ハードボイルド騙されない

 月曜。事務所を開けるかどうか少し迷ったが、迷ったまま午後になって由紀奈が来た。

「ちーす。やってるー?」

「……やってるような、やってないような」

「それ、やってないって言うんだよ」

「じゃあやってない。今日は閉店だ。帰っていいぞ」

「うわ腹立つ。仕事しろよ。愛しの彰子ちゃんが待ってるぞー」

「えっ彰子ちゃん!? どこどこ?」

「そーいうのつまんないからやめなよ。例の資料見た? てか何見てんの」

「『マノン・レスコー』だが」

「あープッチーニね。好きだねー」

「プッチーニさんと呼べ」

 我がハードボイルド探偵事務所の応接スペースの壁面には、隠し4Kテレビが仕込んである。実は、スピーカーとウーファーも目立たぬよう別で設置している。わざわざ天気予報を59インチの大画面で見る趣味は無いが、オペラなんかを鑑賞するにはなかなか贅沢な環境だ。何せ、事務所のリビングはかなりの広さがあるからな。さすがに野球は無理だが、相撲のひとつくらいは余裕で取れる。そして俺は、そのでかい音場でプッチーニさんの出世作である『マノン・レスコー』をだらだらと鑑賞してたって訳だ。

「はいはいプッチーニさんプッチーニさん。って、そうじゃねーだろ。例の資料見たのかって」

「……馬鹿な男だ」

「言うねー」

「騎士グリュウ」

「そっち。まーね。バカだよね。女もだけど」

「マノンちゃんは悪くない!」

 男を破滅させる悪女、ファム・ファタール。『マノン・レスコー』のヒロインであるマノンちゃんは、文学作品におけるファムファタの草分け的存在らしいが、俺はマノンちゃん擁護派だ。こんなのは男が悪いに決まってる。マノンちゃんは馬鹿なデ・グリュウのとばっちりを受けただけだ。

「冷静になれよ。それじゃ淳ちゃんグリュウのお仲間じゃん」

「ハードボイルドは女に甘いのさ」

「真っ先に騙されるタイプだ」

「ハードボイルド騙されない」

「言ってろし。てかいーかげんそれ消しな。資料見たのかって訊いてんの。怒るぞ」

「はい……」

 俺はしぶしぶと、いや、粛々と、超スローモーションでテレビとプレーヤーの電源を切り、隠しスイッチを押してそれらの装置を壁に収納した。

「……これだから女は」

「あ?」

「あーいやいや、これな、これこれ。兵頭ひょうどう則泰のりやすな」

 俺は自分の探偵机に置いてあった資料を手に取り、バサバサと振ってみせた。

「やーっと本題に入った」

 由紀奈はやっとどいたかと俺の座っていたソファにぽすっと尻を落とし、膝を抱えて背をもたせかけた。

「――与党内に自分の派閥を持つほどの大物政治家だ」

「らしいねー」

「地方議会議員時代から色々と黒い噂は絶えない」

「大物だもんねー」

「大物だな……」

 彰子が普通に前の彼などと言うものだから、普通のどこかの一般人を想定していただけに、それを知った時は正直驚いた。驚いたが、顔には出さないのがハードボイルドだ。

「港区南麻布在住。妻は五年前に他界し、息子が三人いるが皆独立している……ということは……」

「てことはー?」

「不倫にはあたらないな。ホッ」

「そこかよ」

「もう七十越えてるよな? 役に立つのか?」

「下世話だねー。やっぱ金じゃないの?」

「やめろ。彰子ちゃんのイメージが傷つく」

「あっちの心配しといて何言ってんの」

「つまり純愛なんじゃないかって……」

「冷静になれよ」

「マノンちゃんとデ・グリュウのような……」

「まだ言うか。てかあいつら普通にやりまくってたじゃん」

「介護という線も?」

「ねーわ。ふつーに国会議員やってんでしょ? ならふつーに家政婦とか雇ってんじゃないの」

「そうですね」

「もしかして用心棒とかもいるんじゃないのー。あーこりゃ大変だ。頑張れー」

「そうか! だから俺に頼るしか無かったんだな、彰子ちゃんは!」

「ふーん。でもなんでブラ忘れたんだろ。ノーブラで帰るとかふつー無いよね」

「ノーブラでも問題無いサイズという事では」

 無言で蹴られた。俺とした事が、一瞬で間合いを詰められた。

「あーわかった、よくお泊まりしてたから置きブラしてたんだよ。それでうっかり回収し忘れちゃったんだ。なるほどねー」

「ということは、置きパンツもあるな?」

「何がしたいんだお前は」

「よし、じゃあ由紀奈、兵頭の今週の動きを調べてくれ。あと、兵頭の自宅のことも。出入りしてる人間の種類と数を把握したい。時間単位での動きまでわかると助かる。そうしたら、間取りの詳細も欲しい。侵入ルートを考える必要があるからな。何かいいプランがあれば教えてくれ。そうだ、どうせホームセキュリティも何か掛けてるだろうから、その対策も頼む」

「よし、じゃねーけど。全部じゃん。淳ちゃんは何すんの」

「決まってるだろ、実際に現地で偵察だ。俺は自分の目で見たものしか信じないんだ。それが一番確実だからな」

「自分が何を言ってんのかわかって言ってる?」

「じゃあ行ってくる。あとはよろしく。ああやっぱりよそう。明日にします」

「どしたの?」

「俺は気分屋なんだ」

「勝手にしろー」

 そういう訳で、今日のところはこれくらいにしておいた。由紀奈の集めた情報を元に行動すれば、明日の偵察はより実のあるものになるだろうという読みだ。






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