寒昴
24. 滔々と新生活、まれに開くはささくれの渦
梨生が新しく通う高校の制服は、中学とは違ってブレザーで新鮮だった。受験勉強を始めた頃に第一志望として掲げていたところよりもこの高校の偏差値はずっと高く、合格を伝えたときには塾の講師や学校の担任教師は、梨生の努力をいたく褒めちぎってくれた。躍進といってもいいだろう。胸を張るべきだ。――それでも、真新しい制服に袖を通した彼女の顔は晴れ晴れとはしていない。
最寄り駅までの道をバスに揺られながら、あの子の学校の制服はセーラーだったはず、と梨生はぼんやり思った。あの子の隣には、初登校を共にする誰かがいるだろうか。
高校生活の幕開けに、期待と不安でそわそわとした空気の満ちた教室には、意外な見知った顔があった。千結と吹奏楽部で一緒だった――
「ホンダさんじゃん!」
ふわふわの髪を揺らして、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「アンドーさんもこの高校だったんだねえ〜よかったあ。全然知り合いいないからさあ」
「わたしもだよ。よろしくね」
知り合いに会えて安心したのは本心だったが、一方で、共通の友人である少女の姿がちらついて、ホンダさんとしゃべるたび、梨生の胸は少し軋んだ。
とはいえ、新しい制服の新鮮さが急速に失われるのと同様に、”ホンダさん”はすぐに”ホンちゃん”になって、”アンドーさん”は”ドゥ”になった。一見おおらかだが、独特の辛辣さも併せ持つホンちゃんと一緒にいるのは楽しく、数日もすると彼女の背後に誰かの面影を感じることもなくなった。
入学直後のオリエンテーションもひと通り一巡し、当初の緊張感が早くも消え去った休み時間の教室で、二人はどこの部活に入部するか話していた。
「ホンちゃんは吹奏楽部続けるの?」
「うん、たぶんね〜」
中学一年生の頃に知り合ったときから変わらない、ゆっくりしたテンポで彼女は応じた。文化祭のステージで演奏していたホンちゃんの姿を頭に思い浮かべ、梨生は確認する。
「ホンちゃんがやってたのって、サックスだっけ?」
「うん。でも楽器変えたいんだよねえ〜」
「へーなんで? かっこいいじゃん、サックス」
ホンちゃんはため息を吐く。
「木管楽器やってるのって繊細な人が多くてさあ。金管のほうがガサツな人間ばっかりだから、私そっちのほうが気が合うと思うんだよねえ〜。だから、高校を機にしれっと鞍替えのつもり〜」
ホンちゃんとはきちんと知り合ってまだ日が浅いからその人間性は深く知らないけれど……でもなんとなくわかる気もする、と梨生は思った。ただ、同意を素直に表すのは気が引けて黙って苦笑いしていると、
「アワたんはもうやんないみたい」
突然出た千結の名前に驚きかけた息をゆっくり逃して、梨生は、
「――ちーちゃん? 吹奏楽部に入らないってこと?」
「うん。たぶん帰宅部だってさあ」
「……ホンちゃん、連絡取ってるんだ」
嫉妬とも安堵ともつかない、胸のざわつきを感じながら梨生はぽつりとつぶやいた。なんてことはなさそうにホンちゃんは首肯して、
「たまに遊ぶよ〜。ドゥはアワたんと会ってないの? 幼馴染なんでしょ」
「――うん。でも……家離れちゃったし……」
歯切れ悪く応えた梨生を特に気にかけた様子もなくホンちゃんは会話を続けた。
「ふ〜ん。ドゥは部活どうするの?」
「わたしは――」
門扉が激しくぶつかり合う音が脳裏に響いて、梨生の心臓が縮こまる。そして、「ちから一杯走ってよ。かっこいいとこ見せてよ」という言葉も蘇る。
「……わたしももう少し陸上続けようと思う」
誰が隣にいようといなかろうと、季節は飛ぶように過ぎた。
自由の増えた高校生活は楽しかったし、陸上部でも手堅い記録を出し続けて、梨生の新しい暮らしはなんら問題なく順調に流れた。
正月を迎えて数日した午後、帰省している果歩を含めた家族とテレビを囲っていたら、最近売れているらしい若手の女優が出演していた。その人はどことなく千結に似ていて、彼女を見かけるたび梨生の胸は苦く疼いた。
千結と二人で写ったプリクラを貼り付けた携帯電話は新しいスマートフォンに機種変更していたから、その顔をふいに見ることもとうになくなっていた。彼女の影が胸を
どことなく嫌な予感を覚えて、お雑煮の餅を急いで吸い込んだところ、母親がつと口を開く。
「そういえばちーちゃん、元気にしてる?」
この若手女優に千結の面差しを見るのは自分だけではないようだ、と梨生は笑いたくなるのと、苦みばしった表情を浮かべたくなるのを抑え、空のお椀を手に食卓から立つ。
「うん」
短く答えただけの娘をさして気にした風もなく、母は明るく続けた。
「ちーちゃんから年賀状届いてたわよ」
どきりと跳ねた心臓を顔には反映させず、母の指した葉書の束へ目をやる。シンクへ食器を移してから努めて平生を装い、宛先別に分けられた葉書の数枚を手に取った。三が日も過ぎた今朝に届いた年賀状はもう少ない。
「ありがと」
梨生はぶっきらぼうに礼だけ述べ、年賀状と共に自室へ引っ込んだ。
彼女と話さなくなってから2回目の正月だった。対面はもちろんテキストでのやりとりも絶えていたが、唯一、年賀状だけは続いていた。きっと元旦には届いているだろう梨生からの年賀状とは異なり、年明けから数日ののち、千結からのそれが届く。昔から千結の年賀状は毎年遅れて届いていたから、それが梨生の年賀状を待って出されたものかどうかはわからない。
去年と今年は、その年賀状が届くまでの数日間、梨生は生きた心地がしなかった。
――もしわたしが年賀状を出さなかった場合、ちーちゃんからの年賀状も来ないかな。
試してみたい気もしたが、これでもし年賀状の送り合いが一度途絶えてしまったら、この唯一のやりとりさえ永遠に消えてしまうと思ったから、梨生は必ずクリスマスまでに年賀状の手配は終えた。
梨生は椅子に腰掛け、息を吸ってから数枚の葉書を確認した。
千結からの年賀状は、今年の干支の動物と西暦の数字がデザインされたのをプリントアウトしただけの味気ないものだった。手書きのメッセージが添えられているわけでもない。
梨生からの年賀状は勇気を振り絞って『ちーちゃんにとって素敵な一年になりますように』と書き加えたというのに。
でも――宛名と差出人は手書きだった。住所に連なった『安藤梨生様』、それから見慣れぬ千結の新しい住所と彼女の名前だけは、プリントアウトされたものではなかった。そこに、なんとなく彼女の譲歩を感じ取るのは、いささか意識しすぎだろうか。
こんな風に瑣末なことで頭を悩ませるのは、だいじな親友という関係性を失ったからだ。
ひどく寂しくはあるけれど、あの頃の、妙な感情に胸をかき乱されることがないことにも、梨生はまた一方で安堵していた。
薄暗く、どろどろとした、統括すると”執着心”とも形容できるような感情に振り回され、熱に浮かされ、自分自身さえ知らない人間になっていく感覚は恐ろしかった。あれはいっときのことだったのだ。
――わたしたちは今ではもう、幼馴染だったことすらも遠いことになっている。
年賀状から目を離して、梨生は引き出しから一冊のノートを取り出した。それは、小学生の頃に千結と交わしていた交換日記だった。梨生の返事が遅くなったまま、自然と交換が絶えたノートが手元に残っている。
ときどきこうして、彼女は古いそのノートを眺めた。
自分で止めたくせに未練たらしい、とはわかっている。
年賀状の宛名の字よりもはるかに幼い字が、帳面に一生懸命踊っている。梨生の胸はほんのりと温かくなる。
そういえば、交換日記は何冊も書いたけれど、他の日記は全部わたしの手元にはない、と梨生はふと気付いた。
――ちーちゃん、古い日記まだ持ってるかな。捨てたかな。……存在自体、忘れてるかも。
開け放った窓の外、ぽっかりとよく晴れた空から冷たい風が吹き、ノートの端を揺らした。
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