第64話 二人きり
王宮舞踏会前の二人のお話
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小ぶりのナイフで果物を皮を器用に向いていると、その手元に視線が注がれているのを感じた。
オルティウスは一口大に切ったフィーキをエデルの口元へ持っていった。
小さな口が開いた。ちらりと見せた赤い舌と白い歯から意識を背けつつ、その中に黄緑色の果肉を入れてやる。
以南の国から取り寄せたこの果実をエデルは気に入っているようだ。
ここ最近、食後にフィーキを剥くことがオルティウスの日課になりつつある。
今度、干したフィーキを取り寄せるのもよいかもしれない。季節が過ぎれば生の果実を運ぶのも困難になるだろう。
「どうした?」
エデルの視線が気になり、尋ねた。
食後のひと時、侍従も侍女も部屋にはいない。完全に二人きりだ。
「陛下はとても器用なのだなと思いまして」
小さな声を出したエデルの視線は、オルティウスの手元を見据えたまま。
手に持った小ぶりのナイフでフィーキを剥いていたのだ。
その光景がエデルには珍しいのかもしれない。
「この手のナイフの扱いには慣れている」
食べるか、と目線で問うと、エデルは小さく頷いた。
徐々に食べられる量が増えてきている。よい傾向だと思った。
バーネット夫人に殺されかけ、熱を出し生死の境をさまよったエデルは一時食がとても細くなったのだ。
ようやく回復し、オルティウスはせっせとエデルに食料を運んでいる。
オルティウスに比べると、小さく細いエデルは、簡単に折れてしまいそうだった。腕の中で抱きしめると、あまりにも華奢で心配になる。
自分はそこまで大柄な方ではないと思うのだが、ここまで身体の造りが違うものなのかと思ってしまうのだ。
「わたしにも、剝けるでしょうか?」
それは、オルティウスに対する質問というよりも、彼女自身に対して問うような声色だった。
「おまえが、か」
「やはり、難しいでしょうか」
「……慣れれば……いや、王妃がそのようなことをする必要はない」
オルティウスは物心ついたころから剣の稽古に明け暮れ、騎士見習いとして王立軍に所属をしていたため、刃物の扱いは自然に身に付けた。
戦場では身分に上下も無い。野戦になれば、食料調達や火おこし、水場の確保など、己自身でこなさなければ生き残ることはできない。
そのため一通りのことは身に付けた。
エデルは王妃だ。刃物の取り扱いなど、必要ないだろう。果物が食べたければ侍女に命じて準備をさせればいいのだ。
「今は俺が剝いているだろう」
「……はい」
もう一度言うと、エデルがどこかしょんぼりした声を出した。
なにか、思うところがあったのだろうか。
彼女はまだどこかオルティウスに対して線を引いている。自分の感情を押し殺して生きてきたからか、自分の心を表に出すことを苦手にしている。
「どうして、フィーキを剥きたいと思った?」
言葉を飲みこむのはよくない。オルティウスは言い方を変えることにした。
彼女が何を考えているのか、知りたくなった。
エデルは、オルティウスに視線を向けて、すぐに戻して、沈黙をした。
辛抱強く待っていると、小さな口を開いた。
「いつも……剥いていただいているので……、その。お手を煩わせて、しまっては」
「これは好きで剥いているんだ。おまえが気にするようなことではない」
オルティウスは口の端を持ち上げた。
エデルに物を食べさせる行為は、もはや日課になりつつある。
己だけの特権のような、このひと時を存外に気に入っているのだ。エデルが気にする必要などない。
「はい。ですが……簡単に剥けるのでしたら、あまりお手を煩わせてしまうのも」
エデルは思った以上に恐縮しているらしい。
顔を上げて、紫水晶の瞳をこちらにじっと向けている。
長いまつげに縁どられた神秘の色。手を伸ばしたくなる、美しい瞳に吸い込まれそうになる。
エデルに触れたくなった心から気持ちを反らせるように、オルティウスは考える。
彼女がなにかをやってみたいと思うのはよい傾向なのかもしれない。
勉学やライアーハープに励むのではなくて、気になったことをさせてみるのも、今の彼女には必要なことなのかもしれない。
とはいえ、ナイフの取り扱いは細心の注意が必要なのだが。
オルティウスはほんの少しだけ、いたずら心を出した。
「じゃあ、一度体験してみるか」
「いいのですか?」
紫水晶の瞳に、ほんの少し嬉しさが混じった。
「ああ」
オルティウスは濡らした手巾で手をぬぐった。
「こちらへ来い」
軽々とエデルを持ち上げて、膝の上に乗せた。
「え?」
状況が理解できていないエデルが驚いている。
己の目の前に彼女の頭が見える。銀色のさらさらした髪の毛からは花のよい香りがした。
そのまま首筋に顔を埋めたくなってしまい、オルティウスは身体じゅうから理性をかき集めた。
「まずは俺が手元を一緒に持つ」
努めて真面目な声を出し、エデルと一緒にナイフを持つ。
昔、オルティウスもこのようにして刃物の扱い方を教わった。王の子供であろうと、いずれは必要になるのだから、としっかり叩き込まれたのだ。それはのちに、戦場で大いに役に立った。
「そう、ゆっくりと」
一緒にナイフを手に持ち、ゆっくりとフィーキを剥いていく。
エデルの手は初めての行為に緊張し硬くなっていた。
「難しいのですね」
終わると、エデルが息を吐いた。
オルティウスに言わせるとこんなもの、簡単な動作の一つなのだが、刃物を扱うことが初めてだというエデルには、大変な作業だったようだ。
「怪我をしたら一大事だ。練習をするのなら、俺が付き合う」
「……はい」
返事は本当に小さなものだった。それから、続けて「慣れそうもないので、ナイフの取り扱いは……諦めます」と返ってきた。
それはそれで、妙に落胆をしてしまった。
もしかしたら、膝の上のエデルの感触を離しがたいからなのかもしれない。
皮むきを体験して満足したらしいエデルが、どこか落ち着かなさそうに体を揺らした。
まだ、彼女を離したくなくて、横抱きにした。
「ひゃっ……」
「どうした?」
「いえ」
横抱きにすると、エデルの顔を覗き込むことが出来る。
羽のように軽い、彼女を自分の膝の上に閉じ込めておくことが、存外に悪くないことに気が付いた。
戸惑うように、長いまつげを震わせている。気配から、オルティウスのことをそこまで忌諱していないことは分かるのだが、少し物足りない。
オルティウスとエデルは国同士の思惑で夫婦になった、完全なる政略結婚だ。
この時代、大体王族や貴族の結婚は家同士の繋がりを深めるためのもののため、本人の意思など関係ない。
それでも、オルティウスは手を伸ばしたくなる。
エデルの心にもっと触れたいのだという欲求が小さな泡のように胸の底から湧いてくる。それは日々強くなっていき、己の心の中で大きな面積を占めていく。
「あ、あの……?」
じっと見つめていたため、エデルの声で我に返る。
「いや。フィーキ、食べるか?」
尋ねると、こくりと首肯した。
己の手ずから物を食べる、その光景にぞくりとする。彼女を独占したいという欲求に支配されていく。
「陛下は、とても器用なのですね」
「そうだろうか」
「あんなにもするすると……フィーキを剥いてらして。わたしには……難しかったです」
「小さなころから訓練をしていた」
「皮むきをですか?」
「いや、木の棒を削ったり……魚をさばいたり」
紫水晶の瞳がこちらを興味深そうに見上げている。
「どんな状況になっても生き残れるように。そういう訓練を受けてきた」
「そうなのですね……」
エデルの瞳に再び吸い込まれそうになったオルティウスは、動揺した内心を悟られまいと、卓台の上のゴブレットに手を伸ばした。食後酒を一口、含む。
「だが、おまえのことは俺が守る。ここがおまえの居場所だ」
もう、何にも怯える必要はない。
この国には、おまえを虐げる人間などいないのだから。
安心して俺の隣にいるといい。
たくさんの想いを込めて、エデルを己の胸へと押し当てた。
身を固くしたエデルは、少ししたのち、ぎこちない様子で体から力を抜いていった。
エデルがオルティウスの膝の上を己の居場所だと思うようになるのは、もう少し先のことだった。
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