第63話 エデルとアーテル
夏の休暇あたりから冬にかけてのお話です
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エデルが、アーテルと出会ったのは、夏の休暇を過ごすために、レゼクネ宮殿を訪れた時のことだった。
離宮は左翼と右翼に分かれており、王族が滞在をするのは右翼とのこと。案内された部屋には果物が用意をされていた。
移動にかかる諸々の支度はすべて女官が取り仕切るため、王妃であるエデルがすることといえば、女官の言葉に頷くことくらいなもの。
人に傅かれることに、少しずつ慣れてきたとはいえ、自分の旅行なのに何もしないということに恐縮してしまう。
今日は移動日のため、離宮全体がざわついている。
「陛下は、どちらにいらっしゃるのですか?」
お茶を差し出した女官の一人に尋ねた。
オルティウスとは同じ馬車で到着をしたのだが、離宮に着いてから姿を見ていない。
女官はエデルの求める答えを得るために、その場を離れ、少ししたのち戻ってきた。
「厩にいるのことですわ。狩りのために、陛下の愛馬を連れてきておりますので、様子を見に」
「ありがとう」
休暇といっても、社交の場がレゼクネ宮殿に移っただけだ。
重臣らもこの離宮に滞在をしているため、晩餐会や狩りなどの予定が入っている。
「少し、外に出ても構いませんか?」
エデルは近くに控えているヤニシーク夫人に尋ねた。黒髪をきっちりと後ろでまとめた夫人は目を細めて頷いた。
どうやら、考えていることはお見通しらしい。
エデルはほんのりと頬を赤らめつつ、散歩の支度に取り掛かった。
髪の毛を後ろでゆるくひとまとめにして、歩きやすいくるぶしだけのスカートに着替えた。日傘を手に持ち、女官の案内に従って離宮の奥へと進んでいく。
歩きながら、離宮の庭園内に点在する噴水やら薔薇園などの呼称や位置関係を聞いた。
厩は少し離れた場所に建てられていた。
下男たちが忙しそうに立ち回っている。獣特有のにおいと、気配がする。
あまり邪魔をしてはいけないだろう。少し離れたところで窺っていると、オルティウスが姿を見せた。厩番たちと気さくに話をしており、笑顔を見せている。
ぼんやりと、その光景を見つめていると、彼が顔をこちらに向けた。
「エデル」
名を呼ばれたエデルは、少しだけ羞恥に顔を俯けた。
こんなところまで、オルティウスを追いかけてしまって、気を悪くしたらどうしようと今更ながらに狼狽する。
散歩の途中だと、言い訳ができる場所ではない。
「散歩か?」
「……はい」
オルティウスの質問に乗っかってしまった。
「オルティウス様は……、あの」
「俺は、アーテルの様子を見に。あとで、少し走らせようと思っていた」
以前騎馬訓練を遠くから見たことがあったが、その時のオルティウスはとても凛々しかった。幼いころから騎乗訓練に励んでいたのだろう。ルベルムもリンテも乗馬に親しんでいる。
祖先が騎馬民族ということもあり、オストロム人は今でも乗馬を得意としている。
「ちょうどいい。おまえにアーテルを紹介する。いいか?」
「はい。もちろんです」
「じゃあそこで少し待っていろ」
オルティウスがくるりと踵を返した。
しばらくすると、オルティウスが一頭の黒い馬の手綱を引いて歩いて来た。
大きな体躯に、美しい毛並みの馬である。
賢そうな瞳は澄んでいて、オルティウスのことを信頼しているのであろう、ぴたりと寄り添っている。
「エデル、俺の愛馬だ。アーテルという」
古い言葉で黒という意味を持つ。見た目そのままだが、艶やかな黒い毛並みは、どこかオルティウスを思わせる。
「あの。エデルです。よろしくお願いします」
エデルはアーテルに向かって丁寧に膝を折った。
「そこまでかしこまらなくても大丈夫だ」
「はい」
オルティウスが目元を和らげた。
「アーテル、俺の妻だ。おまえの上に乗せることもあるかもしれない」
アーテルはエデルをじっと見つめた。
目が反らせない。
見つめ合うこと数秒……。
アーテルが鼻で笑った……ように感じた。実際は、鼻を鳴らされたのだが。
彼女の反応に、びくりと肩を震わせると、アーテルが一歩前に足を踏み出した。
「アーテル」
オルティウスの低い声が響いた。
アーテルは立ち止まったが、エデルに対して執拗に鼻を鳴らしている。
あっちへ行けと言うように、不機嫌そうに顔を揺らしている。
「どうした、アーテル。さっきまで機嫌がよかったのに」
オルティウスは心底不思議そうな声を出した。
(そうよね……、わたし、完全にお邪魔虫よね)
雌馬でもあるアーテルにとって、オルティウスの妻であるエデルは完全に邪魔者なのだ。
長年オルティウスと連れ添っている自負があるのだろう。彼女は完全にエデルに対して上から目線だった。
「機嫌が悪いな。仕方がない、今日はゆっくりしていろ」
オルティウスがアーテルを宥める。
すると、アーテルの耳がぴくりと反応をした。
甘えるように、顔をオルティウスの胸に擦りつける。
なんとなく、エデルは羨ましくなった。
まだ、自分だってこんなにも素直にオルティウスに甘えることはできないのに。
「どうした? 本当に、今日は気分屋だな」
オルティウスは複雑な乙女心を理解できずに、首を傾げている。エデルの方が察する者があるというのに。
「あ、あの。わたしは今日はこれで部屋に戻ります。ですから、陛下はアーテルと乗馬を楽しんでください」
「おまえさえよければ、一緒に乗るかと誘おうと思ったんだが」
「え……」
彼はエデルが乗馬をしてみたいと言ったとき、難色を示していた。
まじまじとオルティウスの顔を見ると、「俺が一緒の時は別だ」と短く答えた。
思いがけない誘いに胸の奥がふわふわとした。
リンテたちの話を聞いていて、自分も挑戦してみたいと思っていたのだ。
「アーテル、大丈夫か?」
オルティウスはアーテルに尋ねた。
アーテルは、ものすごく不愉快そうにエデルを睨みつけた。
視線に負けたのはエデルだった。
「で、ですが……いまは、ごめんなさい」
「そうか。今日は移動で疲れているようだな。すまない」
「いえ。大丈夫です……」
まさかアーテルに精神的に負けてしまったとはいえない。彼女の心情を思うと、今ここでオルティウスと一緒に乗せてもらうのは、心苦しいと思ったのだ。
まずは、彼女に認めてもらわなければ。
エデルはオルティウスを見送って、そう決意をした。
それから数か月後。
エデルは出来上がった飾り紐の出来栄えににこりと微笑んだ。
ミルテアに教えてもらった、オストロムの伝統的な文様を刺繍したのだ。
さっそくその日の晩、オルティウスに見せると、彼は目を細めて労ってくれた。
「よくできている」
「ありがとうございます」
オルティウスは愛おしそうに、刺繍の上を指で撫でていく。
「アーテルは喜んでくれるでしょうか」
「これだけ素晴らしい出来栄えなんだ。当たり前だろう」
オルティウスは即座に言い切ったが、不安だ。彼女は今だにエデルに対して素っ気ない態度をとっている。
オルティウスを挟んで、なかなかに複雑なライバル関係なのだ。
「少し無理をしたんじゃないか?」
「いいえ。大丈夫ですよ」
冬が訪れたオストロムは一面銀色の世界に包まれている。
エデルも城の奥に籠る日々が続いている。勉強の合間に、刺繍や読書をしていて、アーテルのために飾り紐を贈ろうと思いついた。
せっかくなのだから、もう少し仲良くなりたいのだ。
オルティウスとの付き合いはアーテルの方が長くて、それを思うと少々羨ましい。
彼女は、ずっとオルティウスと共にあるのだ。
彼を乗せることのできる馬はそう多くない。戦場で一番に信頼をされているのだと彼の近衛騎士や側近から聞かされれば、心の中に湧き上がるのは羨望だ。
オルティウスもアーテルのことを語るときは、ずいぶんとやわらなか声になる。
翌日、エデルはアーテルの元を訪れた。
入ってきた人間がエデルだと知ると、アーテルはすぐに興味を失ったとばかりに顔を下に向け、飼い葉を食み始める。
「アーテル、あなたに贈り物をもってきたの」
エデルはそのまま話を続ける。
「とてもよく出来たと思うの。飾り紐よ。今度の騎乗訓練の時につけほしくて」
アーテルは相変わらず顔を下に向けたまま。
エデルはゆっくりとアーテルに近づいた。
夏の休暇以降、時間が許す限りアーテルの元を訪れている。
もともと、馬という生き物に触れたことが無くて、おどおどしていたのも、アーテルがエデルを見くびる原因の一つだった。エデルはゆっくりとアーテルに慣れていった。
馬鹿にされようとも、何度も通い、今では多少のことではびっくりしないまでに成長をした。
「少し、見てほしいな」
エデルは飾り紐を彼女の前に差し出した。
アーテルが面倒くさそうに、顔を上げた。気だるげな表情をしているが、彼女ともそれなりの時間を過ごしてきた。
「どう?」
少しの沈黙のあと、エデルはゆっくりと尋ねた。
アーテルは、エデルを見上げた。数秒目が合う。
ごくりと、息を呑みこんだ。
「エデル、機嫌がよいな。なにかいいことでもあったのか?」
その日の夜、オルティウスがエデルの銀色の髪の毛を梳きながら尋ねてきた。
「はい」
エデルはふわりと微笑んだ。
まあ、仕方がないわね。
そんな声が聞こえた気がした。
「アーテルに、ほんの少しだけ認めてもらえた気がするのです」
エデルの返事に、オルティウスが首を傾げた。
オルティウスを挟んで、女同士複雑なのだ。
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