第15話 狙われた王妃

 しとしとと冷たい雨が降っていたせいでその日のイプスニカ城はどこか冷たい空気をしていた。


 オルティウスは視察のため側近たちを引き連れて王城を空けてしまい、そのせいかどこか寒々しい。


 オルティウスは明日にならないと帰ってこないため、エデルは久しぶりに一人きりで眠りにつくことになった。エデルのための寝室は女性らしい色合いの壁紙や絨毯で目を楽しませてくれるが、広い寝所に一人きりということがどこか寂しいと感じた。


 寝台の中は冷たくて、エデルはぶるりと身を震わせた。

 いつもならすぐそばにオルティウスが横たわっているのに、今日は一人きり。


 隣にオルティウスがいないことがこんなにも心細いだなんて。

 エデルは自分の心の変化に戸惑った。


 オルティウスと過ごしたのはエデルのこれまでの人生の中でまだほんの少しの間だというのに。

 すっかり隣に誰かがいるという生活に慣れてしまっていた。彼の隣で眠ると孤独を忘れることが出来たからだ。


 広い寝台が少しだけこわくもあってエデルはその日寝付くのが遅くなった。


 夜中になって雨脚がさらに強くなった。

 雷鳴が轟いている。浅い眠りの中、エデルは遠くで雷の音がするのを聞いて、それから寝返りを打った。


 その直後だった。


 エデルは乱暴に寝台から引きずり出された。意識はうすぼんやりと眠りの泉の中にその身を半分以上浸けており、エデルは何が起こったのか分からなかった。


 外で大きな音がした。

 いつの間にか雷が近づいていたらしい。


 光がカーテンの隙間から刺した。エデルは恐怖に身をすくませた。

 エデルを寝台から引きずり出したのはバーネット夫人だった。


「やっ……!」


 バーネット夫人は寝間着姿ではなく、簡素な衣服に身を包み、ガラス玉のような虚ろな瞳でエデルを見下ろしていた。その、尋常ではない様子にエデルはすくみ上った。


 バーネット夫人がエデルを立ちあがらせようとする。


 エデルは恐怖で体が動かなかった。

 どうして。どうして彼女が今ここに。


 そう思う反面、頭の一部は冷静でエデルは彼女がここにきた目的を正確に理解していた。


 とうとう彼女は実力行使に出ることにしたのだ、と。


 バーネット夫人が焦りを見せていることはエデルも気が付いていた。王が不在にしている今日はバーネット夫人にとって絶好の機会のはず。それに気づきもせずに眠りについたのは最近ずっとエデルの周りが静かだったからだ。オルティウスの隣で眠り、彼と彼の騎士に守られて食事をし、ヤニシーク夫人が目を光らせていたことにすっかり安心してしまっていた。


 バーネット夫人に腕を引かれるようにして立ち上がったエデルを、彼女は遠慮なしに叩いた。頬を打たれた衝撃でエデルの思考が一瞬遠くなる。


「さあ、こちらへおいで」

 エデルを引きずろうとするバーネット夫人に、彼女は抵抗しようとした。

「だ、れ……」

 最後まで言う前にもういちど頬を叩かれた。


 今までバーネット夫人はドレスで隠れる背中や二の腕、お腹をつねる事はあっても顔を傷つけることはしなかった。


「ああ……いい顔だこと。最近大切にされて、さぞいい気だったろうねぇ」


 間近で睨まれるとエデルはたちまち自分が小さな子供になったかのような錯覚を覚える。

 イースウィア王妃やバーネット夫人に逆らうことなど許されない。それは幼いころから植え付けられた強迫観念にも似たものだった。


 動けなくなったエデルをバーネット夫人は引きずっていく。


 雷鳴の中、ガラス窓を容赦なく雨が吹き付けている。

 続き間を幾つかぬけると、バーネット夫人はエデルを露台へ放り出した。


 広い露台は季節の良い日には開け放ち、心地の良い風を受けることが出来るのだろうが、初春で、しかも冷たく強い雨が降りしきる今そんなところに薄い夜着一枚で放り出されればどうなることか。


 バーネット夫人はエデルを一人露台へ放り出し、ガラス戸を閉めた。

 エデルはすぐに扉に縋りついた。


「バーネット夫人。やめてください!」


 夜半過ぎから強まった雨脚はエデルを容赦なく濡らしていく。

 あっという間にエデルの体は冷たくなった。風が吹きつけ、さらにエデルから体温を奪っていく。


「さあ、しばらくそこで大人しくしておいで。あとでゆっくりと殺してあげる」


 バーネット夫人と目が合った。冷たく暗い目がエデルを見据えている。ぼんやりと浮かぶその顔の中に狂気が浮かんでいる。

 外は暗かった。まだ夜明けまで相当にあるのだろう。闇夜の中と奥の方に篝火がぼんやりと浮かんでいる。見張りの持つ松明だろうか。小さな光が動いている。


「誰か……」


 エデルは叫んだ瞬間再び雷が鳴り響いた。

 雨の音がエデルの声をかき消してしまう。

 雷が人々の関心を引きつけてしまう。


 なんておあつらえ向きなのだろう。これは、天にも見放されたということだろうか。

 露台は次の部屋につながってはおらず、ガラス戸の前にはバーネット夫人がしっかりと見張っている。


 エデルはその場にしゃがみ込む。

 寒かった。体がどんどん冷たくなっていく。震えが止まらない。

 カチカチと歯の根が合わない。


 じっとしていても容赦なく降り注ぐ雨と風がエデルから体力と気力を奪っていった。やがてエデルの意識が混濁していく。

 暗い闇の中に囚われそうになる。このまま冷たい世界で死ぬのだろうか。


「まあまあ、意識が無くならないうちに殺してしまいましょうか」


 ぎぃっと音を立てて扉が開いた。

 ガラス戸の内側からバーネット夫人が出てきた。


 バーネット夫人は濡れることも気にしないでエデルの側に立った。

 体がやけに重い。そして冷たくなっていて手足の感覚がよくわからなかった。

 バーネット夫人はイースウィアの化身だ。

 ゼルスの王妃の憎悪を一心に受けてここに存在している。


「大丈夫。あなたは今から蛮族の王に穢された屈辱で自殺をするのよ。手首を切って、こと切れる。素敵な筋書きでしょう?」


 バーネット夫人が懐から何かを取り出した。ちょうどその時、雷が光った。

 エデルは息を呑む。細長いそれは、おそらくはペーパーナイフだ。そんなものでも、人の手首に思い切り振りかざせばたやすく皮膚を傷つけることはできるだろう。


「や……やめ……て……」


 エデルは最後の気力で抵抗をするが、寒さで体が言うことを聞いてくれない。

 バーネット夫人のねっとりとした声と、完全にエデルを支配下に置いたという愉悦による笑みがエデルを支配する。


「まあまあ、可愛らしいこと。王妃が自殺をしただなんて、とんだ醜聞ねぇ」


 そんなことになればせっかくの和平が台無しになる。

 それに、監督責任を問われるのはバーネット夫人なのではないか。エデルはやめてと必死に目で訴えるが、狂気の色を宿したバーネット夫人は嬉しそうに口元に笑みを浮かべている。


「ああやっとこれでわたくしの長年の罪も帳消しだわ」


(罪……?)


「おまえの母親をイースウィア王妃殿下の侍女に取り立てなければこんなことにはならなかったのに……。あの女……あの女め」


 エデルの疑問に答えるようにバーネット夫人は告白をした。

 いや、彼女はエデルを通してエデルの母を見ていた。


「さあ、殺してあげる」


 バーネット夫人がエデルの腕をしっかりと押さえつけ、利き腕を持ち上げた。その手にはペーパーナイフが握られている。


 今まさにバーネット夫人がペーパーナイフを振り下ろそうとしたとき。

 黒い影が彼女に覆いかぶさる。


「やめてぇぇぇ!」


 甲高い女の叫び声が耳に届いたが、寒さと恐怖の限界にきていたエデルはそのまま意識を手放した。

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