#20. 眠るな来てよ、ぶっちぎり、逆転見せて①


「りんご」


 勉強会に飽きてしまった様子の彼女の気を留めておきたくて、ぽろりと口からこぼれ出た言葉。


「……りんご?」


 炬燵に入って仰向けに寝転がっていた梨生が、おもむろにこちらへ首を向けた。世界史の問題を出しているはずなのにどうして"りんご"なんて単語が突如飛び出してきたのか、という疑問がその目には浮かんでいた。


「……」


 わかってほしい。そんなわがままを込めて黙って見返すと、すぐさま彼女は悪戯っぽく笑って、


「極道の妻」


懐かしい遊びに付き合ってくれる。

 昔みたいにしりとりを始められたことに、にっこり笑いたくなるのを我慢して応える。


「マンドレイク」

「く、クコの実」

「ミモザ」

「雑草」

「ウド」

「ど……ドドメ色」

「ろくろ」

「六本木」

「銀色」

「ロマンス」

「すみれ色」

「えーもうちーちゃん、"ろ"やめて。ろ……論語」

「ゴザ」

「――ざくろ」とつぶやいた梨生がこちらへ向かってにやりとした。

「ろ……ロミオとジュリエット」

「トトロ」


 得意げに目を細めてくる彼女を睨んで続きを考える。

 外ではときどきカラスが鳴いている。梨生は仰向けのまま目をつむって言葉をぽつり、ぽつりと紡ぐ。渡し合う言葉の選択に緩やかな縛りが発生しては遷移していく。長閑な時間に、昔に戻ったみたいだ、と思う。

 しばらく続けていたら、ラリーが遅くなっていって、やがて梨生から言葉が返ってこなくなった。

 にじりよって彼女の顔を覗きこむ。寝ている。

 起こさないよう静かに隣へ寝転んで、その横顔をじっと見つめた。


「……」


 何も警戒していない、丸い眠り。あどけない表情。子どもの頃みたい。

 昔はよく一枚のタオルケットを共有して、春や夏に手を繋いで一緒に眠った。

 炬燵のかけ布団から投げ出された梨生の手に、視線が吸い寄せられる。


 ――どこまでなら、起きたときに許してくれるかな。


 手を繋ぐなんてこと、あの頃は自然だったのに。今やるのなら、それ相応の理由が必要になる。私に理由はあるけれど、彼女にそれを受け入れる理由はあるだろうか。

 手ぐらい繋いでも、梨生は受け入れてくれる……とは思う。

 でももし、そこに込められた私の想いを正しく受け取って、そのうえで梨生が違和感を感じるなら……それは私たちの『友達』という関係を遅かれ早かれだめにするにちがいない。

 くだらない衝動を叶えるのに、それはあまりにも大きい賭け金すぎる。

 梨生は私のことを、図太いとかたくましいって言うし、私もその自覚はあるけれど、ただひとつ、大胆にはなれない弱点がある。


 ため息をついて床から起き上がる。


 ちーちゃん、と私を呼ぶ彼女の声が頭の中で響く。胸がほんの少し、甘く軋む。

 ピアノを弾いて聞かせたとき、まるで熱に浮かされたみたいな目をして褒めてくれるのが嬉しかったから、中学の部活は吹奏楽部を選んだ。

 中学生になって以来クラスも部活も違って、遠のいていく不安感、梨生と繋がっていたいという考えから、『ちーちゃん』を彼女のものだけにすべく、周りには苗字呼びにさせた。

 果歩ちゃんが引っ越したと聞き、それをきっかけにできるかも、と思って少し勇気を出して連絡し、家に押しかけた。


 私の涙ぐましい努力のうえで、私たちはかろうじて細い糸で繋がっている状態なのだ。それを梨生はちゃんとわかってるんだろうか……わかってないだろうな。


「りおめ」


 炬燵の上の蜜柑を取り、腕を伸ばして梨生のおでこに載せた。


「ふふ」


 携帯電話でその間抜けな姿を撮る。カシャ、とカメラのシャッター音が鳴るけれど、梨生はそれでも起きない。


「……」


 四つん這いになって、梨生の上に覆いかぶさる。

 ゆっくりと顔を近づけ、蜜柑を挟んでおでこをくっつける。蜜柑がストッパーになってくれる。


 すぐ目の前に、梨生の顔がある。すうすうと寝息を立てて、のんきに眠っている。今は、どれだけ熱い視線を送っても気づかれることがない。

 人のさそうな薄い下がり眉。活発な光をいつもたたえた悪戯っぽい瞳は閉じられていて見えないのが残念だけど、その代わり、太陽をたくさん浴びて褐色に近くなった豊かなまつげがよく見える。風を切って走るのがたまらなく似合う、すっとまっすぐ通った鼻筋に、カパリと笑ったときがとびきり可愛い大きな口。


 私の熱くなる顔に、額の蜜柑がひんやりと気持ちいい。柑橘の爽やかな香りが少しした。


 ――口付けしたら、起きるだろうか。


 童話の眠り姫では、王子様がキスをして眠り姫が目を覚ましたあと、彼らふたりの物語が始まって、幸せに暮らしましたとさ、とハッピーエンドに繋がるけれど、私たちの場合は――私たちの物語は、たぶん終わる。


 蜜柑一個分が、遠い。


 起き上がって、蜜柑を慎重に取り去った。炬燵の上でそれをのろのろと剥く。

 勝手だとは思うけど、高校だってもし同じところに行けたら……とどうしても考えるのを止められない。だから、梨生の勉強につい干渉してしまう。わからないところがあるなら理解してほしいし、暗記がつまらないなら一緒にやろう、と申し出てしまう。……傲慢なのはわかってる。でも、うちの親は、今度こそ私のわがままは聞かないだろうから。


 手元の蜜柑から、視線を再び梨生へ移す。口が小さく開いてる。


「……風邪ひくよ」


 注意の声をかけるけど、本心は彼女を起こしたくないから小声になる。


 薄い唇が、無防備に桜色に息づいてる。


 もし、今この瞬間だけを生きるなら。

 ――脳裏に描いた光景と感触を、理性でねじ伏せる。


 だから、私は蜜柑をひと房つまんで、梨生へ近づいた。

 その唇を、私のそれの代わりに瑞々しい蜜柑の実でそっとふさぐ。



 まだ私は梨生と物語を生きていたいから、王子様にはならない。



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