#23. 眠るな来てよ、ぶっちぎり、逆転見せて②


 私がピアノを弾き終えた瞬間、梨生はあの頃と変わらず、すっかり感嘆して、心の底から惚れ惚れとした夢見るようなまなざしで拍手を送ってくれた。

 存在をまるごと肯定するみたいな視線がまっすぐ注がれて、私は心を震わせながら希望を口にする。


「りおと連弾したい」

「えーっもうあたしピアノ覚えてないよー」


 一転して顔をしかめた彼女を無視して、ピアノ椅子の上に彼女のための空間を作って見上げると、観念した顔つきの梨生は低く唸ってピアノの上から楽譜を取り上げた。そっぽを向き本に積もっていた埃を吹き払ってから、彼女は椅子の片方へ腰を下ろした。結局は私の頼みを聞いてくれる梨生に、笑顔が浮かびそうになるのを我慢する。けれど、その古い楽譜に当時二人で貼った無数のシールを撫でる彼女の指先と細める目がとても優しいから、たまらず私は口角を上げてしまう。


 久しぶりにピアノを弾くという梨生は、少しのあいだ練習している。私よりもよっぽどピアノ演奏に向いた大きな手がたどたどしく鍵盤の上を行き来する。いつもは穏やかに和らいでる眉頭が、集中するときの癖できりりと引き締まっている。短距離走のスタート直前と同じ、凛々しいその横顔をじっと見つめる。


 新陳代謝がいいためか昔から高い彼女の体温が、ほのかに隣から伝わってくる。

 もっと近くで感じたい。

 須臾しゅゆの間迷ったものの、一度灯った欲望を抑え込むには彼女との距離が近過ぎて、それに抗えなかった。梨生が練習へ気を取られてるあいだに、彼女との隙間を埋めようと私は坐り直した。

 けれど、梨生は一瞬止まってから振り向いて、


「――なに?」


とぎこちない苦笑まじりに訊いてくる。――気付かれた。

 その目にはこちらを非難するような険しさがわずかに含まれていた。

 縮こまる心臓もろとも素知らぬ顔をして聞き返す。


「……なに?」

「……なんでもない」


 梨生はそれだけ言って、ポーン、と鍵盤に人差し指を一本沈め、困ったようにひっそりと笑った。

 それを、どう受け止めていいのかわからない。

 単なる純粋な戸惑いなのか、曖昧な拒絶なのか。


 焦燥と後悔が胸に吹き荒れた。

 "親友"の皮をかぶってよこしまな気持ちですり寄ったのを、叩き落とされたみたいだった。

 私の気持ちは伝わってしまってるのだろうか。そしてそれは、彼女にとってはやっぱりおかしいことなのか。


 足元が抜けるような恐怖に身がすくみそうになったから、「弾こう」と短く言った。




 油を長年差し損ねた機械人形みたいにぎくしゃくした連弾が始まった。

 でも、懐かしい五線譜の上をちょっと進むうちに私たちは踊り方を思い出した。指先に血が通っていく。腕を取り合って踊る肌の柔らかさが思い浮かぶ。

 もちろん、昔より息は揃ってない。身体が大きくなったぶん、分け合う椅子も窮屈だ。

 だけど――今私が感じてる嬉しさを、隣の梨生も感じてくれてるかな。そっと窺い見た彼女の横顔には、幸せそうな微笑がほのかに浮かんでいて、私の胸はぎゅっとなる。



 高校受験を前にしたこの頃の梨生は、彼女に似合わない感情に絡め取られているように思えた。前だけを見て軽やかに走る梨生ばかり見ていた私にとって、最近の梨生の様子はもどかしかった。


 ――今は、私のほうが速く走れるフィールドもあると思う。

 私は梨生みたいにラーメンを作れない。でも、数学の問題を解くのは得意だ。

 たくさんの人間と仲良くすることができない。その代わり、少しの友達がいればそれで強くいられる。

 私は朝起きるのが苦手。けれど、夜中まで黙々と勉強を続けるのはできる。


 全てのレーンで速く走れないからといって、焦りや戸惑い、劣等感を感じる必要はないのに。

 この頃の梨生はいつまでも靴紐を直してみたり、ゴールの遠さにため息をついたりして、全力で走ることと向き合ってないように見えて、私は悔しかった。私の大部分を支えてきた憧憬する存在が鮮やかさを失って、私自身がばらばらになっていく感覚すら覚えていた。


 高校受験における私たちのゴールは違う。

 何も気にしないなら本当はゴールの場所を変えてしまいたい。でもそれは親が許さないし、もしそんなことをしたら私はきっと梨生に軽蔑される。


 だけど、たとえ同じ速さで走れなくても、目的地に着いたあと私たちはまた落ち合い、隣り合ってしゃべれるはずだ。

 だって、私の隣は梨生のものだから。

 ずっと昔から変わらないことを、けれど、彼女は忘れてしまったみたいだった。

 歩速や歩幅が合わないなら、思い切り走ったあと、相手を待つことだってできる。それを教えてくれたのは梨生だ。

 ゴールの先で待つことは、私たちのあいだで当たり前だったはずなのに。


 常に背中を見せる必要はない。

 私の前を走ってなんかなくたっていい。


 ただ前を向いて、ちから一杯走って、笑っていてほしい。


 弾き慣れた心地よい旋律にのって、あの頃みたいに二人で息を合わせていると、ますますもどかしさが募った。


 そのとき、足を踏み外すようにして梨生が演奏から落ちてしまった。

 寸刻の間、主旋律がぽっかりと不在になりかけたけど、せっかく梨生と踊れている舞台の幕を引きたくなくて、私は無意識にメロディを繋いだ。すぐに梨生は旋律へ復帰したから、私も伴奏へ戻る。


「――」


 うまく演奏を続けたつもりが、梨生とのピアノが急速に揃わなくなっていった。さっきまで手を繋いで踊れていたのに、どんどんその手は透けていって、握り返される実感がない。梨生のピアノから、色が、感情が抜け落ちていく。

 過剰に明るいタッチを演奏に加えて、彼女を舞台の上へなんとか引き戻そうとしたけれど、そうすればするほど、梨生の演奏は冷え冷えとしていった。

 両手の隙間からぽろぽろと熱がこぼれ落ちていくようだ。


 今や、梨生は走る楽しみを放棄して、ただ、演奏の終着点へ辿り着くことだけに意識を向けたのがわかった。

 そんなのは、私の憧れた梨生ではなかった。またひとつ、私を構成する何かが崩れて欠ける。

 失望が胸のうちで拡がっていくけれど、私のそれよりももっと色濃く、くっきりとただひとつの感情がピアノの音に浮かび上がっていた。

 梨生の演奏は機械的なのに、同時に、どうしようもなく悲しさを帯びていた。


 どうして。そんな、最後みたいな音をさせるの。

 もう二度と、一緒にピアノを弾くことはないと思ってるような、そんな音。


「……」


 連弾が終わり、悲しい音をしていたと指摘をしても、梨生は「調律おかしいからじゃない」と端的に言って済ませた。

 さっきまでの心浮き立つダンスが嘘みたいに空虚さが部屋中を漂っていた。


 会話はもうおしまいとばかりにピアノの蓋を閉じた梨生を見上げながら、でも何を言葉にしたら彼女の心と触れ合えるのかわからない。急激に目の前が暗くなる感覚で呼吸が浅くなっていく。


 必死で見上げる視線は返されず、


「遅くなっちゃったね。ちーちゃん、家まで送るよ」


彼女はその顔を窓へ向けて、かたく、これ以上の対話を断つ意思を込めてそう言った。


「……」


 ――ああ、さっきのはおそらく、拒絶だったのだ。


 絶望で、頭が痺れる。


 足を踏み出した梨生が存在ごと離れていく気がして、思わず、「梨生」とその手へすがりついた。振り返ってこちらを見つめ返す梨生は、見たこともない哀しい顔をしていた。


「どうしたの、ちーちゃん」


 苦しげにつぶやいた梨生へ言葉を返せず、「どうか行かないで」と願いを込めて手を握っても、彼女はその手を握り返さなかった。

 ただ、離してほしい、とその瞳と手から感情が伝わってきた。


 それ以上肌が触れてることがつらくて、私は彼女を解放した。




 言葉にされたわけじゃない。それでも、言葉以外の全部で梨生は私を拒否していた。

 それを、どうしたら解きほぐせるのかわからない。

 夜道を並んで歩いていても、梨生との心の距離はすごく遠かった。


「あのさ、勉強会なんだけど」


 何も話せないまま家の前まで着いたとき、彼女がぽつりと言った。


「やめにしない?」


 続けてなされた提案に驚きはしなかったけれど、心臓は痛いほどに締めつけられた。


「どうして?」


 梨生は少し黙り込んでから、つらそうに、


「……あたしは教えてもらえていいんだけど、ちーちゃんの勉強進んでないよね」


と答えた。


「――教えると、理解が進むし定着するよ」


 諦めきれない『同じ学校へ進学できたら』という願いによる私の傲慢さが、彼女を傷付けているのかもしれない。

 どう言えば彼女を引き止められるのか考えていたら、梨生は眉を寄せてつぶやいた。


「小学校のときみたいになりたくない」

「どういうこと?」

「ちーちゃんに、中学受験させなかったこと」


 それは、梨生が私にさせなかったことじゃない。私が、私のために選んだこと。

 ちり、と苛立ちの火種が腹の底で燻る。


「……私が自分で決めたことだよ」


 私の言葉を聞いてますます顔を苦しげに歪めた梨生は瞳を揺らし、何かを言いかけては口を噤む。その頼りない姿は、私のなかの火種に薪をくべていく。苛つきがだんだんと明瞭な怒りへと燃え上がっていき、胸を息苦しくさせた。


 太陽の下で自由に風を切って走るあの背中が、目眩のなかで一瞬光る。


 なぜ梨生は、あの頃みたいに何にも囚われず、世界も私も置いてけぼりにしてしまわないのか。

 全てを置き去りにして、走り抜けてくれたら。私はそれが見たいのに。


 今の梨生は、全然、全然かっこよくない。



 走ってもないのに、ただ地面に立ち尽くしてるだけなのに、彼女はまるで酸素が足りてないみたいに声を絞り出した。


「――あたしのせいで、ちーちゃんの人生壊したくないよ」


 赫怒かくどに身体中の血が煮え立つのを感じた。


 私には、梨生が必要なのに。


 それなのに、もうずっと長いこと梨生は、私たちの関係が消えても構わないように見える。

 私たちは、もう隣に住んでるわけじゃない。関係性を維持しようとしないと、すぐに離れていってしまう。

 私が必死に繋ぎ止めてる”友達”としての私たちの繋がりすら、彼女にとってはどうでもいいものなんだ。

 理由を作らないと会ってくれないくせに、その理由すらも、私のためだという建前を使って、私から取り上げてしまう。


 壊したくないなんて言いながら私を突き放して、私がただ壊れていくのを、梨生は漫然と見るだけ。

 ――拒絶するなら、私のため、なんてふりはしないでほしい。



「壊したくないなら」


 身のうちで荒れ狂う焔を踏みつけ、息を吸ってようやく言葉を発したけれど、その瞬間、風を得た火の先が舌に燃え移ってしまった。抑え込む間もなくそれは喉を焼いて、私は咆哮した。


「壊したくないなら、ちから一杯走ってよ。かっこいいとこ見せてよ!」


 門扉の激しく閉まる音が鼓膜をつんざく。

 自分で力任せに閉めたくせに、その音の大きさにぞっとした。それでも、振り返らずに家へ飛び込んだ。

 大嫌いだ、こんな真新しい家。

 大嫌いだ、梨生なんか。




 そして私は、梨生と離れて両親の望んだ通りの高校へ進学した。

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