25. 本の森にて手繰り寄せ、灯すのは


 せっかく参考書を買うなら、大きな本屋で実物を比較して選ぶのがよいだろうと考え、梨生は学校帰りに主要駅まで足を伸ばしていた。駅前を行き交う人々のなかには、厚手のコートをもう着込んでいる人もおり、街路樹の葉は黄色や紅に色づいている。辿り着いた本屋の参考書を扱う階では、どこか張り詰めた表情の学生たちが各々真剣なまなざしで分厚い本を吟味している。高二の秋、すでに大学受験が迫りつつある空気を梨生はひたひたと感じていた。


 長い時間をかけ選び購入した参考書を手に、狭い階段を7階分下る。今年度最後の陸上大会を先日終え、練習も落ち着いているこの頃は、少しでも運動になることを見つけては体を動かしている。集中して本を選んだので、少し疲れていた。まっすぐ帰ろうか迷ったが、気晴らしに1階の雑誌コーナーを覗くことにした。

 ファッション雑誌の棚へ向かいかけた梨生の足が止まる。雷に打たれたように動けない。数秒間、文字通り呼吸をするのも忘れて立ち尽くした。


「…………」


 雑誌へ顔を落としているのであろう一人の女子学生の背中を凝視したまま、梨生は自身の心臓がどんどんと鼓動の速度を上げていくのを感じていた。

 梨生の記憶にあるよりもずっと髪は短くて、身長は高くなっているように思う。後ろ姿だけだから、他人の空似かもしれない。もう二年ほども会っていないのだから。


 ――けれど。やはり、それは千結に違いない、と梨生は思う。


 このあいだの競技大会で400mを走り終えた直後よりも、心臓は暴れまわっている。ごくり、とつばを飲み込む。

 駆け寄って肩を掴み声をかけたい衝動と、気付かなかったことにして今すぐ逃げ出したい衝動のあいだで、梨生の身体は二つに分離してしまいそうだった。幽体離脱して二手の方向へ走りゆく自分のイメージを、ぎゅっと目を閉じて霧散させる。

 梨生は細く息を吐き、駈け出さず、きびすを返さず、じり、と足を踏み出した。ばかやろうめ、後悔するかもしれないのに、と自嘲しながら。


 回り込んで近づいたその横顔は、肩口ほどで切り揃えられた髪で遮られて見えない。それでも、その首から肩にかけるライン、カーディガンの袖口から覗く小さく白い手や爪の形が、懐かしく、梨生の心臓を締め上げる。

 伸ばせば腕が届きそうなほどの距離で立ち止まって、浅い呼吸の隙間から声を絞り出す。


「ち、ちーちゃん」


 囁くほどの声だったのに、その子は雑誌から顔を跳ね上げて振り返った。

 ロングの長さに保たれていた髪はボブぐらいに短くなっているが、その艶やかさは失われておらず、あどけなさを残していた頬はいまや女性らしい描線を辿り、ぽってりと赤い唇はかつての可憐さよりも婀娜あだっぽさを感じさせる。丸く愛らしい瞳は、しかし、驚きの感情に一瞬彩られた直後、怒気に似た光と痛みを走らせた。


「――梨生」


 懐かしい声で紡がれた、まるで見知らぬ他人を呼ぶようなその硬い響きを耳にしてすぐ、ああ、声をかけるべきじゃなかったんだ、と後悔が梨生の胸を鋭く貫いた。

 唇を引き結び、眉間に力を込めた千結を前にして、梨生は目眩すら覚える。

 そのとき、


「ちゆー、ごめんお待たせ」


と明るい声がかけられた。はっとして振り返る二人の視線を受け止めた、千結と同じ制服を着た女の子が小首を傾げ、


「友達?」


と千結へ尋ねる。一瞬目を泳がせた彼女は俯きがちに、「うん……」と頷く。

 「友人であることすら否定されなくてよかった」という最低限の安堵と、「下の名前で呼ばせてるんだ」という寂しさが梨生の胸をかき乱した。

 不思議な緊張感を保つ二人を気にすることなく、千結の友人は朗らかに「こんにちはー」と笑顔を梨生へ向けてくる。


 ――ちーちゃんは、芯の強い子だから、きっと子どもの頃より大人になるほどいい友達ができやすいと思う。……もう、わたしがいなくても大丈夫なんだ。


「こんにちは」


 梨生は弱々しくも微笑んで応える。

 黙りこくった梨生と千結の間で、友達は手の中のスマートフォンへちらりと目をやって、


「ちゆ、そろそろ行かないと、授業間に合わないかも」


とつぶやいた。千結は視線を落とし、「うん……」と曖昧に答える。それから、梨生と視線を合わせないままに、


「予備校、行く、から……」


と消え入りそうな声で言った。


「……うん」


 梨生も顔を上げられず、吐息と共になんとか応じた。俯いた視線の先で、千結の革靴が気まずそうに方向転換して歩み出す。すぐに視界からそれは消える。ぎりり、と心臓が軋む。

 ――気付くと、陸上部仕込みのしなやかな筋肉を爆発させ、梨生は一足ひとあしで千結の手首を掴んでいた。


「あ、あのっ……」


 ぎょっとして振り向いた千結の瞳には驚愕しか浮かんでいなかったから、勢いに任せて梨生は声を大きくした。


「アカウント、教えてっ……」


 今年の春以降、メールに代わり連絡手段として一気に定着したメッセージアプリをスマートフォン上で起動させ、梨生は必死に頼み込んだ。

 どんな表情が正解かわからない、とでも言うような、呆然とした顔で千結は頷き、のろのろと自身もスマートフォンを取り出した。



 自宅へ帰り着く頃には、どっと疲れが押し寄せていた。梨生はベッドに身を投げ出し、握り込んでいた携帯電話の画面へ緩慢に目を向けた。

 別れ際、挨拶代わりに慌ただしく梨生が送ったスタンプの横には『既読』のマークが付いているものの、千結からのリアクションはいまだにない。


「……」


 電気も点けていない部屋の中、梨生はベッドの上で背中を丸める。痛恨と恥ずかしさで、涙が出そうだった。彼女の目に浮かんだ感情の色を思い出しては、それが梨生の胸を幾度も切り裂いた。

 ――迷惑だったのだ。声なんて、かけるべきじゃなかった。知らないふりをすればよかった。ちーちゃんはもう、わたしなんかと会いたくなかったんだ。


 咄嗟に掴んだ手首は、折れそうに細かった。その感覚を思い出すと、怖くて、申し訳なくて、叫び出したいほどどうしようもなく後悔が心臓を冷たくした。



 どれぐらいそうしていたか、ふいに手のひらのなかでスマートフォンが震えた。

 青白く光った画面には、『いつ会える?』という文字が浮かんでいた。

 千結からの、返信だった。

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