ハードボイルドは面倒くさい

 は? と言いたげな顔をするマスターに、俺は本気であることを真剣な眼差しでアピールする。初めて来た店では、いつもそうだ。決まって同じ反応をされる。まあ仕方ないだろう。酒が飲めないわけじゃあない。ただ、ちょっとばかり、弱いのだ。

 家、というか事務所には、バーボンの中のバーボン、ワイルドターキーの瓶を常備している。飲む時はもちろんロックだが、かなり割る(それは水割りなんじゃないかって? 違うのだ)。なかなか減らないから経済的だ。これがビールなら、一缶の半分も飲めずに捨ててしまうはめになるからな。

 一本目の煙草に火を点けた。俺はいつだって、ラッキーストライクだ。そう、いつだって、だ。これが重要なんだ。そして、ライターはというと……おっと、烏龍茶のロックが俺の前に置かれた。傍目には何がしかのバーボンのロックにしか見えないことだろう。一杯目を頼んでしまえば、あとはおかわりとだけ言えばよい。ここまで来れば気楽なもんだ。ようやく俺のペースになってきたな。

 女の歌は続いているが、こうして背中を向けていればまだましだ。ジャズのスタンダードか。曲名までは思い出そうとはしない。そもそも、俺はジャズというやつがあまり好きじゃないんだ。どうにも鼻について仕方ない。あの女の歌い方も、その典型だ。まあ、もうしばらくの辛抱だろう、約束の時間はとうに過ぎている。ひとまず、待つとするか……。


“――And I followed her to the station

 With a suitcase in my hand...”


 女の歌が流れて来る。次の曲に移っていた。これは悪くない。ちらと肩ごしにそっちへ目をやった。ステージは俺から見て斜め後ろだ。


“Well, it's hard to tell, it's hard to tell

 When all your love's in vain

 All my love's in vain”


 女はあまり装飾の無いシンプルな黒のイブニングドレスを纏い、これまた真っ黒な髪をアップに纏めていた。


“When the train, it left the station

 With two lights on behind...”


 元は高いであろう声音を、低く殺して吐き出していた。


“Well, the blue light was my blues

 And the red light was my mind

 All my love's in vain...”


 詞の終わり際、俺に目を合わせてきた。意味深げな笑みを、続くスキャットに含ませた。唇の赤が、鮮烈でござった。

 ステージはこの曲が最後だった。女はブツッとスタンドマイクのスイッチを切り、軽く頭を下げた。俺は誰にも気取られぬよう、こっそり目頭を押さえた。なに、ちょっと目が疲れただけだ。決して歌に感じ入ったとか、そういう訳じゃあないからな。歌の意味など何もわかっちゃいない客どもの横柄な拍手と、「イヨッ」「フゥ!」なんてオッサン臭い賞賛の掛け声が入った。

 嫌な予感がしていた。ピアノを弾いていた男は、さっさと店のバックヤードへ入っていったが、一方、女はというと、寄ってくるオッサンどもを愛想よく適当にあしらいながら、真っ直ぐ俺のところへ向かってくる。まずい。俺は、あなたの動きなぞ見てませんよという体裁を慌てて取り繕った。

「隣、いいかしら? 探偵さん」

「!…………」

 やっぱりだ。悪い予感は大当たりだ。俺の返事も待たずに隣の椅子をちゃっかり占めやがったこの女こそが、今回の依頼人だ。






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