ハードボイルドへの道

 ふと俺は、妙な既視感を覚えた。明かりの点いた兵頭の寝室。俺はここに来たことがあるのか? そんな訳は無い。デジャヴか。今はそれどころじゃないんだけどな。

「おゥ……昼間の水道屋じゃねェか」

 ああそうか、こいつ、偵察の時にいたじゃないか。用心棒Bは、おれに熱い視線を浴びせてきたあの大男だ。

「また会えたね!」

「はッ、ふざけんなァ。ふざけた格好しやがってェ」

「お? ――おお!」

 そういや俺は黒ブラを着けたままだった。

「見るなよ、これは大事なモノなんだ」

 俺の大事な彰子のブラだ。傷つけられちゃかなわん。俺はゆっくりとブラの袖(袖だと?)から腕を抜き、ベッドの上へ放った。

「お前こそ、その格好はどうなんだ?」

「はァ?」

 Bは上下お揃いのパジャマ姿だった。地味なグレーの格子柄だ。

「お休み中だったのか? それはすまなかったな」

「へッ、交代制なんでな!」

 そう言うとBは勢いよくパジャマの上を脱ぎ捨てた。やる気があるのはいいことだが、それでも意外に落ち着いたお返事だ。挑発のつもりだったが甘かった。こいつめ、なかなかいい体つきをしている。姿勢がいい。ボーボーの胸毛が眩しい。

「なるほど。よく起きれたもんだ」

 仕方ないなと、俺も水色ツナギのチャックをヘソまで下ろし、諸肌もろはだ脱いだ。自慢の広背筋が露わになった。俺の驚異的な胸囲の秘密はこれだ。由紀奈、見てるか?

「相方が寝ちまったもんでなァ」

 Bは廊下でのびてるAを顎で指してそう言うと、左肩を前に構え、腰をグッと下ろした。重量感がある。芯もある。これはちょいと、手こずるか?

「そいつはひとり寂しく恋占いをしてたみたいだぞ?」

 俺の問いに、Bはフッと鼻で返した。腹が立った。いや落ち着け。自分でも微妙だと思ったろ? 不発だって気にするな。ハードボイルドの掟を忘れるな。心頭を滅却し、俺流のファイティングポーズをとる。右肩が前だ。サウスポーの構えだが、俺は右利きだ。例によってつま先に体重をかけ、前後に軽くリズムを取り、全身のバネを活性化させていく。

「…………」

 俺たちの間に、もはや言葉は不要だった。互いにじっと見つめ合う。胸の鼓動が高鳴る。湧き上がるこの気持ち。これは勝利の予感だ。何せ、相手は寝起きだからな。

「…………」

 ひょっとしたら、この俺の規則正しい動きを見て、また眠くなってくれるかもしれない。そんな可能性がふと頭をよぎったその時だった――

 ビーッ! ビーッ! ビーッ! ビーッ!

 警報音が鳴り響いた。兵頭邸の機械警備が発報したのだ。同時に、ベッドの上に置いた俺のスマホも全面赤く発光しだした。こっちは由紀奈の警備員アラートだ。

「はッ!?」

 俺じゃないぞ。気をとられたのはBの方だ。

「パォゥッ!」

 愚かにも横を向いたBのテンプルに、手刀めいた掌底を放った。が、浅かった。芯を捉えるほどでは無かった。

「ウォワッ! リャアッ! ゴォワ!」

 すかさず突き上げハイキック、ちょっと欲張ったなとミドルキック、やっぱり謙虚にローキックとガシガシ前進しながら連続で蹴り込んだが、いなされ、避けられ、かわされた。むう。ホームセキュリティの警備員がやって来るまで、あと数分。これはまずい。由紀奈はきっとモニターの向こうでわめいてる。勝利の予感はどこへ行った!?

 ――というのは冗談だ。俺は決して焦らない。クリーンヒットこそしてないが、Bを壁際まで後退させた。こうなると、反射的に前に出ようとしちまうのが脳筋の心理だ。侵入者である俺が、部屋の戸口から逃げる素振りを見せたならなおのことだ。こいつはまだ賢いほうだが、それでもやはり脳筋止まりだったようだ。

「ふんっ! むんっ! ぶぅん!」

 自分のターンとばかりに、蹴りと突きとのコンビネーションを繰り出してきた。その流れをとっくに見越していた俺は、断続的小刻み後ずさりバックステップでそれらをかわし、そして――

「ふぅんっ!」

 Bの脳筋すぎる前蹴りを、後ろではなく横へ最小限の動きで避け、急激に間合いを詰める。五十センチ。三十センチ。俺の拳まで、三センチ――

「ゥワタァッ!」

 瞬間、Bの体が吹っ飛ぶ。ちょうど今進んできた距離だけ飛ばされ、倒れこみ、頭を壁にゴチン。カウンター気味に入ったから、これは飛距離以上の衝撃だ。

 何をやったのかって? 寸勁ってヤツだ。Bのこれまたみぞおちに、俺の全身のバネの爆裂を、右の拳でブチ込んだ。もっと言おう。左足から蹴り出し、右足を踏み込み、そのパワーを自慢の広背筋で増幅し、その全てを乗せて右拳から押し込んだ。瞬間的に、弓を引き絞って放った感じか。Bの真芯を捉えた感触があった。こいつは効いたぞ。多少の体格の差が問題にならない、そのくらいの運動量が、拳の一点から放たれるんだ。俺くらいになれば、小錦だってブッ飛ばせる。

 Bがよろよろと立ち上がった。が、ダメージを深く浸透させたから、満足な動きはまず無理だ。あとは頭に一発、決めればいい。

「ォワリャアアーッ! ハァーッ!」

 まるで容赦の無い俺だ。大きく踏み込んでジャンプし、顎をスパーンと蹴り上げた。名付けて、ハードボイルドキックだ。決まった。

 Bは体の統制を失い、受け身もとれないまま、床に沈んだ。俺の勝ちだ。






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