ハードボイルドとブルームーン
美しき歌い
『前に付き合ってた男の家に忍び込み、置きっぱなしの彼女のブラを奪還する』
……なんだそりゃ。
「なんだそりゃ」
言ってやった。本当になんだそりゃである。
彰子はストールを肩に巻いて、熱々のビーフシチューに取り掛かっている。歌った分の賄いだそうだ。ストールのせいで、魅惑の鎖骨は隠れてしまった。ビーフシチューを垂らしてしまわないか心配だ。腹が減った気がしたので俺も頼んだ。彰子に出したばかりだから、俺にもすぐ出てくるかと思ったのだが、レトルトなので温めるのにもう少しかかるそうだ。
「あなたにしか頼めないのよ」
「ビーフシチューが?」
美女が食い物にがっつく姿を無条件に眺めるのもいいもんだ。
「それはさっき頼んだでしょう。じゃなくて。依頼の話よ。ふざけてるの?」
俺はいつだって本気だ。
「もう一度お願いします」
「あなたにしか頼めないのよ」
「何だ、俺の何を知ってるって言うんだ」
「ビーフシチューです」
「私は何でも知ってるのよ」
「おっ、きたきた。不公平だな」
「飲み物はどうします?」
「知りたいの? 私のこと……」
「おかわりで。同じのを」
「かしこまりました」
「あちちっ。……それで、なんだっけ?」
「あなたにしか頼めないのよ」
「そうなんだ。わかった。やろう」
「ずいぶん軽いのね」
「君の事をもっと知りたいんだ……」
「本当に軽いわね」
呆れた様子で大きめのジャガイモを頬張るが、それでも彼女の美貌は損なわれることは無かった。口がやや大きい派手めの顔立ちに、さらに真っ赤な口紅を引いてかなりの攻めの姿勢だが、それでも全体の調和がとれている。元がいいのと、化粧も上手いのだろう。切れ長のシャープな目に愛嬌も垣間見せる様は、クールであり、かつホットだ。こんな美女の依頼とあれば、少々難ありな案件でもこの俺は受けただろう。要はモチベーションの問題だ。
「それで、報酬は?」
ジャガイモが本当に大きかったようだ。彼女は返事をする代わりに指を五本開いた。タイミングが悪かったな、すまん。って、五万はちょっと安くないか?
「冗談じゃない、泥棒の片棒を担ぐんだぞ? いくらなんでも安すぎる」
うまいこと言えたし、ここは強気でいく。十万くらいは出してもらおうじゃないか。
「んん、馬鹿ねえ、ゼロがひとつ足りてないわよ」
ジャガイモをクリアして、彰子はそう言った。なるほどゼロがもうひとつ……五十万か!
「たかが下着に、正気か? それなら新調したほうが早いんじゃないか?」
「男にはわかんないでしょうね」
「いやわからんけど」
「とにかく、そうと決まったら、よろしくね? 探偵さん」
「こちらこそ!」
うまい話な事に間違いない。俺はそういうのには喜んで飛びつくタイプだ。
「詳しい事は後で送るわね。はい! お仕事の話はこれでおしまい! ……それよりも、ねえ、飲みましょ? 探偵さん?」
「お、おお!」
もう少し仕事の内容を聞いておきたい気もしなくもなかったが、彰子がそう言うなら仕方ない。俺は美女のお誘いには喜んで飛びつくタイプだ。ビーフシチューの残りを急いで掻き込んだ。
「そんなにがっつかないの……ふふっ。ねえマスター! ブルームーン、作ってくれる? この人に。タンカレーがいいかしら」
「ぶるーむーん?」
「カクテルよ。知らないの?」
「俺がカクテルの何を知ってるって言うんだ」
「私に訊かないでよ」
「ぶるーむーんです」
「おっ、きたきた。……可愛いな」
俺の前に出てきたのは、三角のグラスに注がれた、ほんのり紫がかった青色のカクテルだった。少しだけ濁りがあって、ちょっと大人なパステルカラーの仕上りだ。髭面のマスターにもこの俺にも不釣り合いなこと甚だしい。……彰子にこそ、持たせたい。きっとよく似合うだろう。
「可愛いだなんて、照れちゃう」
「そこら中でいつも言われてるんだろ?」
「いつだって嬉しいものよ」
「自信たっぷりに見えるが?」
「努力してるもの……こういう時のためにね」
彰子はターキーの入ったグラスを顔の高さに上げてみせた。俺もそれに倣い、そしてグラスを合わせた。
俺たちがあまりにもよろしくやってるせいか、彰子目当てのオッサンどもはいつの間にか消えていた。彼女は彼女で、それを気に掛ける様子はまるで無かった。大したもんだ。そもそも、彰子のステージがあるからってんでのこのこやって来る時点で負けなんだよな。勝利はいつも、俺のようなトンビがさらっていくんだ。
「私ね、ブルームーンの日に生まれたのよ」
「まるで言ってることがわからないのですが」
「今にわかるわ……知りたいんでしょう? 私のこと……」
彼女はそう言って、ずいっと肩を寄せてきた。
俺はドギマギするあまり、グラスの液体をぐいっとやって目を白黒させた。
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