第75話 リンテの素敵なおねえさま
ちくちくと針を動かしていく。剣は器用に操れるのに、細い針はとても苦手だ。
(ああもう。ぜんっぜん進まないわっ!)
ほんの少しずつ針の位置をずらして模様を刻んでいくため、遅々として進まない。
リンテは、はっきりいって縫物が嫌いだ。刺繍など、正気の沙汰ではない。
「リンテ、少し休憩する?」
長く息を吐いたことに気が付いたのか、隣に座るエデルが声を掛けてきた。
すみれのように可憐な声は、彼女の儚げな容貌にとても合う。
リンテがこくりと頷くと、エデルが部屋の隅に控える侍女に視線で合図をした。部屋の中に布ずれの音が聞こえた。
「ちっとも進まないわ。うううう、むずむずする」
かれこれ一時間近くが経過をしている。刺繍は淑女の嗜みだと言われても、これの良さがちっとも理解できない。
「昨日よりもだいぶ進んだわ」
エデルがふわりと微笑んだ。
「……大分、ねえ」
どうだろう。今作っているのはルベルムのための剣帯なのだが、慣れないことをしているせいもあって、どうにもいびつだ。
「ルベルムも喜んでくれるわ」
「そうですねえ……」
駄目だししかされない未来が間近に見えて、リンテは、ふぅっと息を吐いた。
ちらりと横を見やると、エデルの刺しかけの剣帯が見える。比べる間でもない出来栄えに、落ち込みたくなる。
これが、淑女とそうでない者の差ということか。
自分で考えて消沈した。
「わたし、やっぱりリースナーとお外を駆けまわるほうが好きだなあ」
リンテは体を動かく方が好きなのだ。
剣の稽古も、乗馬の訓練も、雪遊びも等しく好き。
「リンテの騎乗姿、とても凛々しくて好きよ」
「あ、ありがとう」
楚々とした可憐なエデルに褒められると頬が赤くなる。
兄であり、オストロムの国王陛下であるオルティウスの妻といえど、エデルはまだ十代。十二歳になったリンテにとっては一番身近なお姉さん。
これまでリンテの周りには母や家庭教師といった年の離れすぎた女性しかいなかったため、彼女たちから「勉強を怠ると立派な淑女になれません」と言われても今一つ実感がわかなかった。
手本にすべき、妙齢の娘がいなかったからだ。むしろ、妙齢の女騎士のほうが身近にいた。
彼女たちに憧れて、リンテの将来の夢は女騎士だったくらいだ。その夢は今も変わらないのだが、エデルと親しくなって、なるほど、立派な淑女というのは彼女のような人のことを言うのだ、と日々実感している。
とにかく、エデルツィーア・ロウム・オストロムという女性はすごいのだ。何がどうすごいかというと、まず美しく儚げな見た目をしている。絵本の中から飛び出てきたような可憐で守りたくなる容姿をしているし、始終穏やかで、下々の人間にも優しく寛容だ。
それに礼儀作法も完ぺきで、刺繍の腕もとても良い。
二人の刺繍の時間はリンテのやる気を出させるためのものだ。エデルと一緒なら頑張れると口にしてみたら実現をした。実際、お堅い家庭教師から習うよりも大好きな義姉から教わる方が素直に言うことを聞ける。
退屈な刺繍の時間だって、義姉との時間だと思うと耐えられるのだ。
侍女たちがお茶の用意をしている間に、二人は机の上の裁縫道具を片付ける。
「どうして刺繡をしないといけないのかしら。人には得手不得手があるのに」
「いつか、大切な人が出来た時に剣帯や手巾に刺繍をしてあげたいって。大事な人に心の一部を預けたいって思ったときのためではないかしら」
「大切な人……かあ」
リンテのちょっとした呟きにも、エデルは至極真面目に答えてくれる。
そして、その答えが母や家庭教師とも違うからリンテは素直に耳を傾けてみようかな、という気になる。
立派な淑女になるため、ではなくて、誰か大切な人のためと言われたら、そうなのかもと思ってしまう。
「お義姉様の大切な人は、お兄様?」
「え、ええと」
そう尋ねると、エデルは顔を赤くしてしまった。
そのあと、ゆっくりと首を下に傾けて、肯定した。
侍女がお茶を運んでくる。エデルたちの目の前で、使用前のカップが湯につけられる。エデルは一度お茶に毒を仕込まれたことがあった。犯人はすでに捕まっているし、裏で糸を引いていた叔父アルトゥールもこの世にはいない。
毒への念入り過ぎる警戒は兄の意向だろうか。こういうとき、リンテは自分が王家に生まれたのだということを改めて思い出させられる。
準備の整った茶器に、こぽこぽと琥珀色の液体が注がれていく。エデルと一緒のお茶の席では珍しい菓子が供されることが多くて、実は楽しみだったりする。
今日はアーモンドの粉で作られたお菓子である。色々な種類の果物の形を模して、色付けもされているから目にも楽しい。
「お義姉様は、お兄様のどこが好き?」
話の流れで、聞いてみたかったことを口にした。
政略結婚で嫁いできたわりに、エデルと兄はとても仲が良いと言われている。
「ええ……と」
まさか、このようなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。エデルの視線がせわしなくなった。
「リンテったら……」
「わたしだって、もう十二歳だもの。男女の機微ってものを知ってもいい頃合いだわ」
最近リンテの周りの者たちは口癖のように「もう十二歳なのだから」と言う。そろそろ子供時代は終わりだということだ。
現に双子の片割れのルベルムは騎士見習いとして王立軍に所属をして寄宿舎生活を始めた。
大人たちに言い諭される口上にはうんざりするのに、こういうときは使ってみたくなるリンテである。
好奇心を宿した瞳で熱心にエデルを見つめると、彼女は困惑しつつも「そうねえ……」と少しの合間空中を見る。
「とても頼もしいところかしら」
「オストロムの男だもの。でも、お兄様のあれは頼もしいというより、大きくて怖いって表現の方がぴったりだと思うけれど。目つきも凶悪だし」
本人が目の前にいれば、絶対に口にできないことをリンテは言った。
「騎乗姿もとても素敵なのよ。凛々しくて、神々しくて」
「それは……確かに」
そこはリンテも認めざるを得ない。オルティウスの騎乗姿はリンテも遠目に見たことがあるが、とっても様になっていた。さすがは王太子だと、この国の王になる人間なのだと誇りに思った。
「それに、とてもお優しいです」
「……」
優しいか優しくないか、判断できるほど兄と親しくないから相槌は保留だ。
背の高いオルティウスに見下ろされると威圧感が半端ないし、声も低いからどうにも委縮をしてしまう。
今は亡き父王は、生まれた時から父だったため、一国の王というよりは父という存在だった。父にはとても甘えられたし、わがままだって言えた。
しかし、年の離れた兄とは年に数度会えばいいほう、なくらい疎遠だった。そのため、リンテにとってオルティウスは兄である前に王太子だった。
次期国王となる男で、しかもにこりとも笑わないし愛想も無い。
「このお菓子もオルティウス様が取り寄せて下ったのよ」
「これを?」
「はい。形が可愛いと申し上げたら、もっと色々な種類を取り寄せてみたと」
「へ、へえ……」
(嘘でしょう? あの、あのお兄様が……)
信じられないものを見るような目でエデルとお菓子を交互に見る。淡く微笑んでいるエデルが嘘を言っているようにも思えない。そもそも、この義姉はひどく善良で嘘など絶対につけない。
ということは、この話は本当なのだ。
「きっと、リンテにも見せてあげたかったのね。今度リンテと一緒に食べたいですって申し上げたら、嬉しそうにしていらしたから」
「それは……」
急に兄という存在が身近に感じられて、意味もなく足を動かしたくなった。
先日、初めて家族で食事をしたのだ。あんなの、初めてのことだった。
幼心に、母と兄との間に何かあるのだということは分かっていた。人に囲まれて生活をしているのだ。大人は案外子供の前では油断してしまう。
断片的に聞こえる言葉をいくつか繋ぎ合わせてみると、見えてくる真実もあるものだ。
その兄と一緒の夕食会は、緊張のせいもあって最初の方こそぴりぴりしたけれど、エデルが口火を切って場を盛り上げてくれたため最後は和やかになった。
リンテとしては、兄と同じ食卓を囲んでいるという事実が非日常すぎて、せっかくのご馳走なのにお代わりし損ねた。
「また一緒に夕食を食べましょうね」
「え、ええ」
まだ正直言うと、オルティウスには慣れない。
やっぱり恐いし、大人の男の人と何を話していいのかも分からない。
でも、エデルがここまで信頼を寄せているのなら、もう少しくらい兄を知る努力をしてみるべきなのでは、とも思う。
「オルティウス様は、リンテから話しかけてもらうのを待っているのよ」
「嘘でしょ」
即座に切り返すとエデルが少し肩を揺らした。
「わたしも、最初は少しだけ恐いお人だって思ってしまったの」
「お義姉様も?」
ほんの少しだけ、エデルが声を潜めてそんなことを言うから、リンテは目を丸くした。
「でも、悪意はないことはすぐにわかったから……。それに、何かと気を使ってくれて、そのことが不思議で、けれども胸の中がふわふわして」
ふわふわ。それは一体どのような感情なのだろう。
未知の感覚だが、すぐ近くのエデルはとても幸せそうに目を細めている。まるで、ここにいない人を思い浮かべているような、恋しがるようなまなざしに、リンテの方がどきりとしてしまう。
この人は、オルティウスを相手にこのような顔をつくるのだ。
年が近いのだといっても、エデルはリンテよりも年上で、その分自分の知らない感情をたくさん知っている。
それを知りたいような、まだ知りたくないような。リンテは眩しい思いでエデルを見つめた。
「あ、ごめんなさい。話しすぎちゃったわね」
「う、ううん。お義姉様は、お兄様のことが大好きなのでしょう?」
「ええ」
その笑顔がとっても満ち足りていて。
なんとなく、心から離れなくなった。
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