15. 花開く永遠などないしすぐに散る


 文化祭の二日目を迎えていた。梨生のクラスのチュロス店シフトの関係上、結局、最終日の今日しか吹奏楽部のステージ演奏を見られない。揚げたてのチュロスを勤務時間の最後に失敬して、クンちゃんと共に屋外ステージへ向かった。


 積載人数に対して明らかに狭いステージ上を、金や銀、黒や茶など様々な色の楽器を手にした部員たちがぎゅうぎゅうになって座っていく。千結はクラリネットパートとして最前列の左のほうに居て、特に緊張も見えず普段と変わらない顔つきだった。タキシードを着た音楽の先生が最後に壇上へ上がりお辞儀をして、会場から拍手が上がった。先生が楽団へ向き直って指揮棒をピッ、と掲げるとステージの空気が一気に引き締まる。そして曲が始まる瞬間、オーケストラ全体がまるでひとつの生き物のようにシンクロして息を吸い、それから厚い音が、ステージと言わず会場全体の空気を震わせた。

 ピアノの発表会で小さなホールに立つことや、スポットライトを浴びる誰かの演奏を聴くことはあったけれど、こんなに間近で大勢の人間による生の演奏を見ることは、梨生にとって初めてだった。演奏しながら舞うように体をゆったりと揺らす人たちや、他のパートと視線を交わし、複数の楽器が呼吸を揃えて旋律に躍り出るときの様子などは格好良かった。

 引かれたカーテンのあいだから飛び込む朝一番のきらびやかな太陽、小川のそばの岩陰を吹き抜けるそよぎ、海底から響いてくる深くゆったりとした海洋生物の鳴き声、森の奥で春の訪れを歓ぶ鳥のさえずり。さまざまな音色を持つ楽器が組み合わさると、その響きは、ふくよかに、可憐に、勇壮に、儚く、いかようにも変化した。

 上手かみてのほうで、ホンダさんはにこにこと幸せそうにサックスを吹いていた。千結は笑顔こそ浮かべていないものの、他のクラリネットの子たちと体の動きで会話するみたいにぴったりと息を合わせていた。

 ――そういえば、中学に上がって以来、いつからか梨生はピアノをやめてしまった。たまに隣家から千結のピアノの音が聞こえてきたけれど、もう長いこと彼女がピアノを弾くところを見ていない。ちーちゃんは音楽をちゃんと続けていて偉い、と梨生は思った。


 最後の演奏は、某世界的有名テーマパークのパレード曲だった。聞き覚えのあるメロディに会場も手を叩いて盛り上がる。あ、同じクラスのいつもは目立たないササキくんがドラムセットを絶好調で叩いている。両手足を自在に操りビートを刻み、オーケストラだけに留まらず会場の熱気をも先導する彼の姿は大人びて冴えていた。

 梨生もリズムにのって小さく揺れていたが、ふと見た千結の顔は今までになく緊張しているように思われた。もしかしてソロでもあるのかな、と思いかけたが、すぐに理由がわかった。各楽器パートが曲のなかで特に目立つところに入ると、彼らは立ち上がって簡単な振り付けを交えて演奏するのだ。ホンダさん含むサックス群は、金色の楽器を煌めかせて活き活きと回転しては左右に揺れ、締めくくりには雄叫びをあげるがごとく揃って体を反らせ楽器を掲げた。お客さんもみなそれぞれのパフォーマンスに拍手を送っている。

 どうか、クラリネットよ目立たないで……と千結のために梨生が願いかけたとき、さっとクラリネットたちが立ち上がった。陽気なメロディに合わせて彼女たちは脚を交互に差し出し、くるりと回って可愛らしく揺れたり上下に屈伸したりする。

 ああ、そんな、楽器を吹きながら踊るだなんて……運動音痴の千結に……そんなことができるのかッ……と息を呑む梨生の前で、千結の顔つきが変化していく。演奏と踊りの両立に必死すぎて、なんと、美少女だったはずの千結の顔面には、『教頭』が顕現しかけていた。隣のクンちゃんが異変に気づき、切迫した声で梨生へ囁きかけた。


「ねえっ、アワタ……!」


 声を出す余裕もなく、梨生は頷いてクンちゃんの手をぎゅっと握りしめた。

 どうか、教頭先生、鎮まりください……! 小学校へお帰りください……!

 尋常じゃない何かが少女へ憑依しかけているのを前に、心なしか会場にも戸惑いの空気が流れ始めた気がする。息を止めて見守る梨生とクンちゃんの祈りが届いたか、完全な教頭降臨には至らず、クラリネットパートの舞は終わった。


「危なかったね……!」


 梨生とクンちゃんは額に汗を滲ませて安堵のため息をついた。パレード曲でとんでもないアトラクション体験をさせてもらった。



 吹奏楽部のステージのあとも、ダンス部やバンド演奏を観て他クラスの出店を回っていれば、あっという間に文化祭も終わる頃になっていた。自分のクラスでチュロスのあと片付けをしているうち、外はすっかり暮れ始めていて、花火の上がる時間が迫りつつあった。千結との待ち合わせに遅れそうだったが、どうしても寄りたいところがあったので廊下を駆けた。小学生のとき二人でよく飲んでいた夏みかんゼリーのジュースが、部室棟の裏の自販機でひっそりと売られているのをつい先日見つけたのだ。

 千結の携帯電話に『遅れそう』とメールのひとつでも送っておこうか、と迷いながら、もどかしく数枚の硬貨を入れ二本のジュースを手にした梨生が廊下を早歩きしていると、渡り廊下へ連なる扉のところで同学年の生徒たちが鈴生すずなりになっているのを見つけた。隠れるようにして扉に張り付く集団の中に友人を見つけた梨生は、


「なに集まってんの?」


と声をかけたが、彼は「しーっ」と人差し指を口に当てると、呑気に突っ立っている梨生の腕を引っ張ってしゃがませた。そして、


「高井が粟田に告白してる」


と興奮気味に囁いた。

 梨生の心臓は嫌な感じに一度跳ねた。他の生徒たちに倣って彼女も扉の隙間から外を伺う。

 身長の高い男子生徒がこちらに背を向けて、千結と向かい合っていた。この距離では話している内容は聞こえないが、千結の表情ははっきりと見えた。さして普段と変わらない無表情に近いものの、目線はどこか落ち着きなく、地面と校庭のほうを行き来していた。


 一歩、男子が千結へ近づく。千結が彼を見上げた。背の高い彼を見上げるその顔は、緊張しているのか、かすかに眉をひそめ、口を結び、少し不機嫌そうだった。

 遠くから見つめる千結は、いつのまにか中学二年生らしいスカートの長さで、夏服のセーラーに重ねたグレーのカーディガンはよく似合っていて、間違いなく、彼女は垢抜けた綺麗な女の子だった。そうだ、彼女には格好いい男の子が似合う。


 失うんだ、と梨生は思った。いつまでも自分なんかが無条件に彼女の隣にいられるわけじゃないんだ、と。


 そのとき、ぱっと光が走り、ドン、と校庭の上空に花火が上がった。千結はそちらへ首を向けて、それから一瞬無防備な顔をした。花火の光に照らされたその無垢な横顔を見た瞬間、梨生の胸は軋んだ。

 ――嫌だ、見たくない、ちーちゃんが他の男子に取られるところ。

 そして衝動のまま立ち上がった。視界の隅で動いた人影に、千結の目がそちらへ向いた。


「――っ」


 また花火が打ち上がって散り、校舎を光の粒で色とりどりに染めるなか、扉の窓ガラス越しに、千結と梨生の視線が絡まった。

 千結の目がまず驚きに丸くなり、そして一瞬の間を置いて喜悦に細まった。

 それを見た刹那、梨生は混乱と悲しみと屈辱、寂しさの洪水に襲われ、顔を背けてその場から駆け出した。


 手の中のジュースが濡れて冷たい。陳腐なデザインと安っぽいオレンジ色の缶が、とても幼く感じられて悔しかった。急いで教室へ取って返し、自分の学生鞄を掴むなり、自転車置き場へ走った。自転車の前かごへ鞄と二本のジュースを投げ入れる。

 梨生は立ち漕ぎでペダルを踏みしめながら、花火に明るく浮かんだ、千結の嬉しそうな瞳をいつまでも思い出していた。



 家まで飛ばし続けた自転車を乱暴に駐め、汗みずくになって自室へ駆け込み、梨生は制服のままベッドに突っ伏した。何度か携帯電話が震えたけれど、全部無視した。そのまま少しの間眠って、起きたときには窓の外はもう真っ暗だった。

 のろのろと携帯電話を手にして液晶画面を覗くと、千結から何件かの着信履歴と、メールが届いていた。『花火一緒に見られなくてごめん』とだけ書いてあった。返信する気が起きずぼうっとそれを握っていれば、クンちゃんからメールが届いた。


 そこには、『梨生聞いた!? 粟田、三組の高井と付き合ったらしいよ!!!!』という文字が踊っていた。

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