第86話 レゼクネ宮殿での休暇 前編
春先にこの国を訪れたアマディウス使節団が帰途につき、ルクスに平素の静けさが戻り数週間が経過していた。
エデルはフォルティスを連れ、オルティウスよりも一足先にレゼクネ宮殿へ到着した。王族と同じく有力貴族たちも移動するため、夏の社交はこの地を中心に行われる。
エデルはリンテと二人で離宮周辺に広がる森の散策を楽しんでいた。
「お義姉様、あちらのルビエラも摘み頃です」
「深い赤色が美しいわね」
「それにとっても美味しそう! ルビエラはソースだけじゃなくてシロップ漬けにしても美味しいの。お酒にもなるのですって」
手に持つ籠には宝石のように深い赤色に熟れたルビエラがたくさん入れられている。
大人の胸の丈ほどのルビエラの木は、オストロム国内の広い場所で群生しており、柔らかな果実は甘酸っぱく、様々な食品に加工される。ジャムやシロップ漬け、肉類のソースなど、オストロムでは広く親しまれている。
「ジャムをヨーグルトに入れたり、パンに塗っても美味しかったわ」
「たくさん摘んだから、料理番に頼んでジャムを作ってもらいましょう!」
エデルが一昨年の離宮滞在の思い出を口にすればリンテが名案だとばかりに声を弾ませた。
王家主催の狩りの前日、婦人たちが集まりこの国の肉料理によく使われるルビエラを摘む。たくさんの肉料理が並ぶことを前提に、たくさんのルビエラを摘むのが狩り前日の恒例行事だ。
今行っているのはそれとは別の、ごく私的なものだ。リンテの提案通り、今日摘んだ赤い実でジャムを作ってもらったら。きっと、パンもヨーグルトも一層美味しく感じられるだろう。
周囲を自然に囲まれているため、離宮で供される食事はどれも新鮮だ。近くの牧場から搾りたての牛や羊の乳が届くからだ。
だからついつい食べ過ぎてしまう。エデルは一昨年のことを懐かしく思い出す。
あの時はまだフォルティスは生まれていなかった。彼にはたくさんの景色を見せてあげたい。
「そうだわ。明日の早い時間なら空いているの。ルベルムもこちらに到着をしているのだし、皆で牧場を見学しに行くのはどうかしら。ティースに羊や牛を見せてあげたいの」
「それは楽しそうだけれど……ルベルムは来ないと思います」
エデルの提案にリンテの顔が曇った。そして面白くなさそうに唇を少々尖らせる。
「あの子、狩りのことで頭がいっぱいだもの。騎士見習いの、同じ年頃の男の子たちを離宮に連れてきていて……男の子だけでつるんでいるだもの」
面白くない、という感情を隠しきれず声に載せるリンテの指先にそっと触れる。
リンテはぎゅっと唇を引き結んだ。
ルベルムにとって今年は特別な夏だ。悲願であった夏の狩りへの参加が叶うのだ。
落馬事故で二番目の子を亡くしたミルテアは、同じことを恐れてルベルムの狩りへの参加を頑なに許可してこなかった。
騎馬民族の流れを汲むオストロム人は男女を問わず今でも乗馬を嗜む風潮がある。馬を操ってこそ、勇敢なオストロムの男だと言われるほどで、特に王族ではこれが顕著だ。
ルベルムは秋になれば十四歳になる。王家の男として表舞台に立つ頃合いだというオルティウスの意向の元、ついにミルテアが折れた。
本当は昨年参加する予定だったのだが、前述の通り夏の離宮行きがなくなったため、狩りが行われたなかったのだ。
念願叶ったルベルムの意気込みは並々ならぬものがある。彼は現在騎士見習いとして王立軍門下で寄宿生活を送っており、同じ寄宿生の参加も予定されている。
有力貴族は子息を狩りに同行させる。同じ年頃の少年同士、話も合うのだろう。
だが、蚊帳の外に置かれているリンテはそれが面白くない。今まで何をするにも一緒だった双子の道が分かれつつある。
「せっかく今年はティースもいて賑やかなのに」
リンテはぽいと口の中にルビエラの実を放り込む。
「大丈夫、きっと来てくれるわ」
「そりゃあ……お義姉様が誘えば応じるかもしれないけれど……」
リンテは眉根をギュッと寄せたままだ。自分の誘いには素っ気ないくせに、とその顔が物語っていた。
「今年は女の子も多数この土地を訪れているのだと、ヤニシーク夫人から聞いたわ」
「それだって結局はルベルム目当ての子たちよ」
ふてくされたリンテだったが、気分を変えるように首を数度左右に振った。
「わたしにはお義姉様がいるもの。そうだわ、明日牧場に行くのならバスケットに昼食を詰めてもらって、見晴らしのいい場所で食べるのも楽しそう! ねえ、いい考えだと思いませんか?」
憂鬱さを振り切るように明るい声を出したリンテは背後に控える女官に窺った。
女官が頷くと、目を輝かせ明日の計画を練り始める。
「おや、楽しそうな計画を立てておいでですね。リンテ殿下」
「ガリュー!」
リンテが驚き声を上げた。
近付いてきたのはオルティウスと彼の側近であるガリューだ。近日中には合流すると聞いていたが、まさか今日だとは思わなかった。きっと、離宮に到着したその足でこちらに赴いたのだろう。
数日ぶりに会う夫の姿に胸が甘くうずき、エデルは彼の側へ寄る。
「離宮での生活はどうだ? 不自由はないか?」
「はい。とても快適です」
返事をすると、オルティウスが頷いた。
「ルビエラの実か。懐かしいな」
オルティウスがエデルが腕に下げる籠の中を覗く。深紅に輝くルビエラは宝石のように美しい。
初めてこの離宮を訪れた一昨年、早朝二人で散策した光景が蘇る。
それはきっと、彼も同じだったのだろう。手近な枝から真っ赤な実を摘み、エデルの口元へ運んだ。そっと口を開くと彼が手ずから食べさせてくれる。
「美味しいです」
数日ぶりの触れ合いに心が躍る。もう少し二人の時間を過ごしたいという思いは共通のものだったのか、二人はルビエラの実に誘われるように群生地の奥へ進んだ。
風の囁きが耳に届く。どこかで小鳥が軽やかに歌っている。
緑色の木々たちの静寂に、胸の奥がふるりと切なく震えた。
たった数日離れただけなのに、夜一人で眠る寝台が寂しくて。
どちらからともなく引かれ、唇を合わせた。当然の権利だとばかりに、オルティウスがエデルの後頭部へ手のひらを添え引き寄せる。呼吸ごと呑み込まれるような深い口付けに、頭の芯に靄がかかりだす。
彼に近付きたくてつま先に力を込めたその時、「お義姉様ー」というリンテの声を耳が拾った。
二人は同時に顔を離した。
顔が赤くなっている自信ならある。エデルは慌てて頬を摘まみ、ぐにぐに動かした。
「悪い。そういえば……リンテたちもいたのだったな」
オルティウスはばつが悪そうに一度頭を掻いた。エデルはぷるぷると頭を振った。彼だけが悪いのではない。
二人でリンテたちのところで戻ると、ずいぶんとご機嫌であった。彼女はエデルの姿を認めると堰を切ったように話し出す。
「あのね、ガリューが教えてくれたのだけれど、今年はわたしと同じように乗馬が得意な女の子も離宮近くに滞在しているのですって。そのうちレゼクネ宮殿にも挨拶に来るだろうって。わたしとっても楽しみだわ!」
「リンテ殿下とルベルム殿下はもうまもなく十四歳。そろそろ表舞台に出る頃合いだと、諸侯たちが例年以上に子供たちを帯同させているのです」
「わたし、乗馬が好きな子となら仲良くなれそうな気がするわ」
くるくると回り出すリンテをエデルは微笑ましい気持ちで見守った。
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こちらはセルフ没にしたので、供養です。
どのシーンを採用するか毎回頭を悩ませます
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