第16話 倒れた妻1
なにか胸騒ぎがする。
視察を終えたオルティウスはできるだけ早くにイプスニカ城へと帰還をしたかったのだが、雨脚は増すばかりだった。途中の道が思った以上にぬかるみ迂回を余儀なくされ、結局イプスニカ城に帰りついたのは翌日の昼過ぎのことだった。
帰還したオルティウスにもたらされたのは衝撃的な知らせだった。
「王妃がバーネット夫人に殺されかけただと⁉」
驚きのあまり大きな声を出せば知らせに飛んできた侍従と女官が深々と頭を下げた。
「それで、王妃は無事なのか?」
「一命はとりとめましたが、酷い熱を出しております」
女官の返事にオルティウスは王妃の寝所へと急いだ。
あの娘がウィーディアの身代わりで、ゼルスの正妃の産んだ王女と同い年の異母妹であることは視察へ向かう日の朝に伝えられていた。彼女の本当の名前はエデルというらしい。ガリューがもたらしたその報告はそれなりにオルティウスとヴィオスを驚かせた。
それと同時にバーネット夫人のあの態度に納得もした。
あの女がエデルに向ける瞳には違和感があった。主の娘に対するそれとは違う異質なもの。けれども、エデルが王の愛妾の娘だというのなら納得がいった。
ガリューはゼルス宮殿内の様子をまるで本当に見聞きしてきたかのように話した。
曰く、「王妃イースウィアはエデル王女、今ここにいるウィーディア様を下女のように扱い憎んでいたようですよ。まあ、たしかに夫から愛妾の産んだ娘を自分の娘と同じように王女として育てろと言われたらいい気はしないでしょう。もともと相当に気位の高いお人柄だったようですから」とのこと。
ゼルスの宮殿内でエデルは異質だった。そして誰も触れることは許されない空気のような存在だったようだ。
それでもオルティウスは心の中で高をくくっていた。
和平のために嫁いできたエデルを、バーネット夫人といえど殺すはずもないと。
しかし。
オルティウスは己の浅はかさを呪った。
バーネット夫人は王の不在を好機とみてエデルを暗殺しようとしたのだ。
あの女の態度を訝しんでいたのに、彼女をエデルから遠ざけるだけでゼルスに送り返さなかったのはこちら側の落ち度だ。
彼女はゼルス側から寄越されたウィーディアの付添人で、今回の婚姻に際して正式な使者として公文書にも名を連ねてある。ゼルスの有力貴族の出で、宮廷では長年王妃イースウィアの筆頭女官を務めていた。身分的に申し分のない女だからこそゼルスの王妃は隣国へ嫁ぐ仇の娘の付添人にバーネット夫人を定めた。
通された王妃の間の寝台の中で、エデルは浅い呼吸を繰り返していた。熱のせいで頬は赤く染まっており、瞳は閉じられたまま。
意識のないエデルはオルティウスに気づくことも無く、ただひたすらに弱っていた。
このまま死んでしまうのではないか。
オルティウスは己の中に湧き上がった恐怖に、すぐに頭を振った。
そんなことはない。
「陛下。ご報告を」
留守を任せていた侍従長が控えめに声を掛けてきた。
オルティウスは後ろ髪を引かれたが、侍従長と侍医の話を聞くために場所を移した。エデルの側では複数人の女官がつきっきりで看病をしている。
比較的小さな部屋でオルティウスは侍従長から報告を聞いた。
それによると、バーネット夫人の凶行を発見したのは王妃付きの侍女ユリエだった。
ユリエは昨晩の雷鳴に驚いて寝付けなくなった。
外は酷い嵐のような様相で、しばらく逡巡した後、王妃殿下がもしも怖がっていたらと考えそっと寝台から降りた。
夜間に主人の部屋へ訪れるのはよほどのことが無い限りは行われない。呼ばれてもいないのに王妃の間へ行くことは憚られることくらい重々承知なのに、どうにも嫌な予感がした。場内は定期的に見張りの兵が闊歩している。
ユリエは寝間着の上から上着を羽織り、王妃の間の近くの部屋へ滑り込んだ。
ユリエからみた王妃ウィーディアは美しく儚げで、侍女である彼女に対しても気遣ってくれる優しい主人だった。一緒に過ごすうちにすっかりほだされて庇護欲を駆られてしまった彼女は雷鳴が轟く中、露台へと続くガラス戸が不自然に開いているのを見つけた。
そして。暗闇の中、瞳に人影が映った。
恐怖で足が凍り付いたが、ユリエは己が王妃付きの侍女でイプスニカ城に奉仕する者だという矜持を体中からかき集めた。曲者ならば己がどうにかしなければならない。
「それでユリエという侍女はバーネット夫人が……王妃を殺そうとしている現場を目撃し、無我夢中で止めたということか」
「ひどくもみ合いになりましたがなんとか」
「あの女は刃物を持っていたのだろう。ユリエという侍女にけがは無かったのか?」
「幸いにも」
それからすぐに見張りの兵を呼び、他の女官や侍従を叩き起こし、バーネット夫人を捕らえた。保護されたエデルは全身びしょ濡れで酷く冷えていた。
すぐに体を拭き、濡れた夜着を取り払い体を温めたが、エデルは意識を取り戻すことは無くそのまま熱を出し今に至っている。
「王妃の容体は?」
「熱が高いのでなんとも。処置は施しましたが、あとは彼女の体力次第というしか……」
侍医の返事にオルティウスは打ちのめされた。
この時代風邪をこじらせて死んでしまう者など決して少なくはない。それは王族だろうが同じことだった。
オルティウスはこぶしを強く握りしめた。
いま自分にできることなど何もない。すべては終わっていた。
バーネット夫人は貴人用の牢に運ばれたと報告を受けている。
今彼女に会いに行けば怒りに身を任せ、そのままこの手で絞め殺してしまいそうだ。
オルティウスは最後にもう一度エデルを見舞い、執務に戻ることにした。
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