第22話 アンリの想い

 アンリは過去に思いを馳せる。

 浮遊島に連れて来られたのは、母ハスミンが亡くなってすぐの十二の歳。

 

 腹違いの兄姉たちはアンリを快く迎えてはくれず、半分人間だからと蔑まれた。

 ヒュベルトのように親身になってくれる家臣がいたからまだましだったものの、浮遊島に来てからというものアンリはいつも一人寂しく過ごしていた。

 

 孤独なアンリを支えたもの。 

 それは、下町時代の他愛ない思い出の数々だった。


 目を閉じればすぐに浮かんでくる、ごちゃごちゃで不衛生な街並み。

 昼間から酒を飲むガラの悪い大人たちに、危険な路地裏にたむろする悪ガキの集団。

 諍いや喧嘩は日常茶飯事で、母も自分もしょっちゅうトラブルに巻き込まれていた。


 傍目にはならず者集団の吹き溜まりのような場所だったけれど、よかったところもある。

 

 そこに根付いていたのは助け合いや人のぬくもり。  


 仲間が困っていればどうにかして助ける。

 金がなければ盗んででも工面してやる。

 誰かが病気になれば医者を攫ってでも連れてくる。


 常識的に考えたらめちゃくちゃな環境なのだが、種々雑多な人々を丸ごと受け入れてくれる懐の深さがそこにはあった。


 下町には本当に様々な人々が住んでいた。


 真面目で堅気の職人のロラン。

 面倒見のいいベンジャミン。

 ふらりと現れてはまたすぐに消える、何をしているのかよくわからないマキシ。

 

 後ろ暗い過去を抱えた男や、身持ちを崩した女たちも大勢いた。

 

 どれほどの身の上があろうとも、住んでしまえば「ただのお隣さん」で済ませてくれる適当さにどれほど救われた者がいただろう。


 自分が普通の人間とは違うということは、幼い頃から気づいていた。

 尖った耳、時折軋むように痛む背中。

 身体の奥底から湧き上がるような大きな力——。

 それを必死に抑え込んで、ひたすらに母の後ろに隠れているようなおどおどとした子供だった。


(——アンリ! 行こうよ! 向こうに皆いるよ! 早く遊ぼう——) 


 幼いジョゼの声が脳裏に響く。

 気弱な自分の手を躊躇なく取ってくれた、まっすぐな目をした女の子。

  

 だが、きらきらしたジョゼとの思い出は唐突に終わりを告げた。

 

 あれは隣の地区の悪ガキたちと大きな喧嘩があった日だった。

 仲間の一人が危うく傷つけられそうになったとき、アンリは力を使うのを咄嗟に躊躇った。

 助けなければ……! 

 けれど、力を使ったら正体が知れてしまう……?

 一瞬の躊躇に足が止まったそのとき、ジョゼが飛び出してその子を救った。

 力を使ったはずみで変化の術が解け、獣の耳が飛び出した瞬間、子供たちの恐怖の叫び声が下町の路地裏に弾けた。


 蜘蛛の子を散らすように逃げていく仲間たち。  

 アンリはたった一人、ジョゼとその場に残った。


(黙っててごめんね、アンリ……) 


 ジョゼは下を向いて唇を嚙んでいた。

 その目に涙はなかった——そこにあったのは、とうとうこの日が来てしまったという悲しみの色だけ。

 次の日、ジョゼとナディーヌおばさんは下町から消えていた。

 

 がらんどうになった隣の家に足を踏み入れ、アンリは後悔とともに崩れ落ちた。  

 なぜジョゼの代わりに自分が力を使わなかった?


 アンリは、アンリだけは、ジョゼが都から出ていったのは臆病な自分のせいだと知っていた。


 過去の後悔は男を強くする。

 浮遊島に来てからどうしても辛いときには、ジョゼを想って過ごした。

 自分を顧みずに迷いなく飛び出していったジョゼの後ろ姿は、いつもアンリを奮い立たせた。


 そして、ようやく気づいた。

 お人好しのジョゼのことが、ずっとずっと好きだったと。


 ジョゼと再会したのは運命のちょっとした悪戯かもしれない。

 だが、それであればアンリは初めて運命とやらに感謝したい気持ちになった。

 

 今度こそ、ジョゼをーー好きなひとを守りたい。

 その気持ちはアンリを強くした。

 

 彼女と過ごせるのはこのひと冬だけという約束である。

 だが隠れ家を焼かれてしまったこともあり、もしかしたら期間を延ばしてくれるかもしれない。

 自分のもとに少しでも長く——いっそのこと、ずっとそばにいてもらいたい。 


 そんなことを考えながら部屋にたどり着く。 


「ジョゼ……?」 


 愛しい相手は窓辺にいた。

 大きく張り出した窓にもたれかかるようにして座り、目を瞑っている。  

 淡紅色の衣を身に着け、よく梳かれた艷やかな髪は背中に流れるにまかせている。

 まるで大輪の花が窓辺に咲いているようだった。


「寝てるんですか……?」


 そろそろと近づいても起きない。

 ジョゼの陶器のような頬に長い睫毛が陰を落としていた。


「……!?」


 アンリの顔が険しくなる。

 どうも様子がおかしい。

 いくらなんでもこんなに近くにいるのに自分の気配に気がつかないわけがないのだ。

 夢に囚われている……?

 触れてもいいものか迷っていると、不意にジョゼがうっと声をあげて苦しみ始める。


「ジョゼ!? これは……邪気……?」


 焦るアンリの眼前でジョゼの身体が白く発光する。

 迷いの森で発現した、あの聖なる白い光だ。


「こないで……!」


 ジョゼの額に汗が浮き、助けを求めるかのように手が宙に差し伸べられた。


「ジョゼ!」


 アンリは堪らずジョゼを引き寄せていた。

 細い身体がぐらりと揺れるのをそのまま強く抱きしめる。


「アンリ……!」


 拒絶されるかと思ったが、夢うつつのままのジョゼは無我夢中でアンリにしがみついてきた。


「……ジョゼ、俺の気を辿って……! 戻ってきてください!」


 ジョゼを抱きかかえながらアンリはジョゼの精神を喚んだ。

 術者と使い魔の血の契約が発動し、二人の血が呼応し合う。

 胸の鎖の文様が熱を帯び、やがてゆっくりと冷めていく。


 熱が完全に消えるのと、ジョゼの水色の目が開かれるのとがほぼ同時だった。

 しばらく茫然としていたジョゼだったが、やがて目の前のアンリに焦点が合う。

 

「んっ……? アンリ……?」

「ジョゼ、大丈夫ですか!? 今のは!?」


 ジョゼの顔は蒼白だった。

 それでも、気丈な半妖の少女は強い光を瞳に湛えていた。


「夢で黒い触手に襲われそうになったわ。迷いの森で見たのと同じやつだった」

「ただの夢じゃなさそうですね。『不老の魔術師』でしょうか。まさか、夢に干渉することも可能なのか……?」


 思考の海に沈み込みそうになったアンリだったが、ジョゼの額に汗が浮かんだままなのに気がついて自らの袖で拭こうとする。

 

「ちょっ……、自分でやるからいいわよ。それにくっつきすぎ! 離れなさいよ!」


 ジョゼは慌てて手を払い除けようとするが、なんだか身体がだるくて動きが緩慢である。

 おまけにずっと抱きしめられたままなのだ。

 アンリの身体が出窓を塞ぎ、ジョゼは張り出し部分に閉じ込められたような形。


「もう、どいてよ!」


 どうにも気まずくなってジョゼはアンリをつい突き飛ばすが、押されたほうのアンリはびくともしない。

 それどころかほっとしたように笑顔になる。


「調子が戻ってきたみたいでよかったです」

「あなたって日に日に図々しくなるわね」

「そうですか? 最初からこんな感じですけどね。それよりどんな夢だったのか詳しく教えてください」

「わかったから、もう離してってば」

「駄目です」

「なんで!?」

「主人が使い魔を案じるのは当然ですから」

「……詭弁もいい加減にしてよね」


 先ほどから顔が火照るのを感じていてどうにも気まずい。   

 むくれるジョゼだったが、心配しきりのアンリはなかなか身体を離そうとしない。

 まるで大きな犬に懐かれてしまったような気分である。

 くっつかれたまま、やがて諦めて力を抜く。

 

「まったく、これじゃああなたがわたしの使い魔みたいじゃないの……」


 アンリの瞳に浮かんでいるのは間違いなく恋情なのだが、これまで誰にも思慕を寄せられた経験のないジョゼはそれに気がついていない。 

 これほど使い魔にべったりの主人がいるものなのかと見当違いのことを訝しみながら、ジョゼは夢の内容をアンリに伝えた。

 寒々しい北方の山、突如として現れた黒い触手といった事柄に加えて、ベルメロについても言及する。


「なんだか妙に生々しくて……。いつもの夢魔もいなかったし」


 その言葉にアンリの動きがぴたりと止まる。

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