第6話 姉の身代わりとして2

「口惜しいわ……。おまえをこの手で殺せないことが、本当に口惜しい」


 王妃は薄ら笑いを浮かべ、何度もエデルの頬を撫でた。優しく、何度も。

 エデルはごくりと喉を上下させる。


 初めて彼女の口から、エデルを殺したいとの言葉が出た。これまでずっと喉の奥に隠していた、いや、隠しきれていなかった本心が今やっと姿を現した。


 イースウィアの言葉は本気で、だからこそエデルは恐怖でその場から動くことが出来なかった。


「けれども、おまえをオストロムへやらないと、わたくしの可愛いウィーディアが蛮族の元へやられて汚されてしまう。本当に、悩ましいわねぇ」


 前王の急逝により王となったのはまだ二十四歳の青年だという。エデルの脳裏にウィーディアが口にした隣国の王のうわさ話が蘇る。


「黒い狼……。礼儀知らずの乱暴者。いっそのこと、オストロムの王があなたを殺してはくれないかしら。野蛮な王なら、閨でおまえが粗相をすれば、その首を刎ねてくれるかもしれないわねぇ」


 ねえ、おまえは知っているのかしら。

 王妃は続けた。先ほどから彼女は一人で話し続けている。実の母のような慈愛のこもった声色で。けれども瞳はちっとも笑ってはいない。むしろ氷のように冷たかった。その瞳でエデルを射抜きながら、王妃イースウィアは結婚をした男女が寝台の上で何をするのかを語っていく。


 エデルが初めて聞かされる男女の営みの、生々しい話だった。


 エデルが顔を青くすると王妃は瞳を細めた。

 この時代、一国の王が愛妾を囲うなど良く聞く話ではあった。それでも、王妃は己の懐妊中によりにもよって己の侍女が王に囲われるという事実に、彼女の誇りはずたぼろにされたのだった。


 商売女の方がまだあとくされが無くてよかったくらいだ。王の手が付いた侍女は身籠り、王妃の産んだ娘よりも三カ月遅れてこの世に生を受けた。そして、母子は離宮に囲われた。王は王妃の目を盗み、女と子供に会いに行った。


 王妃はエデルの顎をつかみ、上向かせた。

 紫色の瞳の中に王妃に対する畏怖を感じ取ったイースウィアは満足して、口の端をほんの少しだけ持ち上げた。


「わたくしがおまえに傷の一つでもつけたかったけれど……。王に怒られてしまうものね」


 王妃は名残惜しそうにエデルの頬をもう一度撫でてから手を離した。

 最初と同じようにゆっくりとした動作で扉口へ向かい、部屋から出て行った。


 頭の中にたくさんの想いが浮かび上がっては消えていく。


 エデルのことを殺したいほどに憎んでいる王妃の言葉。

 初めて聞かされた男女の営み。生々しい情事の話はまだ十代のエデルにとっては耳に毒だった。


 オストロムの王はどんな男なのだろう。本当に、噂のような粗野な男なのだろうか。

 イースウィアの哄笑が頭の中をぐるぐると渦巻く。


 王女としてお情けで育てられた身の上だ。王はおそらく手駒が多ければ役に立つと考えエデルを姫として育てようと考えた。だから王の命ずるまま結婚をするのはエデルにとっては想定内のことだった。結婚適齢期を迎えたのだからそのうちどこかへ嫁がされると思っていた。


 ついこの間まで戦争を行っていた国同士の、表面上の和平のための結婚。

 きっと、歓迎はされまい。


 それどころか敵国の王女など祖国に情報を流す密偵として警戒すらされるだろう。針の筵には慣れているはずだったが、どこかで結婚に淡い希望を持ち合わせてもいた。政略結婚でも、もしかしたらこの国を離れることによって穏やかな日々を過ごせる日が来るかもしれないと。それは甘い夢想でしかなかった。


 エデルはその場にぺたりと座り込んだ。





 出発はとても簡素なものだった。


 いや、馬車が四台と護衛騎士や歩兵などを合わせるとそれなりの規模になったのだが、出立の儀式などは特になく、王族は誰も見送りに来なかった。やってきたのは数名の人間だけだった。宰相と大臣が姿を見せただけましだったといえる。


 エデルは最後に宮殿を見上げた。


 おそらくここに戻ってくることはないだろう。小さなころから育ってきた宮殿で、いい思い出などほぼないが、それでもエデルにとってここは己が住まう家だった。


「それでは、ゼルスの王女をよろしく頼んだぞ」

 護衛の騎士たちに宰相が声を掛ける。

「かしこまりました。宰相閣下」


 騎士隊長が恭しくこうべを垂れた。


 エデルは最後、見送りに来てくれた宰相らに「十分に用意下さりありがとうございました」と感謝を述べた。戦争の賠償金で国庫は厳しいだろうに、ゼルスの王女として最低限面子を保てる支度品を持ってエデルは東へ嫁ぐ。


 そろそろ馬車に乗り込もうとしたとき。

 見送りの貴族の後ろから一人の騎士が姿をあらわした。


(あれは……ユウェン様だわ……)


 もうずいぶんと彼の顔を見ていなかった。ずっと軟禁をされていて、顔を合わせていたのは身のまわりの世話をする女たちのみ。実の兄よりも優しい騎士とも今日でお別れだと思うと、エデルの心の中にようやく遠い地へ行くということが実感として湧いてくる。これから向かうのは知り合いも誰もいない土地なのだ。


 一瞬だけユウェンと視線が絡み合う。


(お兄様のようにお優しいユウェン様にももう会えない……)

 寂寥感で視界がかすむ。


「さあ、王女殿下」

 宰相がエデルを促した。エデルは小さく頷いて馬車へと乗り込む。


「今日からわたくしがあなた様のお世話をしますわ」


 すぐ後に声が続いた。同じ馬車に乗り込んできた女を認めたエデルの顔から血の気が引いていく。


「バーネット夫人……」


 馬車の中にどかりと着席をしたバーネット夫人はにやりと口の端を持ち上げた。馬車の扉が閉められた。


「おまえのような礼儀知らずの恥さらしがオストロムでどんな痴態をさらすか分かったものではありませんからね。イースウィア王妃殿下のお心遣いですわ。わたくしが、きちんとお世話をして差し上げますから、そのおつもりで」


 バーネット夫人はそう言ってエデルの体に手を伸ばし、横腹をつねり上げた。

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