第89話 最愛を育む1巻 没原稿(リンテとオルエデ)
日差しに暖かさが戻り始めた初春の頃、イプスニカ城の奥に華やいだいくつもの声が響いていた。
王妃の間である。室内には数多くの衣装や装身具が持ち込まれていた。
中心にいるのはエデルだ。首には青い輝石が輝いている。
購入したラピスラズリの加工が完了し城へ届けられたのだ。
ラピスラズリを囲むのは繊細な金細工だ。優美な曲線の中には花や蝶を模しているようにも見え、一番大きなラピスラズリを引き立たせるように左右に複数の輝石が並んでいる。
「とてもきれい……」
無意識に口から感嘆のため息とともに感想が漏れ出た。
姿見を前に、自然と背筋が伸びる。この輝きに負けないくらい自分も芯のある女性になりたい。そう思えた。
このような感情を持って初めてある思いが胸の中に落ちてきた。
きっと背伸びをすることも時には必要なのだ。それにふさわしい自分になりたいと律することができるから。
これまでエデルは用意された品々を身に着けてきた。
この国に嫁す時にゼルスから持参した物やオルティウスから送られた物、それからオストロム王家が所有していた物などだ。
でもこのラピスラズリはエデル自身が目を惹かれ購入を決めた。
この首飾りが認めてくれるような自分でありたい。
もしかしたら歴代の王家の人々も同じような思いを持って宝石を求めたのかもしれない。それを見に纏うにふさわしい威厳や気品を身に着けたいと。
(今の、この気持ちを忘れないようにしよう)
エデルはラピスラズリをそっと撫でた。
「この首飾りに合わせるのでしたら、こちらのドレスはいかがでしょうか」
「髪留めもラピスラズリで合わせてはいかがでしょうか。目録にいくつか書かれてあります」
「今年の王家主催の舞踏会はこのラピスラズリに合わせてご衣裳を作られてはいかがでしょうか」
「となれば他の装身具の意匠も合わせた方がよろしいのではないでしょうか」
女官や侍女たちが意見を交わし合う。
皆王妃を飾り立てることが嬉しいのだ。
「今年の舞踏会はリンテが主役だもの。リンテのドレスの色が決まったあとで考えましょう」
先走る女官たちにエデルが声をかけた。
同時に同じく室内の椅子に所在なさげに座るリンテへ顔を向ける。
「ドレスの色は……お母様が今相談している最中で」
一同の視線が集まったリンテが言葉少なく答えた。そこに自分の意思は感じられない。
室内中央に置かれた机の上には城の奥から運んできた装身具がいくつも置かれている。
今日この場にリンテが招かれたのはミルテアの要請があったからだ。歳の近い者同士がドレスや装身具を目にすれば華やいだ気分になるだろうとの考えがあったのだろう。
だがリンテはやる気漲る女官や侍女たちの空気にすでにたじろいでいる。
エデルはリンテの近くに座った。
「何か気になるものはある? ここにあるものはすべて王家所有のものだから、あなたが身に着けて構わないものだと聞いているわ」
「うーん……。どれもきれいだし、わたしだって一応女の子だもの。こういう、繊細な金銀細工の宝飾品を見たら心がときめくのよ? 本当よ」
「ええ。見ているだけでため息が漏れそうなものばかりね」
厚い布地の上に無造作に置かれているのは、全てが一流の職人の手により細工が施された美しい意匠の品々だ。
王家の人間たちに相応しい金と宝石を贅沢に使用したものばかりだ。
「でも……、わたしに似合うのかなって」
「リンテが作った蛋白石の首飾り、とても似合っていたわ」
一足先に届けられたそれを身に着けた姿を思い起こす。
首元で輝く蛋白石は光の加減で橙や薄青など、さまざまな色を見せていた。それはまるでリンテの内に眠る生命の強さを体現するようでもあった。
「だといいんだけれど……」
自身を飾ることよりも体を動かすことの方が性に合うリンテには、ドレスや装身具を前にしたファッション談義はまだピンとこないのかもしれない。
エデルも慣れるのに随分と時間がかかった。女官たちの情熱を前に及び腰になることもある。
現に今だって彼女たちは目録を前に真剣に討論を交わしている。
それが彼女たちの仕事のため制することはしないが、この身は一つだけなのだと、たまに思い出してほしいと考えることがある。
リンテ自身、興味がないわけではないが、自身の素直な心の内を大人の前にさらけ出すには、きっと繊細な年頃なのだろう。
ふう、と再びため息をつくリンテに声をかけようとするエデルの耳が、別の音を拾った。
どうやら訪れる者があったらしい。王妃の間に先触れもなく訪れることができる人間など限られている。
「オルティウス様」
少々騒がしい室内に入ってきたのは予想通り夫であった。
エデルは立ち上がりオルティウスへ近付くと、彼は首元に視線を留め満足そうに瞳を細めた。
「美しいな」
「ありがとうございます。職人の腕が一流なのです」
大勢の前で直球で褒められて、じわじわと頬に熱が集まるのを自覚する。
「妻の首を、私の色が染めているというのは良いものだな。どうせなら揃いで耳飾りも作らせよう」
「オ、オルティウス様」
王の発言にヤニシーク夫人やユリエなどは普段と変わらぬ顔を貫いているが、最近入ったばかりの侍女たちからは、息をのむ気配が伝わってきた。
黒狼王と渾名される彼の、妻への愛情表現にまだ慣れていないのだろう。
彼女たちの反応にエデルも気恥ずかしくなってしまう。
だがオルティウスは気に留めることもなく視線をヤニシーク夫人へ向けている。おそらく王の意を汲んだ女官長は近日中にイプスニカ城に宝石商を招き入れるだろう。
(お買い物も王妃の務めの一つだもの……。事前に予算をきちんと決めておけば大丈夫。そう、大丈夫……)
オルティウスが心の中でそう繰り返すエデルの手を取りそっと口付けた。
「その首飾りを着けた肖像画を描かせようか」
どうやらオルティウスの惚気は底知らずらしい。
「ヴェシュエから画家が到着して以降、たくさん描いていただきましたよ」
「おまえの肖像画だ。何枚あっても足りないことはないだろう」
ヴェシュエ使節団の代表ベルベアラ王女が持ち帰った親書の通り、かの国から宮廷画家が遣わされたのは、初冬の頃だった。
イプスニカ城に招かれた画家たちは王家の肖像画を複数枚製作し、そのうちの数枚が昨春この国を訪れたアマディウス使節団への返礼品として届けられることになった。
彼らはルクスで活動する名のある工房主とも交流を深め、幾人かがヴェシュエへ勉強のため渡ることになったのだという報告も受けている。
「せっかくですからティースも一緒に。リンテもまた描いてもらいましょう?」
ここには多くの人々がいることを夫に思い出してほしくエデルがリンテに話を振った。
「え……は、はい。わたしは正直お腹いっぱいですが、ティースとお義姉様が一緒の絵画なら描いてもらいたいです」
「そうか。おまえもいたのか」
妹の存在に今気がついたのだろう、オルティウスが少々罰が悪そうに呟いた。
ちなみにリンテも兄の全力の愛情表現を間近で見てしまったことに対して気恥ずかしいのか、頬をうっすら染めていた。
・・┈┈┈┈・・✼・・┈┈┈┈・・あとがき・・┈┈┈┈・・✼・・┈┈┈┈・・
新シリーズ1巻の没原稿の供養です。
今回も前半部分を何度も書き直しましたので、完成原稿に至るまでに試行錯誤のあとがフォルダに残っています。
書籍版と読み比べると、違いが分かるかも……?
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