第29話 ありえないことほど起こるもの(3)

 馬車の中から現れたのは、真っ青なドレスを身にまとった美しい貴婦人だった。

 大きく結い上げた豊かな栗色の髪。

 深い紺色の瞳がこちらを伺うように彷徨い、やがてリシャードに気がつくと、まっすぐに見つめてきた。


 年齢こそ重ねているものの、間違いない。

 かつて聖女の力さえ発現した、けれど謙虚で決して表に出ようとしなかった愛娘。

 赤子を抱えて身ひとつでセランを後にした、リシャードの長女。


「ナディーヌ……!!」


 ナディーヌは硬い表情のまま馬車から降りると、その場で膝を折り淑女の礼をした。


「ご無沙汰しております、お父様」

「ナディーヌ、戻ってきてくれたのか。赤子はどうしたんだ。いや、もう赤子ではないだろうな。あれから十七年だ。さぞや立派な娘に成長していることだろう」


 早口でまくし立てるリシャードの薄青色の瞳には、涙が滲んでいた。

 

「……娘は別の場所におります」

「そうか。会わせてはもらえんだろうと思っていた。十七年前の儂の過ちを思えばな」

「……娘を始末なさろうとしたことですか」


 ナディーヌにずばりと指摘され、リシャードは苦悶の表情を浮かべた。

 そして、そのまま驚きの行動に出た。


「リシャード卿、何を……!?」


 アンリが止める間もなく、リシャードは腰の剣を引き抜き、自らの首に当てていた。


「ナディーヌ、儂が悪かった。この十七年の間、おぬしと赤子のことを忘れた日はなかった。いたいけな赤子を弑そうとするなどと、あのときの過ちは許されるものではない。妖魔の子を宿したおぬしを見て動揺していたことは確かだが、勇気を振り絞って帰郷したおぬしを責め立て、身ひとつで追い出すなどあってはならぬことであった。償いとしては軽すぎるやもしれんが、儂の命を差し出そう。これでおぬしの気が晴れるかはわからんが……」

「お父様……」

「リシャード卿、落ち着いてください!」

「父上!? な、そこにいるのはナディーヌか……? 一体何を……!?」


 制止するアンリに、騒ぎを聞きつけてやって来たマシューが加わる。

 だが、リシャードは決意の面持ちで剣を取るようにナディーヌに促した。


「では……失礼いたします」

「なっ、やめろ、ナディーヌ! 正気か!?」

「お久しぶりです、お兄様。はい、正気ですわ。お父様は私の愛娘を殺そうとした挙げ句、私たち母娘を追い出したんですもの」


 強い光を紺色の瞳に湛え、ナディーヌは兄マシューに向き直る。


「それは……!」

「マシューよ、やめい! あれは我が犯した過ち。正々堂々と認めて償うのが男というものよ」

「父上……!」


 父の並々ならぬ気迫に押され、マシューは二の句が継げないでいた。

 そんな父子をちらりと見やると、ナディーヌはおもむろに訊ねた。


「お父様のお命頂戴する前にお二人にひとつお伺いいたします。もし今、私と娘がセランに戻りたいと言ったらどうします?」

「ナディーヌ!? いや、それは……」


 マシューは途端に目を泳がせる。

 セラン辺境伯の娘が妖魔の子を宿したというのは今でも大きな醜聞になり得るからだ。

 だが、リシャードは大きく頷いた。


「もちろん、喜んで迎え入れよう」


 この言葉に目を剥いたのはマシューだ。


「父上、私が口を挟むのは大変遺憾ですが……。そんなことをしたらセラン辺境伯爵家の信用が大きく削がれることになりかねませんぞ。ナディーヌには十分な金品を用意し、隠れ住む場所を用意して差し上げるのがよいかと……」


 現実的とも取れるマシューの提案だったが、リシャードは首を振った。


「マシューよ、おぬしの気持ちはわかる。まさに十七年前、儂も同じように考えたからな。隠れ家を用意し、その実匿うのはナディーヌのみ。娘は殺してしまえとな」


 まさに思っていたことを言い当てられ、マシューの瞳に動揺が走った。

 ナディーヌの視線を感じると、いたたまれなそうに目を逸らす。


「馬鹿なことをした。それによって儂の心に残ったのは、赤子を手をかけようとしたという自らの行為に対する耐えようもない罪悪感と、愛娘に手を差し伸べてやれなかったという後悔だけだった。のう、マシューよ。家族とは一体なんのためにある? 儂はナディーヌが一番助けを必要としているときに支えてやれなんだ。何が父親か。何が辺境伯か。父としてだけでなく、人としても儂は失格だったのだ」


 首にかかる剣が陽光を弾いて光る。

 滔々と紡がれる言葉は、この老人が長年切に溜め込んでいた真の心であることは、誰の目にも明らかだった。


「ナディーヌよ、もしおぬしが今一度儂を信じて機会をくれるというのなら、おぬしとおぬしの娘を守るために儂は命を投げ出そう」


 ナディーヌはそっと剣を下ろした。


「娘が半妖でも構わぬと?」 

「無論」

「けれど、娘が妖魔の子と蔑まれたら? もし、淫売と罵られたら? 一族がバルディアで爪弾きにされたら? 王に咎められたら……?」

「そうです、父上……!」


 マシューがリシャードに詰め寄る。

 だが、往年の武人の瞳には強い光が湛えられていた。


「——それがなんだ!!」


 もはや怒号だった。

 ほとんどむせび泣きながら、リシャードは思いの丈を語り尽くすかのようにナディーヌに向き合っていた。


「おぬしが石を投げられたら、儂が盾になり受けよう。おぬしの娘が害されることがないよう、この命賭けて守ろう……!」

「ですが、もし父上がナディーヌの娘に喰われるようなことがあったらどうするのですか!?」

「甘んじて喰われる!!」


 ナディーヌは顔を覆った。

 手の間から涙が伝っているのが見えると、思わずリシャードが近寄る。


 その肩にそっと手を置こうとした刹那、ナディーヌの手が目にも止まらぬ速さで振られた。

 ぱあんと大きな音が響く。

 ナディーヌの平手が張られたのだ。


 だが、リシャードはそれでも揺らぐことなくナディーヌの肩を支える。

 両目を真っ赤に腫らせたナディーヌはその手を振り払うと、きっとリシャードを睨みつけた。


「そんなにママを思っていたんだったら、どうして探しに来なかったのよ……!? 迷いの森なんて、セランからそんなに遠くなかったのに、馬鹿……!」

「…………!?」


 リシャードが驚きに目を見開いたそのときだった。

 アンリがそっとナディーヌに声をかける。


「ここまでにしましょう、ジョゼ」


 アンリを振り仰いだナディーヌの表情がくしゃりと歪む。

 まるで幼い娘のような顔つきになったナディーヌを、リシャードは驚きをもって見つめた。


「アンリ殿下!? どういうことですかな、これは……!?」


 その言葉が終わる前に、ナディーヌの輪郭がぐにゃりと揺らめいた。

 身体の線がいったん崩れ、またゆっくりと戻っていく。

 リシャードは驚愕に目を見張り、マシューはただ口を魚のようにぱくぱくと動かすのみだ。


 そこに現れたのは、艶めくような蜂蜜色の髪に、硝子玉のような水色の瞳を持つ少女だ。

 バルディアの若い娘がよく着るような木綿のブラウスに、ロングスカートを身に着けている。

 頭には金色の獣の耳、スカートの裾がふわふわと動いているのは尻尾であろう。

 

「おぬしは……! ナディーヌの娘か……?」


 ジョゼは無言で頷いた。


 アンリがジョゼを見守るようにそっと後ろに控える。

 その側には東方風の顔立ちの年若い侍女——メイメイも手を握りしめながら二人の様子を伺っていた。


 高度な变化の術を目の当たりにしたリシャードは、驚きを胸に収めると深く頭を垂れた。

 やがて、打ちひしがれたようにそっと訊ねる。


「おぬしだけが来たということは、ナディーヌは……?」

「三年前に亡くなったわ」

「…………そうか……三年……」 


 ジョゼはリシャードの瞳から涙が流れ落ちるのを見た。

 

 もう何も言うことはない。

 母はとうに死んでしまったのだ。

 懺悔の言葉も、悔恨の念も、もはや届くことはないのだ。


 持って行き場のない老人の慟哭が、セランの城を静かに満たしていった。

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