36. よく訓練された幼馴染の消火活動
日曜日の朝。梨生が洗顔を終え、化粧水などをつけていたとき、
「どっか出かけるの」
そうかけられた声に振り向けば、開け放っていた洗面所のドアの外に、今にも目を閉じそうにして眠たげな千結が立っている。
「んー予定なにもないし、映画でも観に行こうかなって」
「じゃあ……私も行く……」
昨夜も遅くまで休日出勤をしていたので、まだまだ眠り足りないのだろう、幽鬼じみた千結の様子に梨生は眉をひそめ、「今日くらいちゃんと休みなよ」と休息を勧めるが、まぶたをこすりつつ千結はもそりと言葉をこぼす。
「だって……梨生と一緒にいたい……」
「そっ……」
そんな可愛いことをさらっと言わないでほしい、と梨生は胸の裡で思って、つかの間絶句した。咳払いして気を取り直し、口許を緩めて言う。
「じゃあお家で観ようかな」
千結は目を丸くした。
「いいの?」
「うん、二人でゆっくりしよ」
蕾が綻ぶように笑う彼女を見て、梨生もまた目を細めた。
千結の背中を押して寝室でまたしばらく眠らせ、そのあいだに掃除や洗い物を済ませておく。しばらくのち、起き出してきた千結と連れ立って、近所のスーパーマーケットへ出かけた。ホームシアターの一日にするぞ!と意気込んで、お惣菜に加えコーラにポテトチップス、ポップコーンの調理キットやチョコレート、特大のアイスクリームなどを買った。二人であれこれ好き勝手言いつつ、ばさばさと食べ物を放り込んでカートを押して歩くのは楽しかった。梨生の近頃の密かな目標は、好き嫌いの多い千結に気づかせぬまま苦手な食べ物を食べさせる、ということだった。目下進めているプロジェクトは茄子で、来週あたりこっそり夕飯に潜ませようと思っている。千結の見ていない隙に、茄子もカートへ忍び込ませた。
買ってきたお惣菜とお菓子を並べ、日中は韓流ドラマを配信サービスで観ることにした。二人が家に揃った隙間時間に少しずつ観ていたものだが、今日で一気見をしてしまうのだ。ソファに並んでテレビへ向かっていたが、そのうちに千結はブランケットを広げ、梨生の上にもそれをかけて一緒に入った。
「梨生、あったかい」
つぶやいて、彼女は半身を擦り寄せてくる。特に冷え込んできた最近、末端の冷えやすい千結はこうしてことあるごとにくっつく。
テレビ画面の中では、男女が厳しい顔つきで口論している。出会いの印象が最悪だったために反目し合う男女が、やがて惹かれていくも素直になれずに回り道をし続ける、というお話だ。視聴者にしてみれば、彼らが好意を持っているのは明らかであるためやきもきさせられるが、間違いなくハッピーエンドなので鑑賞は止まらない。
今回のエピソードでは、やっと素直になってみた女の子の歩み寄りの兆しを、だが悲しいかな、男の子は掴み損ねていつも通りに突っぱねてしまったのだった。今度こそうまくいくのではないか、という期待を裏切られ、じれったさに梨生は「あーっ」と声を上げた。次回予告へ移った画面へリモコンを向け、
「こんなわかりやすく好かれててさあ、気付かないとかないよねえ」
ため息をつきつつ梨生はそう投げかけたが、
「――そうかな」
と千結は気のない返事を返した。てっきり彼女のことだから手厳しく断罪するものだと思っていた梨生は、なんだか拍子抜けしてしまう。
「いくら鈍いって言っても、限度ない?」
「……ほんとだよね」
依然、そのトーンは生ぬるい。手応えのなさに梨生は胸中で首を傾げ、イントロをスキップし終えたリモコンを置き、ソファに背を預け直した。千結はぴたりとまた体をくっつけてくる。梨生の肩へ猫のように頭を擦り寄せ、それを預けた。
このところ、千結はとみに甘えるようになってきた。こんな風に自分を晒けだすタイプではないと思っていた。知り合って十五年以上にもなるのに、まだまだ知らない面があるものなんだな、と梨生は意外に感じた。
正直こうしてくっつかれるとそわそわすることもあるが、かといって心臓が跳ねるというほどでもない。この数年のうちに千結との接触に慣れておいてよかった、と思う。
そのうちに、千結は眠ってしまった。ベランダから差し込む夕陽が、その小さな顔を橙色に染めている。梨生は、こちらによりかかって眠る彼女を見てくすりとした。体をなるべく動かさないようにリモコンを取り上げ、テレビを消す。あとには、くーくー、という千結の微かな寝息だけが残る。
週末もなんだかんだと一緒に過ごしているため、梨生は婚活どころではなくなった。気乗りしないものの年齢や周りの環境の変化もあって億劫ながら進めている婚活なんかよりも、千結とのんびりするほうがよっぽど楽しかった。
本当は今日だってマッチングアプリの男性からデートに誘われていたが、なんとなく気乗りせず、用事があるからと嘘を伝えて断っていた。話も合うし、数週間前に直接会ってみたところ、さらりとした好印象の男性だったけれど、引っ越して以来、なんだか遠のいている。
「ん……」
千結の口から寝言未満の音が漏れ、ほんの少し彼女は身動いだ。そのまま起きるかと見守ったが、また寝息を立てだした。午前中いっぱい寝ても仕事の疲れは取りきれていないのだろう。
梨生はスマートフォンを手に取り、あどけなく眠る千結へカメラを向ける。シャッター音で起こしかねなかったが、幸い眠り姫の安眠を邪魔することはなかった。梨生が笑みを浮かべながら写真を確認しようとしたところ、件の彼からメッセージが届いていることを示す通知が画面に一瞬表示された。
興が削がれて、梨生は携帯電話を置いた。このところ返信の間隔が開くようになった彼女に、彼は尋ねてきたことがある。
『最近忙しい?』
「友達と二人暮らしを始めて、ばたばたしてました、ごめんなさい」
『二人暮らしって、かなり仲良しだね。……あれ、相手、男だったりする?(笑)』
「違いますよー幼馴染の女の子です」
千結と疎遠になった時期もあったけれど、今ではすっかり“幼馴染”という言葉がしっくりくる。同棲を始めてから、その距離はますます縮まったと思う。
週末も含めて千結とは四六時中一緒にいるにも関わらず、特に喧嘩もなく、この生活をおおいに満喫している。家事全般を梨生に頼りきりの現状に対して時々彼女は申し訳なさそうにするが、梨生自身は千結の役に立てるのを純粋に嬉しく感じている。
この生活があとどれだけ続くかはわからない。梨生がこの二人暮らしを気に入っていても、婚活をサボっていても、いずれ千結が誰かと結婚を決めてこの家を出ていくこともあるだろう。
その未来を思うと、梨生の胸は小さく締め付けられた。千結を彩る燃えるような西陽の色が、ますますその感傷を強めた。沈む直前の太陽は、最後の力を振り絞って目を刺すほどに輝いている。日光の暖かさを一日ふんだんに抱きとめたこの部屋も、日が沈めば段々と、だが確実に冷えていくだろう。
忙しすぎて美容院に行く暇もない、とこぼしていた彼女のまぶたにかかる前髪を、梨生は指先でそっとよけた。すると、千結はぎゅっと眉を寄せてから、まぶたをそろそろと開いた。
「あ、ごめん、起こしちゃった」
謝罪を口にした梨生の顔をおっとりと見上げた千結は、寝起きでまだぽかんしているらしく、ぱちりと瞬いたあと、無言でまつげを伏せ、それから風がそよぐみたいにほのかに笑んだ。
綺麗な子だなあ、と梨生は思う。そのはにかみ方は内気だった昔を思い出させたが、その頃よりもずっと美しい女性になった。
千結はもたれかかっていた体を離して伸びをした。半身から温かさが消えて、梨生は少し寂しくなる。
「寝ちゃった。もう夕方だね」
太陽の眩しさに目を細めながら言った千結に、「そろそろピザ注文して、ポップコーン作ろうよ」と持ちかけると、彼女は目尻を下げて大きく頷いた。夜はピザとポップコーンをつまみながら映画鑑賞をすることにしていた。
ピザのチラシを机に広げ、食べたいフレーバーの種類をいっせのーせで指差す。スモールサイズの2枚をハーフ&ハーフで注文するから、意見の割れたものについてはじゃんけんで決め、ピザの宅配を待つ間はキッチンでポップコーン作りをした。やってみたいと言う千結に、火の上で豆を炒る担当は任せた。
「こんなので本当にポップコーンできるの」
「そのはずだよ」
あからさまに訝しげな表情でキットのアルミ鍋を揺すり続ける千結に、梨生は笑いを漏らす。鍋を火にかけてしばらく、蓋の内側でポコポコと豆が弾ける音がし始めた。
「跳ねてる!」
鍋から伝わる感触に目を煌めかせて言う千結へ、ますます笑みを深めて「ほら、焦げないようにちゃんと揺すって」と返しつつ、漂うバターの香りに梨生の心も弾んでいった。
そして鍋の覆いを取った途端、ほわりと香ばしい匂いに、白く咲いた山盛りのポップコーンが現われて、二人は歓声を上げた。
「ポップコーンだ!」
「美味しそうっ!」
鼻息を荒くして千結は胸を張る。
「これからは、『得意料理:ポップコーン』って言い張る」
「ちーちゃんそれ逆に料理できないのバレるから」
「こんな見事にポップコーンを弾けさせるのは至難の技だから」
「はいはい」
破顔しつつ、梨生は胸にくすぐったく広がる安堵を感じていた。
同棲を提案された際によぎった不安は、日々の暮らしのなかへ飛び去っていった。長い時間をひとつ屋根の下で共に過ごせば、やはり小学生の頃みたいな気安い関係にきちんと戻れた。何も恐れることはなかったのだ。
「盛り付けとかしておくから、ちーちゃんは映画選んでおいて」
「うん」
届いたピザを大皿へ移し、ポップコーンを盛り、千結のためにワインを用意して、一日中ジャンキーな食べ物ばかり摂取することへの弁解のごとく簡素なサラダを一応用意した。リモコンを操作しながら配信サービスの画面へ真剣な瞳を投げている横顔へ声をかける。
「食べよ、ちーちゃん。何観るか決めた?」
「うん。この四つから選んで」
千結が指示したそのどれも、恐怖に慄く人間の顔か、人間ではなさそうなモノと、血を連想させる赤のおどろおどろしい書体のタイトルを描いたものばかりで、
「いやなんでこんなホラーばっかり」
「だって、なんか今夜はそういう気分だから」
涼しい顔で千結は答えた。
「えぇ……怖くないやつ観ようよう……」
「もうホラーの気分高め終わってるから、怖くないとやだ」
「え〜……どうしても……?」
こくりと頷かれて、普段ホラー映画など避けてばかりの梨生は仕方なく、血の雰囲気のしない、少女がこちらを見つめているだけの、しかし十分に不吉な予感に満ちたサムネイルの映画を選んだ。すると、千結は照明用のリモコンを手に取り、豆電球へと素早く変えた。
「えっちょっとちーちゃん! 電気まで消すことないじゃん……!」
「暗くしたほうが雰囲気出るし」
映画が始まる前から梨生は泣きそうになって千結を見つめた。彼女はそんな梨生を見てつかの間相好を崩しはしたものの、ホラー映画鑑賞への意志は固く、
「さ、見よ?」
とあっけなく再生ボタンを押した。
序盤は意外と平和な雰囲気で、梨生も問題なくピザやポップコーンを楽しめた。今まで食わず嫌いだったホラー映画も、これなら案外いけるのかもしれない、とすら思った。だが、中盤へ差し掛かると途端に事態は転げるがごとく悪化し、登場人物たちは次々と悲惨な目に合っていく。
その頃には食事もあらかた終えていた梨生はソファの上でクッションを抱きしめ、忍び寄る不穏さと、時折不意をついてもたらされる脅かしをどうにかやり過ごそうと努めた。隣に座る千結も、「こわい」とつぶやいて腕を絡めてくる。映画の終盤では、ひたすら恐怖と緊張感を煽り続けて一瞬たりとも救いを与えず、空気を重くさせる禍々しさに耐えるため、梨生は息を詰めて腕の中のものをぎゅっと抱きしめた。
――結局、みな死んでしまった。
黒い画面を白い文字が流れていく。待ち望んでいたエンドロールにやっと辿り着いても、梨生の全身にはしっかりと恐怖心が貼りついていた。
それでも強張っていた体から梨生が力を緩めたとき、はっとした。腕のなかにはなぜか千結が収まっていた。
「えっあれ、ごめんいつの間にか」
「ん」
両腕を離して謝罪を伝えても、胸の前の千結は戻ろうとせず、それどころか梨生の膝の上に寝転んだ。恐怖体験をいまだに引きずっている梨生は特に何も言わず、太ももから伝わる、生身の人間である千結の温かさと重量にむしろ安心を得ていた。そうして金縛り状態から徐々に脱してくるにつれ、自身のなかにわだかまっている物恐ろしさを少しでも融解させたい一心で、流れる映画製作スタッフたちの名前を眺めながら梨生はつぶやいた。
「あのお母さんの顔、怖すぎて夢に見そう……」
「表情だけで極限状態を伝えるの、すごかったね」
「……演技した人たち、大丈夫かな……怖すぎて気が狂ってないかな……」
「あのお母さん役の人、他の映画でも最近観たけど元気そうだったよ」
「よかった……」
ぽつりぽつりと話しているうちに、恐怖も薄れてきた。すると、なんだか膝の上の千結の存在が気にかかってくる。
「……あの、ちーちゃん、わたしもう大丈夫」
「――うん。も少し」
言って千結は、梨生の腹側へごろりと寝返ってそろりと梨生の服の裾を掴んだ。
自分ほどわかりやすく怯えた様子ではなかったけれど、ちーちゃんも怖がっているんだろうか。そうだとしたら可愛いな、と梨生は思った。
照明を普通の明るさに戻してからもしばらく呆然としていたが、気づけばすでに意外と遅い時間だった。明日からまた平日が始まるので、今夜は早めに就寝しておきたい。
「お風呂入らなきゃ……」
梨生はそうつぶやいたものの、入浴のことを考えるや否や冷たい不穏がひたりと蘇ってきた。浴室には鏡がある。もし、顔を洗っている間に後ろに何者かが現れて、頭を上げたとき鏡に『それ』が映ったりしたら……!
「――怖い?」
走り出した妄想に顔を凍りつかせていた梨生を見上げて、心配そうに千結は訊いた。
「……だいじょうぶ……」
「ごめん……梨生がそこまで怖がると思ってなかった……」
無理やりホラー映画を観せた手前、千結はばつが悪そうだった。そんな風に気遣わしげにされると、梨生は映画ぐらいでこんなに動転している自分が急に子どもじみて感じられた。
「ううん、耐性がなさすぎただけだから……」
そう弱々しく微笑んでみせたけれど、やはり怖さは拭えなくて、梨生はつかの間ぼんやりとソファに座ったままでいた。
千結が膝の上からゆっくり起き上がり、「梨生」と声をかける。そして腕を伸ばして梨生の髪に手を差し入れ、さらりとそれに指を通した。びっくりした梨生が言葉を失って千結を凝視すると、彼女は一瞬じっと目を見つめ返してから、ふっと視線を外し、
「……お風呂、一緒に入る?」
と囁いた。
「――っ!? い、いや子どもじゃないから、大丈夫!」
体に残っていた恐怖心も何もかも吹っ飛ばして梨生はそう言い放ち、慌ててソファから立ち上がって、「じゃっお風呂先にいただくねっ」と風呂場へ直行した。
何かに急かされるようにして服を脱ぎ、はやばやと浴槽へ浸かった。すでに、顔だけ妙に血行が良い気がする。目をつむって顔を覆い、梨生は呻いた。
――ちーちゃんは、自分がものすごい美人さんなのを、もう少しちゃんと自覚するべきだと思う。
彼女はワインを飲んでいたので、白い頬がほんのり桃に染まり、瞳は潤んでいた。唇の朱はいつにも増して、ワインの深緋が移ったみたいに色濃く、脳裏に灼きついた。
酔うと、たまにものすごく色っぽいのだ。
羞じらうがごとく逸らされた目を隠したまつげは密やかで、庇護欲と嗜虐心を同時にひどく掻き立てた。
須臾の間ぶつかり合った視線の感覚が幻影となってまとわりつき、梨生の胸を苦しくさせていた。
あんな……まるで“誘う”ような瞳。じくりと染み出す熱情と、それを抑えようとする葛藤が――誤解に違いないけれど――表れているかのようだった。
いくら同性でそのうえ幼馴染でも、あんな目されたらよろめいちゃうよ……と梨生は心のなかで恨み節を述べ、背中を丸めた。湯船から上げた手のひらを、ぱしゃりと湯もろとも自らの頬に叩きつける。
「……気をつけなきゃ」
――ちーちゃんは、わたしを信頼して共同生活の相手に選んでくれたんだから。
自分がおかしな感情を抱きだしたら、またあの頃みたいに歯車がずれていってしまいかねない。それはいずれこの生活を壊してしまうだろう。
そうこう悶々と考えごとをしているうち、とうに入浴を終えてタオルで体を拭いている自身に梨生は気が付いた。映画の直後に全身へ巣食っていた怖さなどすっかり忘れて風呂に入ることができたのだ。ちーちゃんの無意識のあれは困りものだけど、感謝しなきゃ、と梨生は唇を緩めた。
ふと二の腕の傷が疼いた気がして脱衣所の鏡に目をやると、赤く目立っていた。指先でそれに触れながらつぶやく。
「――アイス食べよ」
今日買ってきたアイスクリームをまだ食べていなかった。
ほんの一瞬で灯されてしまった居心地の悪い熱をきちんと冷やす必要があった。
二人の穏やかで楽しい暮らしを続けるために。
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