第24話 過去の記録

 煌々とした満月の光のもと、一人の男が荒涼とした山の頂上に舞い降りる。

 瘦せぎすの身体に不吉な青白い顔。

 そして背には巨大な蝙蝠の翼。

 吸血蝙蝠の妖魔、ノクトゥルである。

 

 折りたたむのと同時に翼は消え、ノクトゥルは石ころだらけの山頂をしばし歩く。

 やがて辿り着いたのは、大きな窪みが広がる場所。

 手をかざすと、ぐにゃりと目の前の空間が歪み、隠されていた入り口が出現する。

 ノクトゥルは躊躇うことなくそこに足を踏み入れた。

 

 繋がった先にあったのは、荒れ果てた廃城。

 かつては強大な主とともに栄えたその場所は、いまや完全に打ち捨てられて廃墟と化している。


「兵どもが夢の跡、ってやつかぁ」 


 寒々しい空気の中を、ノクトゥルの軽薄な独白が伝う。


 その目に映るのは、かつてそこにいた主や仲間たち。

 そして、愛した人——。


 埃だらけの回廊を迷いのない足取りで進むと、やがてたどり着いたのは玉座の間だ。  


 そこで石造りの玉座に腰掛けていたのは、迷いの森でジョゼを襲った男。

 世界の守護者である天翔族に「不老の魔術師」と呼ばれ恐れられる、隻眼に隻腕の魔術師グエンであった。


 だが、男はすこぶる具合が悪そうである。

 ジョゼの聖なる光で焼かれた顔はいまだに癒えておらず、ただれた肉が見えたままだ。


 男を前にするとノクトゥルは途端に表情を消して無言になった。 


「遅かったな。主が呼んだらすぐにまいれ」


 地の底を這うような低い声。

 気弱な人間であればこれだけで心臓を掴まれたような気分になるだろうが、ノクトゥルはただ平服しただけだ。


 口の悪いノクトゥルがこのように黙っていることなど不自然極まりない。

 アンリがかつて予想した通り、ノクトゥルは「不老の魔術師」の使い魔にされていたのだった。


「すみませんねぇ。この場所は以前あった結界の名残りで転移術も使えないんで」

「ガロフ屈指の大妖魔、狼王ロドルフォの城、か。貴様は元配下であったな。かつての主の居城で儂にかしずかねばならんとは皮肉なことだ」

「…………」


 ぐふぐふ、とグエンはいやらしい笑いをもらす。


 その口は時折苦痛に歪むものの、目だけは爛々と光っている。

 自分の力で無理やり従えている妖魔をさらに蔑むことで、自尊心を満足させているのだ。


 ノクトゥルは下を向いたままぴくりと眉を動かしたが、すぐに話題を変える。


「ところで、えー、魔術師どの? 憎き鳳凰帝をまんまと罠に嵌めたようですが、これからどうするんですかぁ?」


 鳳凰帝を弑するつもりかと、ノクトゥルは暗に問うていた。

 だが、その疑問は次の言葉で打ち消される。


「ふん、あやつを滅ぼすのは骨だからな。足止めできればよい。それより聖女の娘だ」


 グエンからは見えない角度で地面を見据えたままのノクトゥルの橙色の瞳が、一瞬光を放つ。


「……浮遊島にいては手出しできないのではぁ……?」

「なぁに、そのうち向こうから出てこよう。それまでに儂は力を戻さねばならん。しばらく『狭間』に籠ろう」

「『狭間』……この世と常世の境と言われている場所ですかぁ」


 グエンは頷いた。

 その拍子に顔から血がぼたぼたと垂れ、埃だらけの床をさらに汚した。


「留守中に妙な真似をするなよ。貴様の命は儂が握っているのだからな」


 そう言うと、グエンの右眼と左腕から——もとい、それらがあったはずの場所から黒煙のような邪気が噴き出す。

 ノクトゥルは咄嗟に顔を背けるが、目はその動きを余すところなく追う。


 黒いもやはグエンの身体を包むと、そのままある一点に吸い込まれるように消えていった。


(やっぱり、あの黒いもやに秘密がある……。「不老の魔術師」の正体、僕わかっちゃったかもぉ……)


 だが、それをジョゼに伝える術がない。


 グエンがジョゼを狙っているということは使い魔にされてすぐにわかった。

 ジョゼを手に入れるために、ノクトゥルはグエンの命じるままに彼女を追い詰めたのだ。


 もちろんそれはノクトゥルの本意ではなかった。

 仲間などと思っていないと冷たく突き放したときのジョゼの表情は、いつも頭の片隅にちらついていた。


(あー、もうどうしよぉ……)


 ノクトゥルの行動は制限されているし、そもそも妖魔の自分がのこのこ浮遊島に出向いたりしたらすぐに天翔族に見つかって殺されてしまうだろう。


(ジョゼ、近くに来いよぉ。奴が不在の今がチャンスなんだから……!)


 荒れ果てた玉座の間で一人、ノクトゥルは焦燥に駆られるのだった。


 




 浮遊島の中心部に位置する深紅の宮殿、天宮にジョゼはいた。

 アンリに案内されてやってきたのは、左右の壁いっぱいに本棚が設置された宰相専用の部屋。


 鳳凰帝の足取りを追うべく、まずはベルメロと鳳凰帝が本当に同一人物なのかを確認しようというのだ。

 天翔族の外征の資料を手際よく探し出し、内容を検分していく。


「この絵……似てるわ。ちょうどこんな感じの海だった」


 ジョゼが一冊の本の挿絵を指差した。

 紺碧の海に浮かぶ大小さまざまな島が鮮やかな色で描かれている。

 こういった色付きの挿絵は珍しいのだが、問題はそこではない。

 なにせ、描かれている風景が夢で見たものとそっくりなのだ。


「シャノワ国です。先日まで鳳凰帝陛下が妖魔討伐に訪れていた場所ですね。このような島々で構成された海洋国家で、陛下はこの海に出た妖魔を退治しに行かれたんです」

「じゃあ、やっぱりそうだと思う。夢で上空から島がたくさん見えたもの」

「ほかのも一応確認してみましょう」

 

 本棚にずらりと並ぶのはこれまでの軍事記録だ。

 年代ごとに整理が行き届いているようで、目当ての資料もすぐに見つかった。

 だが、並んだ本を目で遡っていくと、途中でぽっかりと空いている箇所があるのに気がつく。


「あそこは?」

「ここの年の記録はないんですよ。俺も不思議で陛下に聞いたことがあったんですけど、なぜかはぐらかされてしまって」

「ふぅん……?」


 空いている箇所を挟んで左右に置かれた本の年は、十九年前と二十一年前。

 ということはここには二〇年前の本がなくてはならないはず。


「ジョゼ、こっちもいいですか?」

「あ、うん……」


 なんとなく気にはなったものの、ジョゼはそのまま確認作業に戻った。

 

 その後あれこれと資料を引っ張り出して確認したが、やはり間違いない。

 あるときは平野、あるときは砂漠——これまでに見た夢の風景がことごとく資料に現れる。

 べルメロの現れた夢の風景と、鳳凰帝の外征先は一致していた。


「……どうやら間違いなさそうですね。でも、なんで陛下があなたの夢に?」

「そんなのこっちが訊きたいわよ」


 アンリは顎に手を当てた。

 その秀麗な横顔を見ながら、ジョゼはぽつりと言った。


「……もしかしたら、ママと何か関係があるかもしれない」

「ナディーヌおばさんと?」

「確証はないんだけど……ママとベルメロって、知り合いだったんじゃないかって思うのよね」


 母の話になると、ベルメロはいつも懐かしむような表情をしていた。

 けれど、母からは鳳凰帝と知り合いだったなどということはついぞ聞いたことがない。


 だがアンリは得たりとばかりに頷く。


「俺の母とナディーヌおばさんは親友同士だったわけですから、十分ありえます。それにナディーヌおばさんはバルディアの聖女だったという話ですからね。俺の母と陛下が知り合う以前にも面識がある可能性は否定できません。すでにその筋でも調査を進めていますから、今日明日には報告が入るでしょう」

「え。いつの間に……」

「一応、これでも仕事が早いと評判なんですよ」


 片目を瞑って見せられ、ジョゼは平静を装う。

 

「昼行灯じゃなかったってことね」

「せめて能ある鷹は爪を隠すって言ってくれませんか?」


 がくりとうなだれるアンリである。

 それを完全に無視して、ジョゼは地図やら資料やらを片付けようと手を伸ばす。


「ねえ、あなたそろそろ行ったほうがいいわよ。ヒュベルトがやきもきしてるんじゃない?」


 鳳凰帝の捜索活動は続いているのだ。

 朝早くにアンリの屋敷に迎えに来たヒュベルトは、宰相室で調べ物があるという二人を護衛するために部屋の外で待機している。

 宰相代理をしているアンリがいなくては進まない仕事がたくさんあるとぼやいていたので、きっと外で落ち着かずに待っていることだろう。

 だがアンリはどこ吹く風だ。


「第一皇子殿下が帰ってきていますから。俺はお役御免ですよ」


 そう言いながら片付けを手伝おうとしたアンリの手が、ジョゼの手に偶然触れる。

 ふと気がつくと、身体がくっつきそうなほどの距離にいる。

 ジョゼは慌ててアンリを突き飛ばそうとするが、例のごとくびくともしない。


「……もう、近いわよ! だいたいこんな調べ物だって、わたし一人で大丈夫だったのに……」

「何を言ってるんですか。危険な天翔族がうろうろしてる場所なんですから俺の側にいないと危ないですよ」

「あなただって天翔族じゃないの」

「いやまあ、それはそうなんですが」


 なんだかんだと言い合いをしていると、わざとらしい咳払いの音が響いた。

 どうやらしばらく前からそこにいたらしいヒュベルトが、部屋の隅で呆れたように腕組みしている。

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