番外編(本編読んだ方向け)
第57話 舞踏会前
ここから番外編です。
王宮舞踏会前のとある夜のお話
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「眠いのか?」
上から声が降ってきた。
夕食後のひと時のことだった。
王の居室に二人きり。エデルはオルティウスの隣に座っていたのだが、ぴたりと触れたか所から伝わる熱が心地よくてついうとうとしてしまったようだ。
低めの声は、耳にとても心地よい。背中に回された腕からも温かさが伝わってきて、それがとても安心するもので、余計に瞼が重たくなってしまう。
夜のひととき、オルティウスの食後酒に付き合うのがエデルの日課だ。
「申し訳ございません。陛下」
「謝るな。疲れているのだろう」
静かな声の中にはエデルを労わる色が乗っている。
それと同時に彼はゴブレットを目の前の卓台の上に置き、エデルの頬に手のひらをあてた。
「いえ。そんなことはございません」
エデルは慌てて意識を覚醒させようと勤める。
王宮舞踏会に向けて毎日ダンスの練習が組み込まれている。エデルは座学はそれなりに評価を得ているのだが、ダンスはあまり得意ではないことを自覚している。
王の妻として、無様な姿は見せられない。毎日懸命にダンスの練習に励んでいるのが、なかなか上達しない。
オルティウスがエデルの顔を覗き込む。
「練習も大切だが、無茶はするな。足をくじいたら大事だ」
「心配をかけてしまい―」
「謝るのは無しだ。好きで気にしているだけだ」
オルティウスの指がエデルの唇に押し当てられる。
ゆっくりとオルティウスを見上げると、きれいな青い瞳を目が合う。
澄んだ瞳に吸い込まれそうになってしまうのだが、触れている指の感触にもドギマギしてしまう。
エデルはときおり己の気持ちがわからなくなる。
夫であるオルティウスの言動一つで、心がざわざわとするし、心臓が壊れたのではないかと思うくらい早鐘を打つこともあれば、嬉しくて彼に己のすべてを差し出したくもなる。
小さく頷くとオルティウスの指が唇から離れていった。
そのことが少しだけ物悲しい。
「ダンスは好きか?」
「……わかりません。頭と体の動きがかみ合わないのです」
習った通りに体を動かすことがうまくいかない。
頭で考えていると音楽に乗り遅れてしまう。
「今日もオパーラの足を踏んでしまいました」
エデルはしゅんと項垂れた。
エデルのダンスの練習相手はもっぱら専任の守り手である女騎士たちだ。
彼女たちはとても優秀で貴族の女性の嗜み全般も習得をしている。ダンスも同じく、で女性パートのみならず男性パートも完ぺきなのだ。
「足を踏まないように気にしていたら目線をまっすぐに保つことが出来なくなってしまい……」
エデルは珍しく弱音を吐いた。
オルティウスが黙って耳を傾けているから、つい心の奥にしまっておいた不安が口から滑り落ちた。
このままではオルティウスに恥をかかせてしまう。王妃なのに、ダンス一つまともに踊れないと失笑を買ってしまう。
ただでさえエデルには色々なものが足りないのに。
オルティウスの重荷にはなりたくないのに、現状はとても厳しい。
エデルは瞳を揺らし、目線を下へ向けた。
「エデル」
「はい。陛下」
オルティウスの声が柔らかなものになった。
そっと手のひらがエデルの頭の後ろに回される。
「女性のダンスの良し悪しは男性にかかっているものだと俺は昔教わった」
「え……?」
エデルは思わずオルティウスを見上げた。
ぱちぱちと瞳を瞬くと、彼はエデルの体をひょいと持ち上げ、己の膝の上に横抱きにする。
「え……」
突然のことに心臓が騒ぎ出す。鼓動の音が彼に聞こえてしまうのではないだろうか。
「だから一人で悩むな。俺の足くらいいくらでも踏め」
「で、ですが」
「おまえに踏まれたくらいで折れるようなやわな足を持った覚えはない」
オルティウスはくつくつと笑った。
エデルはおろおろと視線を動かした。
どうやら彼はエデルのことを励ましてくれているらしい。なんとなくわかるのだが、足を踏むのは駄目だと思う。
「ですが……」
「二人でダンスを踊るのだから、相手のリードに任せてやれ。そうすればオパーラもおまえをリードしやすくなる」
頭よりもまずは二人の呼吸を合わせるところからだ、とオルティウスは締めくくる。
「まずは俺に慣れるところからだな」
オルティウスはさらりとそんなことを言い、エデルを彼の胸に押し当てた。
眠る時にも抱きしめられているというのに、こうして長椅子に座る彼の膝の上に横抱きにされると、急激に心拍数が上がってくる。
「え、あ、あの……?」
戸惑うエデルにまるで頓着せずにオルティウスはエデルの指に己のそれを絡めた。
艶めかしい手の触れ合いに、エデルの顔が真っ赤に染まった。
すでに夫婦として伽すら済ませた仲だというのに、どうして手と手の触れ合いだけでこんなにも動揺してしまうのだろう。最近はお行儀のよい距離感だから、なのだろうか。
「俺もおまえの練習に付き合いたいが……なかなか時間が取れない」
「お忙しい陛下のお時間を頂くわけにはまいりません」
「だが、少し惜しいな」
オルティウスは上機嫌だ。
「おまえとのダンスは本番までお預けとは。パティエンスの騎士たちが羨ましい」
「……っ」
エデルはなんて返したらいいのか分からなくなる。
眠気はとっくにどこかに行ってしまった。
いまは、どうにかして胸のざわめきを止めないと。
エデルは口をはくはくと動かした。
目の前の人はずるい。どうして彼はこんなにも平静なのだろう。
今すぐに逃げだしたくなるのに、彼の腕がしっかりとエデルの体を固定していてそれも叶わない。
「だから今くらいはおまえを独り占めしたい」
オルティウスは少しだけ困ったように頬を緩めた。
エデルは呼吸を止めて、それからゆっくりとオルティウスの胸に顔を埋めた。
恥ずかしくて苦しくてどうにかなってしまいそう。
彼は、エデルのドレス姿を見てなんと言ってくれるのだろう。
少しはきれいだと思ってくれるだろうか。
出来上がってきたドレスはどれも上質な生地をふんだんに使った高価な代物で、袖を通すと壊してしまいそうでとても恐ろしかったのだが、オルティウスに見てもらいたいという欲求が急に沸き起こる。
オルティウスの言動一つで、エデルの心は雨にもなるし晴れにもなる。
最近それが特に顕著で、そのことに心を悩ますのに、今だって彼から離れることなど本心では望んでいない。
複雑な乙女心に気づいているのかいないのか。
オルティウスは今日もエデルの銀色の髪の毛をゆっくりと撫でていくのだった。
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