第10話 バーネット夫人の悪意

 浴室に水をかける音が響き渡っている。


 何度も何度もエデルの上からかけられる元はお湯であったそれはすっかり冷めて水になっていた。


 朝の支度と称してエデルを浴室に連れ込んだバーネット夫人は、他の世話役をすべて部屋から追い出した。


「まあ、さっそく男を誑し込むだなんて。さすがは淫売婦の娘だわ。汚らわしい」


 ザバザバと頭から冷たい水が流される。


「赤い染みをいくつも付けて。いやらしい娘」


 もう一度バーネット夫人は浴槽から水を汲み、それをエデルの頭の上にぶちまけた。


「ほんとうに、ほんとうにいやらしい。王妃殿下から夫を奪った、いやらしくて汚らわしい最低の女」


 バーネット夫人はエデルに対して、イースウィアの恨みを述べていく。エデルはまるで自分がイースウィアから王を奪ったのだと錯覚しそうになる。


 元はお湯だったそれが冷めるのを律儀に待ったのちに、バーネット夫人はエデルを浴槽に沈めた。生ぬるかったそれは徐々に冷えていき、またバーネット夫人はあらかじめ別のたらいに用意をさせておいた冷たい水をエデルの頭からかけた。


 憎々しい声がすぐ隣から聞こえてくる。

 嫁いでも解放されることのない悪意にエデルの心が疲弊をしていく。


「朝食を用意してもらって。本当に悪い子だこと。王になんて言って食べ物を強請ねだったのかしら? あの女のように甘い声で囁いたの? 閨の中で、おまえはどんな声を出したのだろうねぇ」


 ねっとりした声にエデルは顔を強張らせた。


 昨晩のことを思い出してしまったからだった。まるで自分のものとは思えないような高い声が頭の中に蘇る。甘くてねだるような声を思い出してしまいエデルはぎゅっと目をつむった。あれが女の声だというのだろうか。


 肩を震わせたエデルの反応に気をよくしたバーネット夫人は何度も何度も浴槽の水を汲みあげ、エデルの頭の上からザバザバと掛け続けた。まるで汚れをはらう神聖な儀式のように何度も。


 オルティウスが寝所から去った後、エデルは彼の言葉に甘えてまどろんでいた。男を初めて受け入れた身体は疲れていてにぶい痛みもあったからだった。それに、朝起きたらオルティウスが思いのほか優しくて拍子抜けをしてしまったというのもある。


 彼が出て行った後静寂が戻りエデルはそのまま瞼を閉じた。次に目を開けたのは扉の外から、なにか高い声、いや悲鳴のようなものが聞こえてきたからだ。それから遠慮がちに扉を叩く音も聞こえた。


 慌てて寝台から飛び起き、寝間着を引っかけて扉に向かうと宮殿の女官が申し訳なさそうに話しかけてきた。


 話を全部聞いたエデルはそのまま王の寝所を飛び出した。


 嵐の中心にいたのはバーネット夫人だった。彼女に断りもなくエデルに食事を与えようとした王とその配下に対して憤怒し、挙句に運び途中だったエデルのための朝食をひっくり返した。すぐにでもエデルを引き取ると王の寝所へ入ることも躊躇わない様子で、侍従と女官が必死になって止めていた。


 エデルが寝間着姿のままバーネット夫人の前に現れると、彼女はエデルを連れて王妃の居室へと戻っていった。浴室へ連れていかれ冷めて水になった浴槽の中に沈められた。


「おまえの母は、王妃殿下の侍女であることを忘れて陛下に媚びを売った。身体を開いて王を受け入れたとんでもない淫売婦だったわ」


 バーネット夫人の吐く言葉はすべてイースウィアの呪いの言葉。彼女はずっとエデルの母を許していない。


「淫売婦の娘もやはり淫売婦だったわねぇ。汚らわしい。ああ気持ちが悪い」


 エデルは己の母が現在どこにいるのか、そもそも生きているのかも分からない。五歳の頃までエデルは母と一緒に離宮で暮らしていた。時折父王が訪れ、祖母だという当時の王妃もエデルに会いに来ることがあった。


(お母様は、優しかった……)


 母はエデルを抱きしめて眠ってくれ、優しく微笑んでくれた。

 親子だけでひっそりと暮らしていたのにある日突然母はいなくなってしまった。連れて来られた宮殿で、エデルは王妃イースウィアや義理の兄姉から嫌がらせを受けて育ってきた。


 エデルはぎゅっと目をつむる。昔からずっと、エデルは思い出の中の母を守ってきた。


 エデルを撫でる優しい手。

 優しくエデルと呼ぶ声。全部全部、エデルはちゃんと覚えている。


「王がおまえのような娘でも、王女として育てるなどとおっしゃるから……。ああ、本当に口惜しかった」


 バーネット夫人はさすがに疲れたのか水を汲むのを止めた。今度は背中に指を這わせ、エデルのやせ細った背中の皮を摘まみ捻った。


「まあまあ、こんなにも赤い染みをつけて。ああいやだ。いやらしい娘ねぇ」


 エデルの白い肌の上を中年女のかさついた指が撫でていく。

 いやだいやだと言いながらバーネット夫人はエデルの肌を何度もつねった。


 エデルは耐えた。


 じっと浴槽の中で膝を抱えバーネット夫人の嘲罵ちょうばに耐え忍んだ。彼女の気が済めばここから出してもらえる。だからいまは何を言われてもじっと動かないで我慢していればいい。それは幼いころにエデルが学んだ生存方法だった。


 泣くと余計に怒られる。頬をぶたれる。母を恋しがると食事の回数を減らされた。何かに理由をつけて雑用を言いつけられる。


 案の定、バーネット夫人は一通りエデルを悪し様に言ったことで満足したのかエデルを浴槽から出した。

 冷たく冷え切ったエデルはドレスに着替えさせられ、髪の毛を乱暴に拭かれた。


 しかし、その後も試練は続いた。

 バーネット夫人はエデルから昼食と飲み物を奪った。

 女官は二人分の食事を用意したが、エデルは着席することを許されなかった。


「おまえは昨日、結婚式の晩餐を食べたでしょう?」

「そ、それは……」

「おや、何か言いたいことでもあるの?」


 彼女の言い分だと、エデルは昨日食事を摂ったのだから今日は一日食べてはいけないとのこと。晩餐の席に着いたとはいえ、緊張とあいさつで碌に食べていない。


「……」


 バーネット夫人にねめつけられて、エデルは黙り込む。


 彼女はエデルに見せつけるように彼女自身の食事をことさら丁寧に食べた。エデルは水の一口も取ることを許されず、バーネット夫人の近くに座らされた。給仕の女が何かを言いたそうにこちらに視線を向ける。


「妃殿下はこのような食事には手を付けらせませんわ」


 バーネット夫人はナプキンで口を拭いながら言った。


「まったく。こんな田舎臭い料理。わたくしの口にも合わないったらないわ。やはり所詮はオストロムねぇ」


 ふぅ、と息を吐きバーネット夫人はエデルの花嫁道具として持参した高級な茶を淹れるよう女に命令をした。遠い異国から輸入をした茶は高級品だ。


 給仕の女は何かを言いたそうにエデルに一瞬だけ視線を向けたが、バーネット夫人は女にさっさと仕事に戻るように命じた。


 結局エデルはずっとバーネット夫人の監視下で、水も食料も摂取することを許されずに過ごすことになった。

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