第2話 パロディは死んだのか?
さてさて。第2回目の話題はパロディについて書いてみよう。
前回、私はルパン三世の再放送を飽きるまで観たと書いた。
それこそセリフの大半を覚えるまでに見ていたのだ。
あのシーンのあのセリフ。
記憶の奥底にこびりつき40年以上経った今でも
諳んじてみせることなど造作もない事である。
これも全て「再放送」のおかげなのだ。
何年にも渡って繰り返された再放送は世代を超えて視聴者を増やし
それこそ世代を超えた「共通認識」を形成したのである。
パロディはその「共通認識」をベースに成り立つ。
だから、ある作品のパロディを制作した場合には
この共通認識のあるなしが受けるかどうかを左右するのだ。
誰もが知っている。
だからこそ、ちょっと弄る事で笑いに変化させうるのである。
例 カリオストロの城 より
銭形警部「奴はとんでもない物を盗んでいきました。 あなたの心です。」
これをパロディにしてみよう。
銭形警部「奴はとんでもない物を盗んでいきました。 あなたの鼻毛です。」
まぁ、下着でも何でも意表をつく物に変換してみると笑えるかな?
見る人・読む人にいつもと違う反応を誘発し面白がってもらう。
それが爆笑なのか、それとも苦笑なのかはともかくとしてね。
それがパロディと言うものだと私は思うのだ。
では現在のTVや動画でこの「共通認識」が構築できているだろうか?
断じて No! と言わざるを得ない。
エンタテインメント・プラットフォームの多様化と
情報デバイスの個人所有化によって
「誰もが知っている」と言うパロディの大前提が崩れてしまっているからだ。
あなたが学生ならクラスメイトに尋ねてみて欲しい。
「ねぇ、○○っての知ってる?」
ちょっとマイナーな物なら「知らない。」と答える人が多いだろう。
現在は個人の趣向が多岐にわたっているために
共通の話題をさがすのにも苦労する時代となっている。
同学年ならともかく、1年上あるいは下の先輩、後輩に尋ねたら
もっと顕著に感じる事だろう。
「共通認識」が存在しない現在は人間関係の構築にも
大きな影響を与えているかもしれない。
私が子どもの頃、エンタテインメントを楽しむデバイスは
TVかラジオ放送しかなかった。
だから「みんなが見ている(聴いている)」放送を見逃がしたら
翌日、非常に大きな疎外感を味わうことになったものだ。
それがイジメにつながったりとか悪い面もあるのだが。
「みんなが見ている」→「みんなと一緒である。」と言う安心感は
心の安定に繋がるだろうし
なにより共通の話題はコミュニケーションを活性化してくれる。
現在、よく言われる「コミュ障」とされる人に
好きな事について話してもらうと とめどなく話をしてくれるなどを
経験した事はないだろうか。
これは彼らとのコミュニケーションにおいて
「共通認識」が構築されていないだけであり
彼らの思考能力や表現力が不足している訳では無い事を
認識すべきではないだろうか?
少し話が逸れてしまった。
パロディは共通認識の上に成立する。
これはアニメだけではなく芸能人や人気番組にも言える。
かつて「ものまね王座決定戦」と言うTV番組が一世を風靡した事がある。
いわゆる、ものまねタレントがスターのものまねを披露して採点形式で
競い合うと言うものだった。
彼らはスターの表情や仕草・歌い方を誇張したりして大いに笑わせてくれた。
この番組が成立したのはやはり
「誰もが知っているスター」が存在していたからだ。
それこそ小学生から高齢者まで文字通り「誰もが知っているスター」。
毎日のようにTVに出演し嫌でも目にしてしまう。
それは無意識に記憶されて「共通認識」が構築されていったのだ。
だから「ものまね」と言うパロディが成立したのである。
さて現在はどうだろう?
芸能人・アニメに関わらず国民全体に影響を及ぼす「共通認識」を
構築できている物はあるだろうか。
あぁ、「鬼滅の刃」は例外だ。
あれはコロナ過が生み出した鬼子だと私は感じている。
作品自体は素晴らしいものだろうと思うが
(でなければ社会現象になるまでヒットしないだろう。
私はへそ曲がり故、漫画もアニメも見ていないが…。)
あまりにも世間の反応が異常であるから
集団ヒステリー的な何かがある気がしてならないのだ。
また話が逸れたな。
現在、エンタテインメント・プラットフォームは個人所有が可能となり
その嗜好によって取捨選択出来るようになった。
それ故に「共通認識」の範囲がどんどん小さくなっていると思う。
具体的にはそれぞれのファンコミュニティーでしか「共通認識」を持てないのだ。
小さなコミュニティー内でのパロディ。
それは「内輪受け」と言うヤツに他ならない。
それを楽しむ事が悪いとは言わないし
過激なパロディなら内輪受けに留めておくべきだろう。
しかし文化としてのパロディを考えた時、
本当にそれでいいのだろうか?
時に社会問題や政権批判などを指摘し笑い飛ばすことで
我々のメッセージを突きつける武器となる「パロディ」。
これを手放すことは大きな損失になりはしないだろうか。
「パロディは死んだのか?」
結論:死んではいないが虫の息。
第2話 End
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