22. 追いつけぬ君の背


「……っく」


 両腕を天へ伸ばしあくびを噛み殺した千結を見て、梨生は「ごはんにしよっか」と声をかけた。千結はふにゃりと微笑んで頷く。

 今夜は父母揃って出かけているから、遅い夕食はインスタントラーメンを作ることにした。


 人のいなかった一階は肌寒い。暖房をつけるけれど、台所はいっそうひんやりとして感じられた。昔ながらのその袋麺には具が付属されていないので、野菜と豚肉を加える。手際よくとはいかないものの、危なげなく包丁を操る梨生の隣に立って、千結は意外そうにつぶやく。


「りお、料理できるんだ」

「麺茹でて野菜切って炒めるだけじゃん。ちーちゃんはほんとにお嬢だなあ」

「玉ねぎ薄く切ってね」

「はいはい」


 千結は昔からねぎ類が得意ではない。以前と変わらないところを見つけて、梨生は唇を緩めた。

 何か手伝えるか、と千結から申し出されても、さっきの言い振りでは包丁など触らせないほうがいいに決まっているため、座って待ってて、と伝えても、彼女は料理する梨生を隣でなんだか興味深そうに見ている。


「お腹すいた」

「はーいちーこちゃんもうすぐですよ〜」

「たまご、半熟にしてね」

「とーぜん」


 ほどなくして出来上がった二杯のラーメンに千結は目を輝かせた。


「美味しい、すごい。りお、ありがとう」

「……大げさだなあ」


 湯気の向こうから褒めちぎってくる彼女に、梨生は苦笑した。


 二人並んで食器を洗っていれば、もうそろそろ遅い時間だった。いつもなら夕食後、そのまま千結を送って行くけれど。ほんのりと苦い予感を胸に、梨生は隣の千結へお願いを伝える。


「ちーちゃん、このあとピアノ弾いてよ。弾いてるとこ見たい」


 千結はちょっと目を大きくしてから、「うん」と言って、はにかんだ。

 そんな風に笑うと、出会った頃の小さな女の子みたいだった。梨生の胸が軋む。



 リビングの片隅で、久しぶりにピアノが音を立てる。四角いピアノ椅子に座った千結が感触を確かめるようにいくつか鍵盤を叩いて、


「――ちょっと調律狂ってる」


と寂しそうにつぶやいた。


「もう長いこと、誰も触ってなかったから」


 ピアノの端へ手をつき、梨生は静かに答えた。

 少しくらい音がずれていたって、音楽は奏でられるし、その音にのって踊れる。

 

 千結は目をつむり、白鳥みたいにゆったりと腕を広げた。

 そろりと沈められた指は、だが迷いなく、はっきりと最初の一音を鳴らした。

 見えない糸に導かれ、吸い寄せられるように指が鍵盤を滑っていく。甘い霧雨みたいな調べが天上から降って空間をしっとりと濡らす。と思えば雷撃が空を割って、重厚なピアノの音が部屋じゅうを揺るがす。

 この小さな手がこれだけの響きを産み出しているのが信じられないくらい様々な色を伴って、ピアノは音楽を奏でた。ときに洒脱に、ときに哀しく。

 ダンスの振り付けの一部のごとく、千結の腕が優雅な軌跡を描く。

 色彩豊かな彼女の旋律に手を引かれ、梨生は想像のなか、夢見心地でステップを踏んだ。

 わずかに産毛を揺らすほどの繊細さでキーに触れ、フライパンの上を走る水滴のように、両の手が目にもまらぬ速さで白黒の舞台上をころころと駆け抜けていく。


 ピアノの傍らで、梨生は絡まった昏い感情をしばし忘れ、まっすぐに千結を見つめた。

 ふっと目を開けた千結が鍵盤に指を這わせながら、梨生へ視線を投げた。

 ごく自然に梨生は微笑みを浮かべてその瞳を見返し、千結も風がそよぐみたいに屈託なく笑った。


 十本の指はますます軽やかに鍵盤の上を跳ね、上半身をピアノにかぶりつくようにして覆いかぶせては、口付けの合間の息継ぎのごとくはっと身を起こし、ペダルを巧みに踏み込み、再び黒く光る箱へ情熱的に身を委ね、前後に揺れた。そうして熱い抱擁を何度も繰り返したあとは、だんだんと別れを惜しみ、ひとつひとつの音子に想いを託してピアノは美しく歌いあげる。

 波紋ひとつない平らかな湖を思わせる最後の一音を部屋に響かせ、千結はピアノから手を離した。

 残響が消え去るのを待ちきれず、梨生は熱烈な拍手を送る。その割れんばかりの拍手を受けて、演奏者は恥ずかしそうに目尻を下げた。


 少し上気した頬を緩め、千結が言う。


「りおと連弾したい」

「えーっもうあたしピアノ覚えてないよー」


 弱気に声をあげた梨生に構わず、千結は無言で椅子の端に寄り、座れと言うように空いた空間へ手を置いて梨生を見上げている。

 仕方なく、梨生はピアノの上から連弾の楽譜を取って、ピアノ椅子に座った。埃を払ったその楽譜の裏表紙には、たくさんのシールが貼ってある。かつて千結と、お気に入りのシールたちをここに貼り付けたのだった。懐かしさに笑みがこぼれた。ぱらぱらと本をめくり、二人でよく弾いた曲のページで手を止め、譜面台にそれを置く。


「これろ。ちょっと練習させて」

「うん」


 鼻歌を奏でながら手を動かす。何度もつまずいては前進するうち、初めは硬くこわばっていた両手が、だんだんと感覚を取り戻してくる。それでも、以前のようにはなかなかいかない。


 するとふいに、千結が椅子の上でわずかに動いて梨生へ近づいた。千結に近いほう、身体の左側がとっさに硬直する。小学生のときにこうして隣り合うことはごく自然なことだったのに、今はなにげなく行われる彼女の一挙手一投足に、いちいち不自然に心臓が跳ねてしまう。そのことにやましさを覚える。

 そこに意図が存在しなくたって、梨生の心のうちはひっかきまわされている。


 何ともない顔つきの親友へ向かって、梨生は小さな反抗心とともに、


「なに?」


と尋ねてみるが、千結は無垢な目で首を傾げ、


「なに?」


とおうむ返しに言った。

 彼女にとっては、ただ単に少し身動みじろぎしたに過ぎないのだ。胸に湧いたわずかな悔しさと悲しさをどうしたらよいかわからずに、梨生は鍵盤へ目を落として、


「……なんでもない」


と答えておいた。硬い鍵盤をひとつ叩くことで、その感情を手放す。

 唐突に落ちかけた沈黙を割るように、千結が「弾こう」と言ったから、梨生も頷いて譜面へ気持ちを向けた。



 梨生が不器用にメロディを奏で出して、伴奏の千結がそろりと入ってきた。ぎこちなく譜面の上を歩む梨生を、千結のピアノがさりげなく支える。数小節もすると、手を取り合って踊るような感覚が戻ってきた。

 何にも囚われず対等に、声をあげて笑い、手を繋いで飛び回っていた頃の穏やかな気持ちに身体を任せ、音符を追いかけた。顔を見交わさずとも、互いの呼吸が揃っていくのを感じた。二人分の音の重なり、テンポの緩急やタッチの強弱、音色の彩度、色々な要素が融け合い、離れては近づいて、彼女たちはじゃれつくように音のなかで遊んだ。


 そうしてしばらく梨生は無邪気に心を躍らせていたが、あっと思った拍子に手をもつれさせ、五線譜の上から転げ落ちた。すぐに体勢を立て直し主旋律に戻る。そのあいだも千結は動じることなくうまくメロディを繋げ、梨生が復帰するや、すっと伴奏へ後退した。演奏が不恰好に頓挫せず安心したのもつかの間、梨生の胸には急速に砂を噛むような気持ちが広がっていった。先ほどまで煌めいていた音楽が、途端に色を失っていく。


 いつも決まって左側に千結が座り、梨生は右で主旋律を弾かせてもらっていた。小さかった梨生は嬉々としてメロディラインを弾いていたが、実際のところ、より技術が必要なのは伴奏だ。

 あの頃からちーちゃんは、涼しい顔をして自分の手の届かないことをさらりとやってのけていたのだ、と梨生はひび割れた心のうちで思った。


 少しくらい音がずれていたって、音楽は奏でられるし、その音にのって踊れる。

 その少しの違和感が自分たちの心にひっかき傷をいくらか作ったとしても、無視はできる。

 でも――傷ができたことには変わりないのだ。それが癒える間もなく積み重なれば、傷は膿み、身体を腐らせる。


 唐突に熱を失った梨生の演奏を訝しんで千結の伴奏はやや控えめになり、それから熱量を取り戻すべく強引に高揚感たっぷりにメロディを誘ったが、梨生の主旋律は、ただ楽譜の終止線を目指して機械的に音符をなぞるだけになっていた。


「……」


 二人の演奏はばらばらのまま、虚しい余韻をもたらして終わった。静寂がリビングルームに降りる。千結が鍵盤へ目を落としたまま、そっとつぶやく。


「……なんか悲しい音してた」

「え?」

「りおのピアノ」


 振り向いた千結の目線を避けるようにして、梨生は椅子から立ち上がり答えた。


「調律おかしいからじゃない」

「……」


 楽譜を取って、ピアノの蓋に手をかける。


「ふた閉じるよ」


 そっと閉じられたピアノの前で、いまだに千結は立ち上がろうとせず、何か言いたげに梨生を見上げていた。責め立てられているような心地でたまらず、梨生は真っ暗な窓へ顔を向け、口早に言った。


「遅くなっちゃったね。ちーちゃん、家まで送るよ」


 すると、


「りお」


と呼びかける声がして、片手が握られた。振り向いて見た千結の顔は。


 ――なんでそんな、置いてけぼりみたいな顔。置いていかれてるのはあたしのほうなのに。


「……どうしたの、ちーちゃん」


 呻くように尋ねた梨生へ千結は答えない。ただ、言葉の代わりに、きゅ、と手を強く握られたけれど、梨生は握り返せない。

 子どもみたいに手を繋いでも、あの頃とはもう違うから、それには応えられない。


「……」


 力なく彼女の手が離れる。




 うら寂しい間隔で並ぶ街灯の下、長い坂を千結の家まで二人で歩いた。

 受験を目の前にした季節、夜間の自転車の二人乗りで怪我をしたり警察にお世話になったりするのもつまらないので、行きは徒歩で自転車を押し、千結を送り届けたあとの帰り道はさっさと自転車に乗って帰宅するのが恒例だった。

 無言で歩く二人の間には、カラカラ鳴る自転車の音と、ときどき梨生が鼻をすする音だけが横たわっていた。


 もうすぐ千結の家が見えてくる。

 ――仲良く手を繋いで一緒にゴール、なんてことはもはや叶わない。

 これ以上、彼女のお荷物になるのも、処理しきれない感情に足をもつれさせるのももうたくさんだった。


 千結の自宅の前へ差し掛かったとき、梨生は息を吸い込んで口を開いた。


「あのさ、勉強会なんだけど。――やめにしない?」


 それを聞いた千結は眉根を寄せ、ゆっくりと梨生を見上げた。


「……どうして?」

「……あたしは教えてもらえていいんだけど、ちーちゃんの勉強、進んでないよね」

「――教えると、理解が進むし定着するよ」


 心細そうに言う彼女は、出会ってすぐの頃の『ちーちゃん』みたいだった。

 痛む胸を掴んで、梨生はつぶやく。


「……小学校のときみたいになりたくない」

「どういうこと?」

「ちーちゃんに、中学受験させなかったこと」


 千結は眉間にはっきりとしわを刻み、低く言う。


「……私が自分で決めたことだよ」


 梨生は言葉を探そうと、何度か息を吸っては口を閉じ、もどかしく喘いで、それからやっと絞り出すようにして言った。


「――あたしのせいで、ちーちゃんの人生壊したくないよ」


 千結は瞳を見開いたあとつかのま黙り込んで顔を蒼褪めさせ、それから憤りの表情を浮かべて肩で大きく息をし、言葉にならない言葉を呑み込んでは息を詰まらせた。そして、


「……壊したくないなら」


と息を押し殺して囁き、鋭く梨生を睨みつけ叫んだ。


「壊したくないなら、ちから一杯走ってよ。かっこいいとこ見せてよ!」


 怒りに燃え立つ瞳の輝きの残像を振り払うように彼女は走り、門扉に飛びついた。ガチャンと門扉の閉まる音が辺り一帯に響いて、それから玄関のドアも荒々しく閉じられた。



 残された梨生はしばらく呆然としてその見慣れぬ玄関の扉を見つめ――それから踵を返した。


 門扉の金属が叩きつけられる耳障りな音が、頭の中でずっと鳴り響いている。のろのろと自転車を押して歩きながら、梨生の目には涙が浮かびそうになった。

 ――絶対に泣きたくない。ださすぎる。

 涙の代わりに、苦しい息の合間から言葉を吐き出す。


「なんだよ……やってるっつーの。全力で走ってるよ。だけど、走っても走っても、追いつけないんじゃんか……ッ」


 やっぱり涙が零れそうになって、梨生は乱暴に自転車へ飛び乗り、ペダルをがむしゃらに漕いだ。

 鼻がつんとするのは、灰色に染まり始めた冬の住宅街を、風を切って走っているからだ。




 それから、梨生と千結は話さなくなった。

 梨生はちから一杯走ったが、やはり千結には追いつけず、二人は違う高校へ通い始めた。

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