第8話 黒狼王の妻となった日

 オストロム王国に到着をした十日後、エデルはオルティウスの正式な妻となった。


 オストロムは建国時にエデルたちの信仰する聖教に改宗をしている。今日は宮殿にある聖堂で結婚の誓いを行い、その後は賓客を招いての晩餐会。


 朝からオストロム風の花嫁衣装を侍女たちによって手際よく着付けられ、髪を結い上げ顔に薄くおしろいをはたかれた。さすがにこの日ばかりはオストロム側の女官たちをエデルに近づけないわけにもいかずに、バーネット夫人は時折面白くなさそうに目を細めて女官たちの行動を睥睨していた。


 ゼルスを出てからエデルの生活はすべてバーネット夫人の監視下にあった。


 王妃イースウィアは最後の嫌がらせと悪意でもってバーネット夫人をエデルに付き添わせた。彼女はイースウィアがゼルスに嫁いできて以来の腹心でもある。


 イースウィアの命令を受けたバーネット夫人は遠慮をしなくなった。エデルをじわじわと殺そうと手始めに食事を必要最低限に抑え始めた。毎日薄い麦粥とパンとスープという粗末な食事がエデルに供されるようになった。途中何度か食事を抜かれたこともあった。


 バーネット夫人はエデルがさも信仰深い娘だと周囲に吹聴し、彼女から言葉を奪い去る。エデルが何かを言う前にバーネット夫人がすべてを取り仕切ってしまう。


 おかげでオストロム側の女官や侍女たちは遠巻きにゼルスから輿入れをしてきた姫とその付添人を眺める日々を送っていた。

 バーネット夫人はオストロムを馬鹿にする態度を隠しもしない。


 すべての準備が整ったエデルは女官に伴われ聖堂へと移動し、王の隣を歩き大司教の前で結婚を誓った。

 これで今この瞬間からエデルは今隣に佇む黒髪の青年の妻になったのだ。


 正直、結婚式も晩餐会もあまり記憶になかった。

 エデルは人形のように連れまわされ、言われるままに儀式をこなしただけだった。


 いまだって、エデルは晩餐の席から連れ出され女官たちによって身を清められ、薄い夜着をあてがわれた。薄くて軽い夜着は心もとなく肌寒い。その上から暖かなガウンをかけられたエデルは王の寝所へと導かれる。


 このあとエデルは夫となったオストロムの王に身をささげる。エデルの役割は夫の子を身籠ること。そのための契りを交わすと頭では理解しているのに未知の領域への恐怖からか体が先ほどから小さく震えている。


 王の寝所へと続く控えの間でバーネット夫人が待ち構えていた。彼女はエデルの側にそっと近寄ると耳に顔を近づけてきた。エデルにしか聞こえない声で彼女は囁く。


「せいぜい、可愛がってもらいなさい。泥棒猫の娘なのだから男を悦ばせることくらい造作もないでしょう?」


 冷たく蔑む声がゼルスの王妃イースウィアのそれと重なった。


「―っ……」


 エデルは目を伏せた。何を言われてもエデルは反論しない。言い返すには気力を奪われ過ぎていた。小さなころからエデルはイースウィアと彼女を取り巻く人間たちの悪意を受けて育ってきたからだ。


 エデルが立ち止まっているとオストロム側の女官が先を促した。ぎこちなく足を踏み出す。バーネット夫人は王の寝所付近への立ち入りを許可されていない。それについて彼女は文句を言っていたが、今もエデルを案内する複数の女官はバーネット夫人があとに続かないように視線で牽制をしていた。


 王の寝室へ通され幾ばくかしたのち、オルティウスが現れた。式典用の正装でもなく、今のエデルと同じように薄い夜着を身にまとっている。黒い髪が艶やかに光っている。


 意外だったのは、あれ程野獣だとか大男だと言われていたオルティウスの見た目が予想を裏切るくらいに精悍だったこと。黒い髪に青い瞳は理知的で、声は低いが耳に心地よかった。そのことはエデルを酷く安心させた。本当に、どう猛な狼だったらどうしようかと道中ずっと気を揉んでいたからだ。


 王は現れたエデルをちらりと眺めた。

 この人と夫婦になったことがエデルにはまだよくわからなかった。


 確かに背はエデルよりもずいぶんと高いし、体つきも屈強で頑丈そうだ。それでも粗野で乱暴だという噂とはだいぶ違う人なのでは、と思った。オストロムに到着をした日、彼はわざわざエデルを出迎えてくれて手を差し伸べてくれた。


「ウィーディア」


 唐突に名前を呼ばれた。

 エデルは小さな声で「はい」と返事をした。


 静かな室内だったためエデルのか細い声はきちんとオルティウスに届いた。

 ゆっくりとこちらに近づいてきたオルティウスはエデルの両頬を片方の手の指で挟んだ。突然のことに心臓が飛び上がる。


 顔を固定されているためエデルはオルティウスの感情の読めない薄青の瞳を間近で見つめた。


「おまえは今日から俺の妻になった。妙な真似をすればおまえの首などすぐに刎ねてやる。肝に銘じておけ」


 低い声が耳朶に届く。


 物騒極まりない言葉が吐かれたのに、エデルを見据える瞳の中はまっすぐで、澄んでいた。


 いや、なんの感情も乗せていなかった。


 エデルは戸惑い、けれども最初の驚きが去った後はそれ以上の恐怖を感じることは無かった。


 彼はエデルを憎悪しているわけではない。

 直感的にそう思った。


 それはきっと、彼の瞳の中にイースウィアの持つエデルを殺したくて仕方がないというような激しい厭悪えんおを感じないから。


「反論でもするか?」

「……いいえ。ございません。陛下」

「殊勝な心掛けだな」


 エデルが返事をするとオルティウスはエデルの顔から手を離した。しかしオルティウスはまだエデルから視線を逸らさない。エデルの真意を測るかのような強い視線を感じる。居心地が悪くてエデルは逃げたくなった。


 けれどもオルティウスがそうはさせてくれなかった。

 オルティウスがエデルをさっと抱きかかえ寝台へと連れて行ったからだ。


 寝台の上に降ろされたエデルが戸惑う間もなく、その上にオルティウスが覆いかぶさってきた。


(ああ、このときが来たのだわ……)


 すぐそばに男の体温を感じた。薄暗い室内に二人きり。


 彼はきっとエデルのことを知らない。

 エデルはゼルスの王女として育てられたが、公の場に姿を現したこともないし、貴族たちはエデルをいない子として扱った。


 今回エデルはゼルスの白き薔薇、ウィーディアとして嫁した。ウィーディア・エデル・イクスーニ・ゼルスという名前になったのはゼルス側の小細工だ。どちらとも白き薔薇と言い訳ができるようにエデルは姉の名前を貰った。姉もおそらく同じ要領でどこかの国へ嫁ぐのだろう。


 オルティウスはエデルが半分偽物だと知ったら怒るだろうか。

 白い肌に春先のひんやりとした空気がまとわりつく。ぶるりと震えたのはこれから行われる行為に対する恐怖だろうか。それともただ寒いだけだろうか。エデルには判別がつかなかった。


「抵抗しないのか?」

「……」


 オルティウスはエデルに対して挑発ともとれる言葉を吐いた。

 けれども、エデルはそれに対して小さく首を振るのみ。

 

 もとより、抵抗など出来るはずもない。

 エデルはゼルスより嫁した身なのだ。

 夫婦となったのだから、これからは夫に従わなければならない。


「ゼルスではオストロムを含む東側の国々を蛮族と揶揄するのだろう?」


「そ、そんなことは……滅相もありません。……陛下」


 寝台の上でオルティウスは自虐ともとれる発言を繰り返す。従順な振りをしているだけだろうと言われているようでもあった。


 暗い寝所で、燭台の灯りが心もとなかった。

 互いの息遣いが妙に耳に響いた。


 脅かすようなことを言う人なのに、エデルに触れる手はどこか温もりがあって。

 そのことに戸惑った。


 エデルはその日、緊張と疲労で意識を失うように眠りについた。

 初夜の営みが済んだら王の寝所から退出し、王妃の寝所で眠ることになると女官から言われていたのだが、あいにくとエデルが思い出すことは無かった。

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