湯気立てて君待つ夜の高鳴りに
#35. あの子待つ家浮き立つ暮らしのまにまに
やってしまった、勢いで。
でもこれは、自分史上最大のグッジョブ。
まさか。まさか……こんな日がくるなんて。
カウンターの向こう。キッチンで、美味しそうな香りをさせて梨生が料理をしている。感慨で胸を震わせてその姿を見ていたら、梨生は顔を上げて、
「ちーちゃん、机拭いておいてくれる?」
と、布巾を手に持ってこちらを微笑み混じりで見つめてくる。頷いた私へ、彼女は「いくよー」と悪戯っぽく大きく振りかぶってそれを投げてきた。広げた私の両手めがけ、綺麗な放物線を描いて飛んできた布巾なのに、私は持ち前の反応の鈍さからそれを取り落としそうになる。手からこぼれかけたのを必死で掴む。無事キャッチできた布巾を握りしめ、誇らしい気持ちで梨生を見返す。からからと笑い声が届く。
「ちーちゃんだなあ」
「なにそれ」
「なんでも?」
暗に運動神経の悪さを冷やかされ、不機嫌な声をつくって訊き返しても、梨生はとぼけて肩をすくめた。鼻歌をうたいつつ料理を再開した彼女に背を向け、私はダイニングテーブルを拭く。顔は意思に反してとろけていく。
ここは、私たちの家だ。梨生と私の二人で暮らす家。
#
追い詰められて咄嗟に提案した“同棲”だったけれど、本当によかった。
あわよくば、クイーンサイズのベッドひとつの部屋を共有できないか画策したものの、「プライベートな空間は絶対に欲しい」という梨生の強硬な主張に折れて、結局2DKの賃貸マンションに落ち着いた。
家探しは時間との勝負だった。梨生が私との同棲を翻意してしまわないうちに、そしてしょうもない男へ好意を募らせてしまう前に、条件のいい物件を見つける必要があった。学生時代から今に到るまでに培ったあらゆる能力を、情報収拾、資料作成、プレゼン、交渉、合意形成――全ての段階で梨生にぶつけ、この二人暮らしを勝ち取った。
とはいえ、基本的に梨生はのんびり構えていたから、ほぼ私の口車に乗ったかたちだけど。ただ二点、彼女が提示した条件は、「一人一部屋」と「ちーちゃんの職場に通いやすい場所」だった。引っ越してよかったと梨生が感じてくれるよう、私としては彼女の通勤の利便性を優先したかったのに、梨生は「ちーちゃんは毎日帰宅が遅いんだから、安全と健康のためにも近い場所に住むべき」と絶対に折れてくれなかった。……その場で梨生を抱きしめるのを我慢できて私は偉かった。
引っ越してすぐ、スムーズに生活は始められた。家具や調理器具は、梨生がもともと一人暮らしで持っていたのでひと通り揃っているし、子どもを産んで広い家へ移った梨生のお姉さん・果歩ちゃんが、それまで使っていたダイニングテーブルを、私たちへの引っ越し祝いだと言って譲ってくれたから。
それでも、ただ暮らせるだけじゃだめだ。働いて自立してから、梨生は一人暮らしの快適さをしばしば口にしていた。気に入っていた一人暮らしから、強引に巻き込まれて始めた私との二人暮らしを後悔しないよう、生活の質が上がったと感じてもらわなければ。
特に、リビングルームの居心地の向上に力を入れた。同じ家に住んでいても、梨生と同じ空間にいられなければ意味がない。
快適さのあまり人をだめにすると言われる大きなビーズクッションのソファを買おうとしたとき、梨生には「んー、でもリビングに長居しちゃいそうだからなあ」とだめだしをされ、内心で「長居させたいんだよ!!!」と絶叫した。粘り強い交渉の末それを購入した結果、梨生はそのクッションに埋もれて平日は私の帰宅を待ってくれているから、作戦は成功と言える。
その他にも、勝手に加湿器や肌触りのよいブランケットを導入して、梨生を居間に居着かせる努力を重ねている。自分自身は興味を持ったこともなかった小さな観葉植物を置いてみたら、梨生はわりとそういうものが好きらしく、まめに世話を焼いているのも、知らなかった彼女の側面を知れて嬉しかったことのひとつ。
実家にいたときには覚えようともしなかった家事も少しずつやっている。私が気づくよりも一歩早く梨生は細々した家事を手際よくこなしてしまうから、あまり役に立てていないけれど。
でも、ちょっとした生活の知恵や技術を身につけるのは、自分が人間として成長するみたいで純粋に楽しかった。
週末の今日は、足りない食器や雑貨などを買いに二人で都心の大きな街へ来ていた。
一緒に暮らしている当人同士でしかわかりえない、生活のなかの瑣末な事柄について、「洗面所の扉の建て付けが悪いからこういうグッズが必要なんじゃないか」「キッチンにはこんな高さのラックがあれば便利だと思う」など、あれこれ言いながら買い物をするのは、しみじみと嬉しかった。
――勢いで推し進めた同棲だけど、正直、梨生の結婚を止められるかは……自信がない。
でもせめて、遠くないうちに彼女が誰か他の男と生きる決心をするなら、それまでのあいだぐらい、梨生ともっと一緒に過ごしたかった。
そう思いながら店頭に並んだマグカップをぼんやりと手に取っていたら、「あ、それ可愛いね」と彼女が声をかけてきた。
「マグ、お揃いで買おっか」
自らも商品へ手を伸ばしながら、梨生は何気なく言った。
「――うん!」
思いがけず力のこもった返事をしてしまったけれど、梨生はこちらへ柔和な笑みを投げかけ、「色たくさんあるね。みんな可愛い、迷うなー」なんてつぶやいている。
「梨生、私の選んで」
「え?」
「私も、梨生の選ぶから」
「いいけど、なおさら迷うなあ〜」
カップの内側と外側それぞれで異なる色に塗り分けられたそれは、数えきれないほど色違いの商品がある。いくつもあるそれらを次々手に取っては私の顔の両横へ並べて、「これかな」「これも似合う」「これは違うか」と、梨生は悩んでいる。マグカップとのあいだで梨生から真剣な視線の往復を受けていると、どうしても笑顔が浮かぶ。散々時間をかけてから彼女は、
「よしこれ!」
と外側が白、内側が桃色のカップを掲げた。
「梨生は、これ」
私は迷いなくひとつのカップを取る。梨生が素っ頓狂な声をあげた。
「えっ、ちーちゃん早すぎ! ちゃんと選んだ!?」
「うん、選んだよ。梨生の色」
外側が太陽のオレンジ色、内側が空の青色。どちらも何より、梨生に似合うもの。
私が自信に満ちて笑い返せば、梨生は「まあ可愛いからいっか」としぶしぶ頷いた。
雑多な物を買い終え、大きな買い物袋を抱えて二人で駅ビルを歩いていたとき、梨生が、
「あ、ピアノある」
コンコースの片隅に置かれた、通行人の誰でも弾けるピアノを指差した。
「ほんとだ」
しばらくピアノは弾いていない。おずおずと彼女は言う。
「あの、さ。ちょっと弾いていかない?」
「でも……荷物多いし」
「ちーちゃんと……連弾、したいなって」
驚いて、まじまじとその顔を見つめてしまった。梨生が眉を下げる。
「やっぱり――」
「やろう、連弾」
遮って私がそう言った途端、梨生の表情がぱっと華やいだ。
ピアノの下にはプラスチックの芝が敷かれていたから、そこに荷物を置いた。
一人がけ用の小さな椅子を私たちは分けあって座る。お互いの肘も二の腕もくっついているけど、梨生が苦笑することもなければ、非難を込めた目線を向けてくることもない。かつての定位置、私の右側に腰掛けた彼女は鍵盤に指を置き、穏やかな目をこちらへ向け、唇には優しさを湛えて、演奏の始まりを待っている。
頷き、呼吸を揃えて初めの一音を奏でる。
あの日、仲違いをした夜から十年ぶりに弾く曲。楽譜さえない。それでも、その時間の隔たりを感じさせないほど、私たちの息は合っていた。むしろ、あの頃よりもずっとなめらかに音符同士は融け、跳ね、絡まり、響き合った。
従来通り、梨生が主旋律で私が伴奏だったけれど、そこに“主従”はなかった。私の呼吸を拾って、梨生の主旋律がたっぷりと
同じ地平で互いの腕を取って、くるくると踊るようだった。
どこまでも広がる舞台上でどれだけ複雑なステップを踏んでも脚がぶつかり合うことはなく、ますますふたつの身体は旋律にのって揺れ、素早く回転し、舞い上がってはぴったりと密着し、しなやかに伸びた。
私たちは軽やかに、白黒の鍵盤の上を駆けた。
楽しくて仕方がなくて、私は思わず隣の梨生に視線を投げる。彼女は振り向き、目尻を緩めてみせた。幸福が、胸を満たしていく。
演奏が終わったときには、全身がぽかぽかと温かい熱に包まれていた。
いつの間にかピアノの周りに集まっていた聴衆から拍手が起きる。梨生は照れながらも会釈をした。私は多幸感にぽかんとしたまま口を開く。
「梨生、なんか……すごくうまかった」
私のつぶやきに、彼女ははにかんだ。
「……実は、ずっと練習してたんだ。ちーちゃんとまた演奏するときがあったら、足引っ張らないように」
梨生は頬を少し染めさえして、恥ずかしそうに囁いた。その可愛さにあてられて、私は脳内に浮かんだ物欲を我知らず口にしていた。
「――ピアノもいつか買う」
「えっ? さすがに無理でしょ、あのうちにピアノ置くのは」
目を丸くして言う梨生がたまらなく愛しい。
一緒にいられるのはもちろん休日だけじゃない。
平日は、定時退社の梨生がいつも夕食を作ってくれる。
仕事でくたくたになって帰ったときでも、たいてい梨生はリビングで私のことを待っているか、自分の部屋からわざわざ出てきて迎えてくれる。今までだって実家に住んではいたけれど、こんな風に毎日自分の帰宅を気にかけてくれる人がいるのは単純に嬉しい。それが梨生なら、なおのこと。
季節が冬へと差し掛かった寒い屋外から家へ帰ったら、居間のLEDは暖色系に切り替えられ、空調はほっとする暖かさに調整されていた。キッチンに立つ梨生が「おかえり」と声をかけてくれる。玄関ドアの開閉音を聞きつけて、私の食事を温め直すために台所へ移動したのだと思う。
「ただいま。梨生、いつもごはんありがとね。ごめん、任せっきりにして」
「ううん、全然。ちーちゃん忙しそうだからさ、ごはんとか作ってあげられたらと思ってたし」
込み上げる感謝の念を、どうしたら伝えられるんだろう。
……愛情その他諸々を伝えていいのなら、今すぐ抱きついて押し倒してしまいたいんだけど。
彼女がすでに夕飯を済ませていることはわかっている。でも、淡い期待を抱いて私は誘う。
「晩酌、一緒にどう?」
やっぱり梨生は苦笑して、
「んーいいや。ちゃんと寝たいから、ハーブティーにしとく」
毎回断られるのは残念だけど、お揃いで買ったマグカップが梨生の手に収まっているのを見て、いつもどうでもよくなる。
私は梨生の作った夕飯を食べながら。彼女はお茶を淹れて、私たちは食卓につく。
梨生の大きな両手がマグカップを包んでいる。口をすぼめて、カップに向かって息を吹きかけている。揺れる湯気が、彼女の豊かなまつげを湿らせる。
ひとくちハーブティーを飲み、彼女は邪気のない眉頭を緩めて、「仕事、どんな感じ?」と尋ねてくる。
私が何か言うたび、白い歯を見せて無防備に笑う。
私のなんでもない愚痴を聞いているうち、その生気に満ちた目は眠たげに、とろんとしてくる。
カップの
「あ、そうだ」と梨生は声を上げ、薄桃色の唇が「ちーちゃん」と音を紡ぐ。
「明日何か食べたいものある? 今日、豚肉が安かったから買ってきたんだけど」
大人になり、所作のひとつひとつに色香が漂うようになっても、“ちーちゃん”と呼ぶときの、どこか幼く、柔らかい響きは変わらない。その声で呼ばれると、心がふわりとほどけて安心する。
もっと、呼んでほしい。
でも……叶うのならば本当は、幼さだけじゃなくて、もっと違う響きを含んで呼ばせたい。
あんまり私の帰りが遅い夜には、梨生は先に眠っている。その代わり、用意されたご飯の皿には付箋が貼ってある。眠る前のひとときを一緒に過ごせなくとも、彼女から自分へ宛てられた言葉や絵が残されているのは、それはそれで心が踊る。
付箋には、交換日記をしていた頃から見覚えのある、猫にもクマにもネズミにも見えるキャラクターがたいてい描き添えられている。一度、この生き物は何なのかと梨生に確認したら、「動物」と答えが返ってきた。「――どうぶつ」とおうむ返しにした私へ、梨生は「動物という概念」と言い足した。
『動物という概念』が、吹き出しを伴って「ちーちゃんおつかれさま。チンしてね。あったかいほうが絶対美味しいやつなので」と付箋の上で語りかけてくれている。
梨生が私のことを考えてペンを走らせている時間を想像すると、胸がいっぱいになる。
だから、早く帰宅して梨生と一緒にテーブルへつくか、あるいは焦らず帰って深夜に一人、私宛ての文字や絵をじっくり味わうか――これはとても悩ましい。
私には、彼女の婚活を邪魔しなければならない使命があるけれど、梨生と暮らすのがただただ嬉しくて、のんびりとこの生活を楽しんでしまう。
#
今日はあまり遅くならずに帰れたから、お風呂から上がったばかりの梨生とリビングで鉢合わせた。
「ちーちゃんおかえり」
「――ただいま」
肩にタオルを下げた彼女は、ホットパンツから長い脚を惜しげもなく晒している。濡れ髪のままパックから牛乳を注いでいる梨生の後ろ姿を凝視せざるを得ない。
なんとか視線をひっぺがし、ラップのかけられていたお皿に目を落として声をかける。
「……ごはんありがと、梨生」
「んーん。今から食べるでしょ?」
小さく笑顔を浮かべた梨生が近づいてくる。石鹸の香りがふわりと漂う。
「――うん」
すぐ近くに立った彼女がテーブルからお皿を取り上げる。お風呂の温かさをまとった体温がほかほかと伝わってくる。
「ごはんあっためておくから、ちーちゃん着替えてきなよ」
桜色に上気した頬を緩め、梨生はまっすぐにこちらを見て言う。
「……うん、ありがとう」
ぎこちなく微笑み返して、とりあえず自分の部屋へ這々の体で辿り着く。胸に手を当てる。こんな些細なことでも、心臓がどくどくと脈打っている。
一緒に暮らすのってこういうことなんだ……なんて、改めて呆気にとられてしまう。
夕食を終え、私も入浴を済ませたあと、少し開けていた洗面所のドアの隙間から「ちーちゃん、入っていい?」と声がかかった。「うん」と答えると、梨生がやってきて歯磨きを始めた。私は長い髪にタオルをしっかりと押し当て、ヘアオイルを毛先から時間をかけてなじませていく。歯ブラシを動かしつつそれを眺めていた梨生は、
「へー。やっぱちーちゃん丁寧に髪の毛ケアしてんだねえ」
と呑気につぶやいた。私は少し、むっとする。
――梨生が綺麗って言ったから、それをずっと維持してるんだけど。人の気も知らずに。
振り向き、彼女の額にデコピンをお見舞いした。
「え、なんで! 褒めたつもりだったんだけど!」
梨生は歯ブラシをくわえたままフガフガと抗議して、腑に落ちない顔。そこへ、さらに私はドライヤーの冷風を吹きかけた。
「わあ、なにもう〜、やめてよちーちゃん」
身をよじって風から逃れた彼女は屈託なく破顔していた。私もくすりとして今度はちゃんと自分の髪の毛へドライヤーを当てだす。
歯を磨く梨生と、髪を乾かす私は洗面台の前に並んで、言葉を交わさないままに目線だけで笑い合う。
ひと足先に歯磨きを終えた彼女は私の腰に軽く触れ、鏡越しに何かひと言伝えてくる。その声は、ドライヤーの風音に阻まれて聞こえない。でも、口元の動きでわかる。
梨生と私は生活を分けあっているから、決まりきった夜の挨拶だ。ルーチン。
その事実が、胸をあたたかく締め付ける。
“おやすみ”
声は出さずに、唇だけ動かして同じ言葉をこちらも返す。それでじゅうぶん伝わって、彼女は鏡のなかから微笑み、洗面所を去った。
「……」
一人になると、どうしてもにやけてしまう。
これが特別なことではないことに。これが日々の暮らしであることに。
鏡に映った自分の緩みきった顔を見ても、馬鹿みたいなにやけ面は止められない。
理由がなくても毎日君に会える。
私たちはこの家で、一緒に暮らしているから。
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