第5話 幼馴染みのアンリ
ヘンリーと名乗った銀髪の男は、ジョゼの棲家に着くと物珍しそうに辺りを見回した。
岩の形やら、明かり取りやらを楽しそうに観察してからおもむろに頷く。
「へえー、自然の洞窟って暖かいんですねぇ。しかも自然光が入るようにしてある。意外に快適じゃないですか。迷いの森にこんな場所があるなんて知りませんでした」
「中に入っていいって言ってないんだけど? 勝手にあちこち触らないでよね。こら、ちょっと! 奥はだめだって!」
男はジョゼの制止も聞かずにちゃっかりと奥を覗いている。
どうやら、この男は人の話を聞くという能力に欠けているらしいことを、ジョゼはうすうす理解していた。
水と、少しばかりの食料を入り口の近くに手早く用意する。
こうなったらさっさと出ていってもらうに限る。
「あなたねー、遠慮なさすぎじゃない?」
中に戻ると、男は奥に積んであった書物を手に取って開いているところだった。
「これ、全部あなたの本なんですか? すごい量だ」
「……それはママのだったの」
「あなたも読んだんですか?」
「まあ、興味のあるやつは。でも、わたしはママみたいにスラスラ読めないから……。特にああいう本とかはね」
ジョゼが指差した先には、高度な政治や経済に関する書物が山のように積まれていた。
「これは……かなり難解ですよ。理解するにはかなり博識でないと……。これなんてところどころ古典のような言い回しも混じっている。あなたはこれを読めるということですか?」
ジョゼに文字の読み書きを教えてくれたのは母だった。
手燭の灯りの下、毎晩母と二人で本を読んだことが思い出され、心がぎゅっと捕まれるような感覚に襲われる。
悲しみを振り払うように、肩を竦めてみせた。
「一応は読めるけど、意味を理解できないのもあるわ。今あなたが持ってる本だけど、二十八頁の七行目、『天翔族による浮遊島の出現は周辺諸国に諸手を挙げて迎えられたが、その後国家間の守護条約の締結にあたっては多くの時間を必要とする国も出てきた』って書いてあるのよねー。天翔族が妖魔から自国を守ってくれるならいいことのはずなのにね? よくわからないわ」
ジョゼは何気なく話していたつもりだったが、その言葉に男の動きがぴたりと止まった。
言われた通りの頁を開くと、その顔にみるみるうちに驚きの色が広がる。
「…………もしかして、どこに何が書かれていたかまで全部覚えてるんですか?」
「まさか! 気になったところだけよ」
山積みになった書物の題名にさっと目を走らせた男は、薬草や医学の本が圧倒的に多いのに気がついた。
一番手前にあるのは、分厚い薬草全集だった。
かなり古い本らしく、見るからにぼろぼろだ。
「あなたは薬草に詳しいんですね」
「まあ……ね」
ジョゼの歯切れがどことなく悪くなる。
「いくら薬草について勉強してても、ママを助けてあげることはできなかったけど……」
「あ……辛いことを思い出させて申し訳ありません」
「いいの」
男は気丈に振る舞うジョゼをしばらく見つめていたが、今度は奥の方に埋もれていた本を手に取る。
「……じゃあこちらはどんな内容だったか覚えていますか?」
「それは医学の本よね。だいたい覚えてる。細かくは自信ないけど」
「これは?」
「それは大陸共通言語じゃなくて、ガロフ語で書かれてるのよね。だからあんまりわからないんだけど、地域ごとの天気とか育つ農作物についての本だった。なかなか実用的なのよね……って、その顔何よ?」
一見しただけではどれがどれかわからなくなるような代わり映えしない書物なのに、表紙の文字だけで内容をどんどん言い当てる少女を、金の双矇が好奇の光を持って見つめていた。
「いいえ。ただ面白いと思いまして。これほどの才能がこんな場所に埋もれているなんて、地中深く埋まっていた巨大な原石を見つけ出したような気分ですよ。迷いの森に棲む半妖が、まさかこんなにも聡明だなんてね」
「そうそう、半妖……って、え!?」
顔を勢いよく上げると、男の金の瞳が面白くて堪らないというようにきらめいている。
「気がついていないんですか、その耳? あなたに後ろから抱きついた時に、変化の術が解けていましたよ。その中途半端な姿は、半妖で間違いないはずです」
ばっと手を頭に当てると、ふんわりとした獣の耳が手に触れた。
抱きつかれた衝撃で術が解けてしまうというのも情けない話だが、それよりジョゼが妖魔だとわかっていたのに、ここまで落ち着き払った態度を崩さない男のことが急に気になった。
家に入れてしまったことを今更ながら悔やみつつも、警戒心を最大にしながら後ずさる。
「…………ヘンリーって言ったわよね。あなたって、何者なの? まさか妖魔?」
妖魔の気配も感知できなかったら恥ずかしいと思いつつ訊ねる。
しかし答えは意外なものだった。
「俺は天翔族ですよ」
男の返答に、ジョゼの顔色がさっと変わる。
「天翔……族?」
「はい。ほら、耳の先がちょっと尖ってるでしょう? 天翔族は翼さえ出してなければ人間とほぼ変わらない外見ですけど、耳の形がこれなのと、あとは金色の瞳の者が多いです」
長い髪の毛を手でかき上げながら耳を見せてこようとする男を、鋭い声で牽制する。
「ち、近寄らないで! わたしを殺しに来たんでしょ?」
「————え?」
「天翔族が半妖を討伐しに来るって、本当だったのね。わたしを倒すなら、命がけで来なさい! こっちも、容赦しないから!」
言うなり、ジョゼの爪が男の首に向かって振るわれる。
男の肌は血飛沫をあげて引き裂かれる————はずが、手首を逆に捕らえられてしまう。
「あっ……ぶない。意外と俊敏に動けたんですね。犬って素早いですもんね」
「馬鹿にして……! 犬じゃなくて狼よ! 離して!」
「離したらまた襲ってくるでしょ。力比べなら俺の勝ちです。さっき、お墓の前でだって、俺の腕を振り払えなかったんだから。ていうか、落ち着いてください! 殺したりなんてしませんから!」
「……本当に?」
「本当ですって! 殺すつもりなら、一番最初にあなたが妖魔だとわかった時点で斬ってますって」
ぞっとしない話だがそれもそうだ。
あっけらかんと言われて、ジョゼはこの男に対する評価を素早く修正した。
そそっかしいだけの人物かと思いきや、いざとなれば躊躇なく自分を斬り伏せる冷酷さを持ち合わせているのだ。
ジョゼはそっと抵抗する力を弱めた。
手首はまだ掴まれたままだったが、この男が一体何をしにやって来たのか、それだけははっきりさせなくてはならなかった。
「あなたって一体何者なの? 道に迷ったとかいうさっきの話、嘘なんでしょ」
「……すみません」
男はすまなそうに頭を下げた。
垂れ気味の金の瞳が、先ほどよりもっと下向きになっている。
悪い人じゃなさそうなんだけど、とジョゼは深く息を漏らした。
「なぜ森に来たのか教えて。話してくれないなら、わたしも何も喋らない。それで殺すならそうして」
男は首をぶんぶんと振った。
「あなたに危害を加えるつもりはありません。というより……ジョゼ、本当に俺のこと覚えてないんですか?」
「……え?」
「会ったときからずっとそうじゃないかと思ってたんですけど……俺たち、子供の頃会ってるんですよ。俺の本当の名前、覚えてませんか? 下町に住んでたアンリって」
「え……? え……?」
あまりのことに二の句が継げずに、ただ口をぱくぱくさせてしまう。
目の前の男を凝視するが、記憶の中のアンリとは似ても似つかない。
だって、アンリは小さくてひょろひょろで、いつも本ばかり読んでいて、性格も気弱だったはずだ。
ジョゼが都にいたのは六歳まで。
アンリは自分よりひとつ歳は上だったけど、背だって自分より低かったし、ジョゼからしてみたら可愛い弟分みたいなものだった。
こんなに図々しくてずけずけと物を言うような男では断じてなかったはずなのに。
まるでジョゼの心を読んだかのように、男はわざとらしく溜息を落とす。
「やっぱり覚えてなかったんですね。全然子供の頃と違うって思ってるかもしれないですけど、俺ももう十八。男は成長期がくると背がぐんと伸びるものなんですよ」
「だって、天翔族って……!? アンリは人間の男の子だったわ」
「あなただって半妖だってこと隠して下町にいたでしょう。あなた以外にも正体を隠してる者がいたってことです」
「う、嘘ぉ……」
愕然としながらも、必死で記憶の中の可愛いアンリを守ろうと試みる。
「か、髪の色だって違うわ。アンリはもっとこう、煤けた灰色みたいな髪だったもの」
「それは説明するのが憚られるんですが……。俺、すごい寒がりだったの覚えてませんか? 川で水浴びするのがもう寒くて寒くて。頭なんかほとんど洗わなかったんですよねー」
「えっ……」
ジョゼは固まった。
そう、下町の家には風呂なんかない。
近くの川で水浴びをしたり、身体を拭ったりする程度だ。
つまりあの灰色の髪は、汚れ。垢。煤け。
記憶の中の可愛くて無邪気なアンリの姿がガラガラと崩れていき、思わずがくりとうなだれる。
「詐欺だわ……。川の水の冷たさくらい我慢しなさいよ……」
「そう言わないでくださいよ。護身の意味もあったんですから」
はっと顔を上げると、キラキラと光る純白の髪が目に入る。
確かに、こんなに美しいと物騒な下町では危ないかもしれない。
若い女や幼女はもちろんのこと、美しい少年も性的搾取の対象となることもあるからだ。
汚れを身にまとい美貌を隠すというのは、自衛の手段としては定石である。
男は何を思ったか突然眼鏡を外す。
「ほら、これでどうです?」
そう言いながら額にかかる前髪を軽く持ち上げる。
整った眉目があらわになり、甘やかな金の瞳とばちりと目が合う。
ジョゼの鼓動が大きく跳ねた。
「……子供の頃は、そんなのかけてなかった」
「はい。大人になったら目が悪くなっちゃいました」
よくよく見ると、確かに面影があった。
少しだけ垂れた瞳で、困ったように微笑む目元。
それに反して少し冷たそうな薄い唇。
穏やかなのにその芯にはどこか冷静なものをもっている。
幼い頃のアンリはひょろひょろのチビでいつも自分の後ろをくっついて歩いていたのに、大人になったらこんなふうに美貌の男に成長するなんて誰が予想できただろう。
今は自分の頭の中の思い出を引っ張り出しても、その引き出しを間違えているような気分になる。
「近所で遊んでた仲間たちの名前だって言えますよ。喧嘩っ早いガキ大将のルイ、おしゃまでちょっと生意気なオーレリー、すぐ騙されるジャン。大人も変わった人がいっぱいいましたよね。真面目で堅気の職人のロランさん。犯罪に手を染めた悪人のマキシさん。面倒見のいいベンジャミンおじさん……」
アンリが指折り数えながら名を挙げていくと、ジョゼの脳裏に当時下町に住んでいた人々の顔が次々浮かんだ。
「……本当にアンリなのね……」
「どうやら信じてくれたみたいですね」
頭では信じたけれど、心は追いついていない。
けれど、ジョゼは仕方なくこくりと頷いた。
「だったら最初から言いなさいよ。でも、なんでこんなところに来るわけ?」
「だからその事情をお話ししますって……」
と、その直後。
地響きのような音が洞窟に鳴り響いた。
「……今の……」
「う……すみません。俺の腹の虫です……」
「空気の読めないお腹ね……」
どっと脱力しそうになりながらも、男——ヘンリー改めアンリが道に迷ったというのも、まったくの嘘というわけではなかったのだろうとぼんやり思った。
ジョゼは咳払いをひとつすると、照れくさそうに頭を掻くアンリに向き直る。
「えと……じゃあ、とりあえず何か食べる? といってもご馳走なんて出せないけど」
本の近くには食材が備蓄されている。
冬越しするには頼りないけれど、それでも夏のうちに集めておいた穀物やら干した果物などはまだまだ十分な分量があった。
「あんまり料理得意じゃないけど、適当でいいなら作るわよ」
芋をいくつか無造作に手に取ると、アンリが思いついたように笑顔になる。
「それじゃあ、俺が作ります!」
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