19. ゆえなくて鉛筆握る黄昏どきのスタートライン


 ――あともう少しだったのに。

 秋の都大会出場にあと一歩及ばず、梨生の中学陸上は幕を閉じた。


 中学三年の秋になっていた。

 三年になってから梨生の短距離走の記録は大きく伸び始め、今回の支部対抗の選考会でいい成績を残せたら、この地区の代表選手として都大会に参加できるはずだった。だが、惜しくもそれに手が届かなかった。


 一年ほど前に引っ越した千結とは、二年生のうちは意識してまめに校内で顔を合わせていたが、三年になって彼女がホンダさんと同じ組になり、クラスの友人に囲まれて穏やかな表情を見せるようになってからは、梨生自身も部活動が忙しくなってきたこともあって、それほど話さなくなっていった。


 梨生がトラックの上で0.1秒を争い、フォームやスタートを何千回と点検し、繰り返し反復練習しているうちに、同級生たちはいつの間にか机にかじりついて、1点2点を争う受験モードに身を浸していた。誰よりも早くフィニッシュラインを超えることばかり考えていた梨生は、太陽が照りつけるコースの上から、紙とペンが全ての薄暗い室内へ突然放り込まれ、出遅れたスタートを切ったことにいまだに慣れないでいる。


 今年の春から都内の大学へ進学した姉の果歩は、実家から通っていたものの、やはり一人暮らしをしたいと言い出し、大学近くの狭い部屋を借りて家を出て行った。

 元・果歩の部屋は梨生のそれより少し広く、コタツも残されていたので、秋も深まって肌寒くなってきたこの頃は、彼女の部屋でコタツにもぐりながら勉強するのが梨生の習慣になっている。漫画好きな果歩の部屋では壁を一面本棚が覆い、勉強の合間に漫画へ手を伸ばせるのも梨生は気に入っていた。それで勉強が捗っているかというと疑問はおおいにありつつも。




 そんな折、千結から久しぶりに連絡があった。


『電話してもいい?』


というメールの文字に、コタツで参考書に向かっていた梨生は通話ボタンを押した。

 型通りの挨拶を終えると千結は、


『果歩ちゃん、引っ越したんだって?』


と尋ねた。

 母親ネットワークから伝え聞いたのだろう。引っ越してからは学校のなかでしか二人は顔を合わせなかったけれど、母親同士は今もそれなりに連絡を取り合っているようだ。


「うん、ここからでも全然通えるのにさ、『一人暮らししたいー』っつって。お父さんもお母さんもお姉ちゃんに甘いんだよ」

『寂しい?』

「まさか。一人暮らしは羨ましいけど、お姉ちゃんの部屋、コタツあってあったかいし、今はあたしの勉強部屋にしてるから、まーあたしも恩恵受けてるんだよね」

『でも果歩ちゃんの部屋、漫画だらけじゃなかった?』

「そうそ。勉強飽きたらすぐ息抜きできるよ」


 しゃべりながら梨生は仰向けに倒れ込んで、そびえたつ漫画本の群れをコタツの中から見上げた。


『息抜きの時間のほうが長そう』

「当たり」


 くすりとして梨生は正直に答えた。電話の先の千結は少し黙ってから、


『……その勉強部屋、部外者も使えるの? たとえば――私とか』


 “部外者”――頻繁に互いの家を行き来していた頃だったら、絶対に使わなかった言葉だろう。わずかな寂しさを覚えながら、梨生は「うーん」と唸った。


「塾の自習室使うほうがいいと思うよ。この部屋、誘惑が多すぎるから」

『漫喫代わりにする』


 そっけなく放たれた答えに梨生は笑い声をあげ、


「勉強する気なしか。でも来てくれたらうちのお母さんも喜ぶと思う」

『りおのお母さんの料理、好き』

「はいはい、こちらフリーのお食事付き漫画喫茶です」


 暗に食事を希望するふてぶてしさへ即座に対応され、千結はくすぐったそうに吐息をこぼした。


『営業時間は何時までですか』

「お客様のお帰りが遅いと心配なので、今週末の11時〜20時でしたらご利用可能です」

『――じゃあ土曜の14時に。ディナーを希望します』

「料理長に伝えておきます。何か食べたいものあります?」

『シェフのおまかせコースを』



 そうして本日、梨生の家へ千結が訪ねてくることになった。勉強に使うのは姉の部屋だけだが、梨生はなんとなく自分の部屋も掃除しておいた。


 よく晴れた土曜日の午後、千結を招き入れた梨生は、玄関で一瞬彼女に見惚れてしまった。まともに千結の私服姿を見るのは随分と久々だった。

 アイボリーのてろんとしたシャツワンピに細い茶のベルトが千結の腰の高さを強調し、華奢な肩へ無造作にかけられたくすんだ緑のニットも小粋にキマっている。ニットと同系色のストラップサンダルはややもすると寒そうだが、白い靴下を重ねており冷え性対策もばっちりだ。勉強道具が詰まっているのだろう重そうなトートバッグだけが、その装いに中学生らしさを残していた。髪もアップにして一段と大人っぽい彼女へ、梨生はため息まじりに賛嘆の声をかけた。


「ちーちゃん、美人さんだね」

「……なに、それ」


 呆然とした梨生の言葉を受けて、千結は決まり悪そうに前髪の先へ指を絡めた。梨生は自らのスウェット姿を見下ろして苦笑し、


「あたし完全部屋着だ、はずいかも。まーあがってあがって」

「……お邪魔します」


 促されて靴を脱いだ千結は、なおもしげしげと見つめてくる梨生から顔を背けて、


「――あんまり見ないで。りおママ居る? 挨拶しておきたい」

「あーうん、リビングに居ると思う」


 梨生は、「おかーさーん、ちーちゃん来た」と居間のドアを開けて母親と千結を会わせる。


「こんにちは。お邪魔します」

「あらあら、ちーちゃん。まあ、ちょっと見ない間にすごい美人さんになって」


 ソファから立ち上がった母がはしゃいで自分と同じ感想を漏らしたので、梨生は「ほらね」と得意げな目線を千結へ投げた。なんと答えるべきか迷った千結は無難に、


「――お久しぶりです」


と頭を下げた。母親は破顔して、それから娘へ呆れたように言う。


「梨生、あんた格好だけでもどうにかしないとちーちゃんとの差がすごいわよ、差が」

「うるさいなあ、知ってるよもう」



 くちうるさい母親から逃れるべく早々に姉の部屋へ退散する。部屋へ入ってすぐ、千結は目を見開いた。


「わ。漫画すごいね。前からまた増えた?」

「うん、やばいよね。全部売り飛ばしたら結構な額になると思う」


 コタツの上には台所から定期的に調達するみかんが大量に積んである。艶やかに光る橙色の球体たちを見て目尻を柔らかくした千結へ、梨生は「みかん好きなだけ食べていいからね」と明るく伝えておいた。


 さっそくコタツに入って勉強道具を広げる。机の配置上、L字に並んで座った。途中で母親が飲み物とお菓子を差し入れに来た以外は、真面目な受験生らしく二人は意外にもきちんと勉強に取り組んだ。



 世界史のノートをまとめていた梨生は、そろそろ集中力が切れ始めていた。気を紛らわせようと皿の上からクッキーをひとつつまんでみても、背中の本棚から漫画を抜き出したい気分がもたげてくる。「漫喫代わりにする」なんてうそぶいていた千結をそっと見やるが、彼女は黙々と勉強を続けている。

 落ち着きのなくなった梨生の気配を見て取った千結が、目を上げて微笑んだ。


「問題出してあげる」


 そう言って梨生の手元からノートを取り上げ、クイズを投げかけてくる。


「1498年にアフリカの喜望峰を経てインドへの航路を開拓したのは誰?」

「あー……いっつもそこ3人くらいごっちゃになる。コロンブスじゃないし〜……マゼランでもないから……あー……」

「カエルみたいな名前の」

「バスコ=ダ=ガマ!」


 早押しクイズみたいにして卓上を叩いて叫んだ梨生に、千結が「正解」と笑みをこぼす。


 そのあともぱらぱらとページをめくりながら次々に出される問題はきちんと要点を得ており、梨生が答えに詰まればすらすらと周辺情報も与えてくれ、千結の理解度の深さを窺わせた。


「『エジプトはナイルの賜物』という言葉が有名な、アテネの歴史家は?」

「え? 有名とか盛りすぎ。初耳だよ……」


 自分の書いたノートを基に出題されているのだから、まったく知らない知識ではないはずなのに一向に何も思いつかず、手がかりをつかもうと出題者の顔をじっと見つめてしまう。千結は良いヒントを提供しようとノートに目を落とした。


「んー。『歴史の父』と呼ばれる……紀元前の人で……」


 綺麗な子、と梨生は思った。

 そのまつげは一本一本が長くて、気品のある額と細い鼻梁、それに続く丸く柔らかそうな頬は、彼女が秘める気の強さなんて微塵も感じさせず、どこまでも慎ましやかな印象を与える。真剣なまなざしに少しひそめられた眉は、なんだか色っぽかった。


 ぼうっとその造形を眺めていたら、顔を上げた千結と目が合ってしまった。ので、梨生は思いついたままのことを口にした。


「ちなみに『歴史の母』と言われる人はいますか、ちーせんせい」

「ん? しらない」


 くだらない質問にも千結は頬を緩めた。今はどこまでも穏やかなその瞳が、リラックスした様子でこちらを見つめ返している。そんな風に見つめられると、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。


「……わかんない。せんせい、正解は?」


 あかい唇が、「ヘロドトス」とかたく似合わない言葉を紡ぐ。

 こうして二人きりでひとつの空間にいるのは本当に久しぶりかもしれない。

 梨生は集中できなくなっていた。


 ――まただ。また感情の手綱を握るのに失敗して、おかしな方向へ暴走しかけている。最近はずっと大丈夫だったのに。


「んー……へろどとす」


 これ以上千結と顔を突き合わせていてはなんだかよくない気持ちになりそうだったので、梨生は上体をぱたりと倒して床へ寝転んだ。


「……」


 つかの間沈黙が流れ、やがて静かな千結の声がそれを破った。


「りんご」

「……りんご?」


 およそ世界史とは関係のないつぶやきに梨生ははたと思考を止めて、首を千結に向けた。彼女は口を閉じて見返してきた。

 昔から、二人の間ではしりとりは唐突に始まるものだった。それをただちに思い出し、梨生はにやりと口角をあげて、「極道の妻」と続けた。千結も淡く笑って「マンドレイク」と返す。


 外でときどき鳴くカラスと、単語のラリーをひたすら続ける二人の声だけが部屋に響く。コタツに入りこうやってしりとりだけをしていると、昔に戻ったみたいだった。高校受験が近づきなんとなく肩に力が入っていたのが、コタツのぬるい温もりと、静かな千結の声に次第と溶け出していくようだった。

 いつしか梨生は眠りに落ちていた。



 …………



 唇に何か冷たいものが触れて、梨生は意識を浮上させた。

 ――あ、いつの間にか眠っちゃってた。

 柑橘類のフレッシュな香りが鼻に届く。寝ぼけながら唇に手をやると、何かが載っていた。


「……」


 それをつまんで、まだ開けきらないまぶたの前に掲げて確認する。みかんの実だった。

 コタツで眠ってしまった体の内側には熱がこもっていた。ちょうどいい。梨生は目をつむってみかんを口に運ぶ。爽やかな甘酸っぱさが喉を潤していく。

 目を半分開け、気怠く首を傾けて千結を見る。千結は梨生へ視線を投げながら、みかんをついばんでいた。


「なんかおそなえされてた」


 梨生は寝起きの掠れた声で話しかけたが、千結は無言でみかんを剥くのをやめない。そして黙ったまま腕を伸ばして、また梨生の口元にみかんの実を差し出してくるので、梨生もおとなしく食べさせられる。のろのろと咀嚼してから梨生は「もっとちゃんと白いの取って」と訴えた。

 返事も返さず、千結はみかんの筋を取って寝転がったままの梨生へせっせとそれを運ぶ。それが何往復か続いたあと、梨生はつぶやいた。


「――寝起き即みかん」


 ふふふ、と二人で笑い合った。




 それからまた勉強を再開した。

 梨生が苦手な数学に手こずっていたら、千結はわかりやすく教えてくれた。


「あーなるほどなるほど。わかった気がする」


 何度も頷いて納得した風の梨生を見て、千結は嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 小学生の頃から千結は勉強がよくできたが、高校受験が差し迫りつつある今の状況で、改めてその実力を梨生は思い知る。


「――ちーちゃんてさ」


 一度言葉を切った梨生を千結は見つめた。


「志望校どこ?」

「……XX高校」


 千結は少し黙ってからゆっくりと答えた。進学校として有名な高校だった。


「ちーちゃんなら狙えるよね」


 彼女の新しい家は、その学校へ通うのに便利な駅を最寄り駅としている。千結の両親はきっとそれも見据えて引っ越し先を選んだのだろう。


「――りおは?」


 真剣な顔で問う千結から目を逸らし、梨生は小さく答えた。


「あたしは……ZZかな」

「……」


 二人のあいだに沈黙が降りた。窓から差し込む夕陽がノートを黄金色に染めるのを見つめながら、今度こそあたしたちは違う学校へ進学するのだろう、と梨生は思った。


 そのとき、「ごはんよー」と階下から母親の呼ぶ声がした。



 会社の付き合いで居ない父親の代わりに今宵は千結を伴って、いつもより豪勢な夕食を囲んだ。時間をかけて夕食を楽しんだあと、母親が千結へなにげなく、「今夜は泊まってったら」と誘いをかけた。

 千結はすぐには返事をせず、まず梨生へ顔を向けた。梨生はため息をついて母親を諌める。


「いちお、あたしたち受験生なんだよ」

「あら、お昼のあいだちゃんと勉強してたんでしょ」

「そうだけど、……ちーちゃんに勉強教えてもらってばっかだったし」


 弱々しく答えた娘から千結へと視線を移して母が謝る。


「あらーそれはちーちゃんに悪かったわね」

「いえ。……また、お料理いただきに来ていいですか」


 飾り気ないひと言で、礼には及ばないと示しつつも、千結は抜け目なく次回のフリーミールの約束を取り付けようとする。


「大歓迎よ〜梨生の家庭教師代だと思って、いつでもいらっしゃい」


 朗らかに言う母親を前にして、こんな会話がなされていると知ったら、ちーちゃんのお母さんはたいそうお怒りになるのではないか、と梨生は憂鬱になった。

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