すような孤独というのは、似ているようで非なるものだから————。

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