第12話 続「オリンピック?なにそれおいしいの?」
さて、今回は前回の続きである。
前回、私がオリンピックに興味を失った理由の一つ。
「行き過ぎた商業主義」について書かせて頂いた。
これについて共感して頂いた方がいたのは嬉しい事だった。
現在のオリンピックに違和感を感じていただけたなら幸いである。
今回は「意識的な情報遮断」についてだ。
私はとある派遣会社の寮に住居がある。
その備品の中で TV は現代の生活において
無くてはならない存在だろう。
本当にそうなのだろうか?
私は現在、TVを視聴していない。
理由は物理的にTV視聴が出来ないためである。
2021年1月から私の部屋のTVは故障中であり
今も回復していない。
会社にTVの交換を申し出れば、すぐにでも回復できるのに
あえて、そうしていないのだ。
最近はTVを視聴するのは基本的にニュース番組くらいで
エンタテイメントとしてはTVの存在は皆無だった。
私の感性からするとTVのコンテンツは下らないものが多く
見ても見なくてもいい物ばかりが並んでいる。
しかも、それらはTVを点ければ強制的に送られてくる。
チャンネルの選択はできるとしても
そのどれもが下らなく思えるコンテンツ。
それなら自律的にコンテンツを選べるYouTubeや
ニコニコ動画などを視聴した方が余程ましだ。
いまやTV視聴の優位性は
リアルタイムで情報を伝達すると言う一点しかない。
しかし、その情報が歪められているとしたら?
私はここ5・6年で、TVのニュース番組が
変質してしまったと感じている。
いろんな事件報道を見ていると
明らかな「過剰演出」で視聴者の目を集める事が
最優先されていると思うのだ。
TV局にとっては「視聴率を取る」事が正義である事は分る。
しかし、ニュース報道は「公共事業」と言うべきもので
そこに自らの利益を求めるのは筋違いだろう。
TV局はどうやって利益を上げるのか?
各スポンサー企業のCMを放映する事によって
その放映権料を得ることで収入を得る訳だ。
CMはコンテンツの中に挿入されたり
コンテンツの間に放映されて視聴者の目に触れる。
それがスポンサー企業の製品購入に繋がったり
企業イメージの向上をもたらす。
これには、より多くの人々の目にCMを届ける事が
重要である。
だからTV局は人々の目の触れ方を計る物差しとして
「視聴率」を用いている。
そのため、人々の耳目を集めて「視聴率」を上げるために
「過剰演出」のニュースを放映しているのだ。
私が思うに、現在のニュース番組は「報道番組」ではなく
「ニュースショウ」になっている。
ショウであれば、必ず何らかの形で「演出」がある訳で
それが、世論を誘導するものであるとすれば
私達の社会情勢判断を誤らせる事も可能だ。
それも、知らず知らずのうちにである。
実に質が悪いと言わざるを得ない。
まぁ、くどくどと書いてきたが
「TVのニュース番組の信用度が著しく下がってきたため」
TV視聴を辞めたと言う事である。
押し付けられる情報から解放された現在。
社会の変化を知る手段はあるのか?
有る。
スマートフォン、いや、PCも含めた
情報端末でニュースサイトその他から
情報入手が可能になっている。
それも、自律的に入手する情報を選択できるのだ。
これによって自らの意思で「情報遮断」ができる。
つまり興味のない情報をスルーしてしまえばよいのだ。
人間の情報処理能力は限られている。
産まれてから現在までの出来事すべてを
記憶している人はまずいないだろう。
しかし、自分が望まないのに記憶してしまう事項もある。
現在では考えられないだろうが
3,40年前はヒット曲がヘビーローテーションするなど
当たり前だった。
ラジオなどでは1時間に3、4回同じ曲が流れるなどして
記憶に刷り込まれることは往々にしてあったのだ。
(当時は時間帯にもよるが、1番組が10分ほどの物が多く
それぞれの番組で個別に選曲されていた。
故に違う番組で曲がかぶるなど当たり前に起きることなのだ。)
私の場合。当時、山口百恵の曲が刷り込まれてしまい
今でもサビの部分を口ずさむことができる。
もっとも、時間の経過によって正確性はかなり怪しくなっているが…。
話が逸れて来たようだ。
情報遮断へと話を戻す。
人間は自分の周りの情報に興味を持つ。
それに関連した情報も収集して自らの知識とする。
では、ある一定期間、その情報を収集しないとどうなるか?
確実にその情報に興味を失ってしまうのだ。
私の中学時代の話をさせてもらう。
入学式当日。
初めて入る教室の引き戸を開けた時に
1人の女子生徒が目に飛び込んできた。
何故か体が熱くなり彼女から目が離せなくなった。
そう。一目惚れと言うヤツである。
それから1学期の間は彼女に夢中だったのだが…。
夏休みに入り彼女の姿を目にすることはなくなった。
声も耳にする事は無かった。
そして2学期に入り彼女の姿を見ても、声を聴いても
1学期の時のような、ときめきを感じなくなっていたのだ。
これは「彼女」と言う情報が
夏休みの間に遮断されていた事で興味の度合いが
薄くなってしまったためである。
この経験から私が学んだ事は
「興味の持続とは情報獲得の持続と同意である。」
と言う事だ。
さて、私がオリンピックに興味を失った理由。
なんとなく理解してもらえただろうか?
2021年東京大会。今回の北京大会。
TVによってオリンピックの情報が
私に押し付けられる事は無かった。
さらに現在の情報収集の方法によって
「意識的に」オリンピックの情報を遮断した。
それ故に。
「オリンピック?あぁ、やってるね。」
と言う位の感想になっているのが現状である。
「意識的な情報遮断」。
これは、かなり危険な面もある。
社会システムの変化を認識できずに
多大な不利益を受けることににもなりかねない。
自らが取り入れる情報の取捨選択を
慎重に見極めなくてはならないだろう。
現在は、かつてのマスメディアだけが
情報を流すことができた時代とは違う。
自ら情報の取捨選択が出来る時代だ。
だから自らの判断を信じる事がより重要になる。
そのためには知識を蓄え、思索を深めて
自己を確立する。
つまり。
「自分に揺るぎない自信を持って生きていく」
この事に尽きるのではないだろうか。
と、書いてみたのだが。
現状の私を振り返ると実に危うい、と言うか…
心もとない。
だが、そこを目指して
日々を送る事は出来るはずだ。
貴方も適切な情報の取捨選択を行って
人間としての「真の自立」を目指してはいかがだろうか。
なんてな…。(苦笑)
今回はここまで。
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