21. 緩めるなその足、
――Dね。うん、まあわかっちゃいたけど。そうだよね。
模試の結果を手にしながら、梨生は胸の中でそうつぶやいた。
出来心で今回だけ加えた志望校の横には、”D”判定の文字がはっきりと並んでいた。
わかっていたことを確認したに過ぎなかった。あの子と自分の間に横たわる距離を。
第一志望校よりもまっさきに目を滑らせたその”D”には、以降一切目もくれず、他の結果は順当に予想と期待の範囲内であることに安堵し、梨生は結果のペーパーをぴっしりと綺麗に折り畳んで鞄へ入れた。
塾から帰って彼女が遅い夕食を食べていると、入浴を終えた母親が食卓につきながら、「そういえば」と言う。
「模試の結果、どうだった? そろそろ返ってくる頃じゃないの」
勉強の進捗状況について普段は最低限の関心しか示さないのに、今回に限ってはなぜかそんな言葉を投げかけてくる。
炊飯器に残っていたご飯は、すでにやや硬くなり始めていた。それをごくりと飲み込んで、梨生はぼそりと答えた。
「……今日、出た」
「見せてごらんなさい」
「……」
進路に対してはあまり干渉せず、基本的にはやりたいようにさせてくれる母には感謝しているから、梨生は気が進まないものの、傍らに置いていた鞄から模試判定の紙をのろのろと取り出し手渡した。
母親は、「ふんふん、いい感じね。ちゃんと成績上がってきてるじゃない」と紙に目を落としている。 ”D”へ言及されなかったことに胸を撫で下ろしつつ、梨生は唸るようにして伝える。
「あたしの模試の結果とか、ちーちゃんちのお母さんにぺらぺらしゃべらないでよ」
「あらなんでよ」
「……個人情報だから」
俯いてかぼちゃの煮物をつつく娘から紙へ目を戻して、母はこともなげに言う。
「そういえば、ちーちゃんの第一志望はXX高校らしいわね」
すでに母親ネットワークでは共有済の事項だったみたいだ。
「――ああ、だから」と言って、母親は目を弓なりに細めた。
「うるさい」
今まで候補に入れてこなかった高校の名前を志望校のひとつに連ね、あげく芳しくない評定をくだされている娘をにまにまと見つめる母の視線から逃れようと、梨生は目の前の皿に横たわる魚をせっせと分解した。
「目標を高く設定するのは大事だけど、受験する頃には、ある程度現実と理想を擦り合わせておいてよね」
「――わかってるもん」
口いっぱいに頬張った魚は、電子レンジで温めすぎたせいでパサパサしている。忌々しい”D”の文字を目にして以来、胸の底でざらついていた気持ちが梨生の喉をせり上がってきていた。
コタツの上での千結との勉強会は続いている。土日のどちらかは欠かさず開催されたし、平日でさえ塾帰りに千結が梨生の家へ少し寄っていくこともあった。
心許せる友人と黙って共に机に向かうのは、ほどよい緊張感と安らぎをもたらし、この習慣は梨生の受験勉強をおおいに助けた。
だが同時に、梨生は”助けられ過ぎている”とも思っていた。
当初こそ、どうしてもわからない箇所があった際、梨生は千結の集中を邪魔しない程度に質問をしていたが、この頃では、梨生が勉強でわずかに行き詰まった様子を見せると、彼女は積極的に介入し教えてくれる。
それは純粋にありがたいし、おかげで梨生の成績は上がっている。勉強を教える千結の態度も知識をひけらかすだとか、そういったことはまったくなく、むしろ、梨生が納得して感謝を述べたときにほのかに笑む様子は可愛らしく、受験がいよいよ近づき何かとくさくさしがちな気持ちが癒される面もある。
しかし――この勉強会で得をしているのは自分ばかりで、それどころか、千結の勉強時間を奪っている、という自覚が梨生にはあった。
そのうえ、こうやって彼女の無条件の優しさを享受し、多くの時間を過ごすうち、初めは当然のものとして諦めていた、『千結と同じ高校へ進学するという未来』が愚かにも梨生の頭の片隅にちらつくようになってしまった。
そして、そんな考えは思い上がりだったと、模試の結果が厳然と現実を知らせてきた。
だがそれでもどこか拭い去れないこの気持ちの芽生えを、もしも彼女に気取られてしまったら、千結は小学校の頃みたいに、本来の進路から外れて梨生に合わせた選択をしてしまうかもしれない。自分のために公立中学へ通わせた結果としては、昔ほど親密に遊ばなくなっていたし、二年生のときには千結にとって孤立した辛い時間を味わわせてしまった。それをずっと、梨生は気に病んできた。
もし、千結が再びそんな選択をすることがあれば、それは彼女のためにもならないし、そして何より――屈辱だ。
小学生のときの梨生は、何かと千結を引っ張って、守ってきたつもりだった。いつも彼女の前を走って、梨生の後ろで目を伏せがちな彼女の手を取り、人の輪のなかへ連れ出した。妹のように見てきた。
それが今やどうだろう。
勉学ではまったく歯が立たないし、彼女は人々の注意を集めるほどとても綺麗な女の子だ。それでいて、なにかと付和雷同しがちな梨生にとっては信じがたいほどに、自分の考えを堂々と表明することを厭わず、その在りようでも一目を置かれている。厳しい部活動においても音楽をきちんと続けていたし、忙しかった
彼女の前を行くどころか、隣へ立つにも気後れしてしまう。
飾らず言えば、いつまでも手を引いてあげるつもりで侮って見ていた小さな女の子が、いつの間にか美しく逞しく成長して、もはや自分よりもずっと先を力強く歩んでいる。その姿を眩しく、嬉しく思う気持ちは確かにあれど、しかし一方で、やはり悔しさと惨めさは滲んでしまうのだ。
そんな彼女が、もし、今度の受験においても、友情から梨生のいる場所まで”降りて”きたとしたら。
――そんなことは、耐えられない。絶対に嫌だ。屈辱に胸を灼かれて、二度と千結を同じようには見られない、と梨生は思った。
日曜だ。週末にも設けられるようになった塾の授業のあと、梨生と千結は落ち合ってコタツの上に問題集やノートを広げていた。
秋から冬になろうとしている今、外はすでに暗く、コタツのじんわりとした温もりが心地よい。ペンが紙の上を走る音や、ページをめくる音だけが、漫画本に囲まれたこの部屋に満ちる。千結と一緒にいないときでさえ、梨生はもうこの漫画たちに手を伸ばすことはなくなっていた。
外気の冷たさをまだまとっている膝が、コタツの中で互いに触れた。かすかに笑みを含んだ目配せを交わす。狭い卓で隣り合っていると、脚がぶつかり合うことは何度もあったから今さら声に出していちいち詫びたりはしなかった。けれど、千結との不意の接触に慣れたわけではない。というよりもますます苦手意識を高めている梨生は、自然な笑顔を浮かべられたか、いまいち自信がなかった。
長いあいだ黙々とシャープペンシルを走らせていたノートから、そっと千結の手元へ視線を滑らせる。彼女が取り組んでいる数学の問題集は梨生のそれよりも数段難しいもので、だが千結はペンを止めることなく快調にページ数を重ねている。数字と記号とそっけない問題文で構成されたその紙面に、梨生はじわりと劣等感を覚えた。と同時に、白く柔らかそうな手がすらすらと数字を編んでいくのに見惚れた。短く切り揃えられた桜貝のような爪がしっかりとペンを握って、迷いなくひとつの答えに向かっていく。
ふと、その手が止まり、長い髪をさらりと揺らして顔を上げた千結が梨生を見た。目を逸らすには遅すぎて、梨生はまともにその視線を受け止めた。瞳を瞬かせて千結は言う。
「――数学、やらないの?」
梨生は数学が苦手だから、千結によく教えてもらっていた。だからこそ、最近は、彼女の前で数学に取り組むのは控えていた。彼女の貴重な勉強時間を消費してしまうからだ。それに――。
「今度、古文の小テストあるから」
遅すぎたけれど、目線を手元に落としながら小さく梨生は答えた。
――それに、勉強を教えるときに千結が髪を耳にかける仕草。形のよい耳が表れて、紙の上へ注がれる視線が、そのまつげの長さを際立たせる。解法を静かに理路整然と説く唇は、季節なんかお構いなしに艶やかさを保っている。狭い机の上でもなお身を乗り出して近寄る彼女の身体から何かの甘い匂いが届く。コタツの中で脚が当たって、でもそのまま離れない。
せっかく千結が自分のために教えてくれているのだから、勉強へ集中するべきだとはわかっていても、一度そういった細部が気になりだした途端、梨生の呼吸は浅くなり、うまく脳へ酸素を送らなくなってしまった。彼女の時間をそうやって浪費することに、梨生はどうしようもなく申し訳なさを感じていた。
だから、この頃千結の前では、なるべく苦手ではない教科を進めている。
千結に対して感じる劣等感や惨めさに加え、そういった説明のつかない感情が絡まって、梨生は自身をコントロールする感覚をどんどん失っていくようだった。
「……そう」
コツ、とシャープペンシルが紙を叩く音がして、千結が応じる。
それでも、たとえ得意教科を勉強していようが、梨生はときどき詰まることがあって、そうするとすかさず千結はさらりと彼女を助けた。
純粋な尊敬の念と感謝、嫉妬と敗北感、そんな感情を抱いてしまうことへの後ろめたさ、そして、絶対に悟られたくない欲望に燻る熱、それらが入り混じって、梨生の胸を昏く濡らしていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます