ハードボイルド嘘つかない(reprise)

 金曜、夜。二十時。神保町。

 俺は再びクアドリフォリオにやってきた。由紀奈は留守番だ。客の入りは、前の時とそう変わらない。まだ時刻は浅い。この店のピークはこの後だ。カウンターの隅っこで烏龍茶のロックをちびちびやってると、裏から彰子が現れた。前と違いやや神妙な顔をしているように見えた。それは気のせいなのか、それとも俺のせいか。彼女は俺の隣に座った。

「やあ。来たよ」

「また烏龍茶なの?」

 真っ赤な口紅はステージ用だ。

「そりゃあな。ギムレットにはまだ早い」

「飲めないくせに」

「違うぞ、ただちょっと弱いだけだ」

「……ふふっ」

 少し表情が弛んだ。

「ありがとね、探偵さん。わざわざこっちまで来てくれて」

「初めだってそうだったろう」

 俺は煙を最後まで吐き出し、煙草を消す。

「――早速だが、これだ」

 紙袋に入れた例のブラを差し出した。彰子の顔がまたこわばる。

「ええ……」

 やはりというか、彰子はすぐにもブラを出そうと袋に手を入れた。一刻も早くmicroSDの所在を確かめたいのだ。

「あと、これな」

 俺は、別で持っていたそれをカウンターに置いた。ピクッと体を震わせる彰子。

「由紀奈がそれをいじってたらな、ポロッと出てきたんだ。彰子のだろ?」

「ん、ううん……」

 彰子は首を振った。首を振りながら、それを手に収めた。

「……見た?」

 恐る恐る、不安ばかりの目をして訊いてくる。この彰子がこんな顔をするとはな。

「何がだ?」

「中身……」

「いいや? 俺パソコンわからない」

「本当に?」

「前も言ったろ、ハードボイルド嘘つかない」

 ごくごく軽い調子を努めた。

「そう……」

 何かを飲み込むような頷きだった。

「ああ、いけない、報酬ね」

 ハンドバッグの隙間から、厚みのある封筒を出してカウンターに載せた。分厚い以外は、ただの茶封筒だ。

「うー、よし! いただくぞ」

 俺は勢いをつけて椅子から降り、両手を合わせた。

「――ブラジャーの一枚くらい、五千円もありゃ買えると思ってたんだけどな。それは、これくらいはするんだろ?」

 札を五枚、封筒から抜き出してみせた。

「あとは釣りだ。それでもっといいブラを買うといい」

「…………」

 彰子は唖然とした顔だ。かわいい。

「ああちなみに」

「な、何?」

「俺は黒よりも、赤が好きだ。じゃあな」

「ええっ? 帰っちゃうの? 聴いてかないの?」

「残念だな、俺はジャズは苦手なもんでな」

「そう……」

「俺と結婚したくなったら、呼んでくれ」

「えっ……何よ、それ!」

「ははっ」

「――ふふっ」


 そして俺は店を後にした。最後に、「またね」と彰子が言った気がした。それはただの俺の願望か。ああ今頃彼女はきっと、ものすごくいい歌を歌っているんだろうな。俺にはわかっていた。正直、聴きたかった。スマホが鳴った。由紀奈だった。

『かっこつけすぎー』

「聞いてたのか。このスケベ」

『ちゃんと録音してましたー』

「じゃあ、報告書も頼むな」

『自分でやれー』

「もういいだろ? 切るぞ」

『ご勝手にー』

 俺は由紀奈との通話を切ると、スマホをコートのポケットに突っ込み、とぼとぼと坂を上っていった。例の作戦以来、東京は晴れが続いている。十一月がもうすぐ終わる。それまでずっと、降らなきゃいい。彰子も全て、忘れればいい。



 それから数日経ったある日、でかいニュースがブチ上がった。兵頭則泰が収賄と脱税の容疑で逮捕されたというのだ。そして南麻布のあの邸宅に大々的な捜索が入り、すぐに兵頭は起訴された。あっという間の大失脚だった。最近じゃあ珍しいでかいヤマだ。与党は溜まった膿が出せたとかいう声もちらほら聞いた。まあこんなただの探偵の俺にとっちゃ関係の無い世界の話だし、それに彰子が関わってるのかどうかも、俺は知らない。


                                ~つづく






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