37. 熾火とふいご
今夜も千結の帰りは遅いかもしれない。しばらくはリビングで彼女の帰宅を待っていたが、梨生はそろそろベッドに入ろうかと考えた。ダイニングテーブルの上へ用意していた晩御飯の前に座り、付箋とペンを手に取る。
「どうしよっかな」
暗くしたリビングで手元にだけ小さく点けた灯りのもと、つかの間考えあぐねた。このところ夕飯を共に出来ていないので食事に言葉とイラストを添えているが、毎日のこととなるとさすがにネタ切れとなってくる。
「まずは――“遅くまでおつかれさま。今日はサバの”……みそってどう書くんだろ? まいっか、ひらがなで。“すぐお風呂に入って、しっかり寝てね”」
毎日同じ絵ばかりだと芸がないので、今日は鯖に挑戦してみた。鯖の正確な見た目はわからないけれど、魚類と認識されればよいだろう。最後の仕上げとしてヒレを書きかけたとき、玄関で扉の開く音がした。椅子から立ち上がって迎えに行く。
「おかえり」
「梨生、ただいま」
数日ぶりにまともに顔を合わせた千結は、
「今日はちょっと早かったんだね。今からご飯食べる?」
「うん」
「じゃあ、あっためてくる」
「ありがと」
梨生が夕飯を温めている間に、千結は手洗いや簡単な着替えを済ませ、居間へ戻ってきた。定位置の席へそれぞれ座り、千結は「いただきます」と手を合わせ、梨生は「はい召し上がれ」と応えた。千結が柔らかく微笑む。
書きかけだった付箋にふと梨生が目をやるとそれはすでになく、不思議に思ったところ、千結のそばにそれが貼り付けられているのが見えた。彼女が帰ってきた時点で先に捨てておけばよかった、と梨生はきまり悪さを感じた。誰かのために宛てた言葉が、時を経たずその場で本人に届いてしまうのを見るのは、なんとなく気恥ずかしい。
梨生はハーブティーを淹れ、千結は遅い夕食を摂りながら、ぽつぽつとお互いの近況報告や他愛のない話をする。肘をつきリラックスして目の前の千結を眺めていれば、怪訝そうに彼女が言う。
「――なに? にこにこして」
「え? ふふ、ちーちゃん、玉ねぎ食べられるようになったんだなあって」
副菜の玉ねぎの卵とじを千結はぺろりと完食していた。彼女は少し口を尖らせる。
「……昔から食べられたよ。ただ、苦手だっただけ」
「そうだね、確かに」
にんまりとして大きく頷く梨生に一瞬不服そうな目を向け、だが殊勝にも彼女は、
「……本当は、もう少し薄切りだとベストです……」
と正直に述べたから、梨生も恭しく「かしこまりました」とこうべを垂れた。
「ところで昨日のフライはどうだった?」
「チーズと豚肉のやつ? 美味しかったよ」
きょとんとして答えた千結へ、にこりと真実を告げる。
「あれ、実は中に茄子が入ってたんだよ」
「えっ」
「茄子も食べられたねえ、ちーちゃん」
「だまし討ち……」
悔しげな彼女をにやにや見返したとき、梨生はふと思い出した。
「あ、そうだ。来週の金曜、わたし有休取るからご飯豪華にできるよ。ちーちゃんの食べたいやつ何でも作るし茄子も混ぜないから、何食べたいか考えておいて」
一度頷きかけた千結が、はっとして、
「じゃあ私も休みにする!」
「でも……ちーちゃん今から休み取れるの?」
ただでさえ千結の帰宅は連日遅いから、当然疑問を呈したが、
「もぎ取る」
とひと言、千結は静かな闘志を滾らせて宣言した。その力強さに梨生も白い歯を見せる。
「頑張って。――あ、でも二人揃って平日に休み取れるなら、せっかくだしどっか食べに行く?」
問いかけられた千結はしばし黙って考えを巡らせたのち、
「家で、ごはん一緒に作りたい」
「あーそういえば、料理教えてって言ってたもんね。何作ろっか」
「……餃子、とか?」
あまり教えるようなものでもない気がして梨生はくすりとしたが、次いでにっこりしてみせた。
「いいね。一緒に作ると楽しいよね」
千結も屈託なく笑った。それがあまりに無邪気で子どものようだったから、思わず梨生は手を伸ばし、彼女の頭をわさわさと撫でてしまった。むっとして彼女は言う。
「子ども扱いしてる?」
「んー? そういうわけじゃないけど」
にこにこして答えた梨生に不満げな表情を見せていた千結も、やがてほだされるようにして頬を緩めた。
無事に千結がもぎ取った有給休暇を、二人揃ってゆっくり過ごす。餃子作りは夕方からにして、それまではリビングルームでごろごろした。
季節は冬だが、日中は大きなベランダの窓から陽射しがぽかぽかと注ぎ込む。物件探しにあたっては、この日当たりの良さが決め手の一つだった。ソファへ寝そべって雑誌片手にまどろみながら、この家にしてよかった、と梨生はしみじみ感じていた。雑誌がヘアスタイル特集のページに差し掛かったとき、大きなビーズクッションに埋もれて、これまたうとうとしている千結にふと目を巡らせた。
「ちーちゃん今日美容院行けばよかったね」
平日は美容院の開いている時間までに帰宅できず、週末も平日の疲れを癒すか梨生に付き合って外出しているからなかなか機会がないけれど、せっかく平日に休みが取れたのだから今日髪を切りに行けばよかったのだ。
前髪のかかったまぶたをつむったまま、千結は「んー……」なんて曖昧に応えている。梨生はだらしなく寝転がったまま腕を伸ばし、クッションの上からこぼれていた千結の髪の房を戯れに手へ取った。両手が覚えている動きに従って、彼女の髪を自動的に編み込んでいく。それに触れるのは随分と久しいはずなのに、昔と変わらず滑らかな感覚が指先に伝わってくる。千結も無言でされるがままになっている。機械的にさっさと編み込んでしまう手指の速さを落として、軟らかで繊細なその髪の感触をしばし梨生は味わった。
そのうち根本まで辿り着いてしまい、名残惜しさを感じつつも髪のあいだに中指をかける。さら、と三つ編みを解いた瞬間、艶やかな髪は陽を反射して一本一本がきらめいた。その眩しさに目を細めて梨生は思わず、
「――ほんとに綺麗」
とつぶやいた。次いで、自分の夢見心地な声音が大袈裟だったので、照れ隠しにふふ、と笑ってわざと粗暴に寝返ると再び雑誌へ目を戻した。
ややして千結がおもむろに動き、ビーズクッションの上で振り向く。
「私も、梨生の髪編みたい」
「え? でもわたし、今はあんまり長くないし。ちーちゃんみたいに綺麗な髪じゃないから」
首を振る梨生に構わず、彼女は立ち上がって手を引く。
「いいの、編ませて」
先ほど自分は断りもなく触れてしまったため、梨生は強く拒否もできずに導かれるままビーズクッションの上へ座らされた。クッションは、陽射しに加え人間の体温によって穏やかに温まっている。千結は背中側へ回りソファに腰掛けたようだ。
肩を少し過ぎたくらいの髪の毛を、千結の手が丁寧に何度も梳いてから、ゆっくりとまとめだした。たっぷりと注ぐ陽射しを浴びながらそうして髪を触られていると、なんだか懐かしさと眠気がほのぼのと梨生の胸を満たしていった。目をつむって話しかける。
「なんか昔思い出す」
「――うん」
一拍遅れて返事があった。ちーちゃんにとってはそんなに思い出深い出来事じゃないのかも、と思って、わずかな寂しさが梨生の胸をちくりと刺した。
やがて三つ編みはうなじまで到達し、髪がきゅ、と引っ張られて、頭が後ろに傾いだ。その拍子に千結の冷たい指先が首をかすめ、梨生は密かに息を呑んだ。呑み込んだ息をゆるりと逃しながら笑って言う。
「ほら、もう編めちゃったでしょ」
「うん……」
ぽつりと寂しげな答えがあり、そしてふいに梨生は背中に重みと柔らかさを感じた。反射的に体幹を起こしてそれを支えながら、状況を理解する。視線を落とすとお腹の前に千結の小さな手が回されていた。どうやら背中に寄りかかられているようだった。
「――どしたの、ちーちゃん」
「……あったかい」
すぐそばでつぶやく声の温度は、あくまで平熱だ。それにも関わらず、梨生の心臓は無条件に速まった。何か言おうとして、言葉が浮かばずに口を閉じた。この鼓動が彼女へ伝わってしまうんじゃないか、と不安になればなるほどそれはますます力強く躍動する。
じわりと上がる体温の一方で、いつだったか彼女の髪を編んだとき、その背中を抱きしめたい衝動に自分も駆られたことを梨生はふと思い出した。
「……」
あのときの衝動は、千結という友人を取り戻せた喜びと、しみじみとした親愛によるものだった。友人である以上の特別な感情からではなかった。よって、今の千結の抱擁も、親友が気まぐれに示す親愛以上の意味は持たないのだ。
――だから、鎮まれ、わたしの心臓。鎮まって。
そう必死で祈りながら、視線の先の壁を明るく染める陽の光を見つめていると、もうひとつ何かを思い出しそうだった。だがその記憶を追いかけようとすれば、臓器がどんどんおかしなテンポを刻みそうになった。
胸の鼓動が部屋の空気まで震わせていやしないか梨生が耳を澄ませた瞬間、ローテーブルの上の千結のスマートフォンが震えた。――それは一向に止まる気配がない。彼女が携帯電話を取ろうと立ち上がる気配もない。
梨生はそうっと口を開いて問いかけた。
「――ちーちゃん、電話じゃない?」
「……」
「出なくていいの?」
問いはしかし、また問いとして返ってきた。
「……梨生は、出てほしい?」
静かな声が、背中を通して振動と温かさとなって伝わってくる。唾を飲み込み、声を絞り出す。
「……わ、かんないよ」
沈黙が返ってくるあいだにも、千結のスマートフォンはテーブルの上で震え続けている。永遠にも思われた数秒のあと、彼女は小さくため息をついて梨生を解放した。ほっとすると同時に、わずかな惜しさも胸の奥から湧いてくるのを梨生は感じた。
スマートフォンを手にした千結は、画面を一瞥して眉をかすかに寄せたあと電話を取った。
「はい、粟田です」
だんだんと心臓が速度を落としていくのを確認しつつ、仕事の話をしているらしき千結の声を呆然と聞いていたが、不用意に聞くものでもないと思い至り、梨生は立ち上がった。すると、電話に耳を当てたままの千結にぐっと服の裾を掴まれる。動けないので梨生は仕方なく留まり、床へ腰を下ろした千結に引っ張られるかたちでまたビーズクッションに体を埋めた。
しばらくのちに電話を切った千結は大きく嘆息した。梨生が「何かトラブル?」と尋ねると、「うん、ちょっとだけ」と頷いた。難しい顔つきでスマートフォンを触っているが、相変わらずその片手は梨生の服を掴んだままだ。それをちらりと見ながら梨生は、
「仕事の話するなら、席外すよ?」
と訊いてみるが、
「いい、すぐ終わらせるから待ってて」
と短く返される。そして千結は関係各所に次々と電話をかけ始めた。あまり聞き耳を立てるものでもないと、梨生も自身の携帯画面へ目を落としていたが、仕事モードのきりりとした彼女の声音に自然と意識はそちらへ吸い寄せられた。
いくつかやりとりを終えたあと、ほっと安堵の息をついた彼女は、最初の電話元へ連絡したようだった。
「――ということで、問題なく事態は解決しました。……ただ、一点言っておきたいのは、これは小原くんが自分でなんとかできるレベルの問題だったということです。あなたはその能力があると私は信じていますし、わかっています」
そこで一旦言葉を切ってから声を一段低くして、
「そして、今日は私の休日です。仕事を一ミリも家に持ち込みたくない、私の休日。……そこをよくよく承知しておいてほしかった」
「ただ、問題になりそうだという判断は的確だったと思います。それに、何はともあれ早めに対処ができてよかったです。連絡ありがとう。念のため、高井さんにはこの件について、私が対応済ということも含めて報告しておいてください」
そのとき、電話先から「えーっ」という素っ頓狂な声が梨生にも聞こえた。顔をしかめて一度携帯電話から耳を浮かせた千結が淡々と、
「先に伝えておかないと、どうせあとでねちねち嫌味言われるんだから。さっさと言っておくの」
その言い聞かせるような調子に、梨生はくすりとした。
「あす、対応の詳細と今後の展開も含めて情報共有しますので、高井さんに報告したら今日はもうこのことは忘れて、自分のタスクにだけ集中してください。絶対にくよくよ考えないで。自分のやるべきことだけやったら今日はすぐ退社してください。何か確認したいことはありますか? ――うん。それから……よっぽどのことがなければ今日はもう電話しないでください。テキストは送ってもいいし、たまに確認しておくから。――返信するかは保証しないけど」
そう言って、最後は茶目っ気を混ぜて目元を緩めた。それが印象的で梨生がぼんやりしているあいだに二言三言しゃべった千結は電話を切り、ようやく梨生の服から手を離した。そしてローテーブルの上にスマートフォンを投げ出すとそこへ突っ伏し、恨みがましい声を出した。
「梨生との時間、邪魔された……」
先ほどまでのしゃっきりした様子とは打って変わった、いつも通りの千結に梨生はくすくすと笑いを漏らす。
「だけど、ちーちゃんかっこよかったよ」
机から顔をのっそり上げた彼女は得意げに口角を上げ、
「惚れ直した?」
と訊いた。一瞬言葉に窮したが、「うんうん」と梨生が頷いてみせると、彼女は満足そうに笑みをこぼした。
「ちーちゃん、しっかり先輩してるんだって感じだった」
電話の最後なんか笑ってて意外だったかも、と言い足しかけて、やめた。その表情を思い浮かべた瞬間、わずかに心臓が縮む心地がしたからだ。千結は視線を上向けて黙考したのち、
「お調子者でしょうがないけど、まあこの子は……基本的に優秀だから」
「いい関係性なんだね」
苦笑の気配を漂わせて言う彼女へ朗らかに返答しながら、今度はよりはっきりと嫉妬心がうずくのを梨生は感じた。それを打ち消すようにして、おどけた雰囲気で「ちーちゃんが他人の面倒を見てるとは」と茶化せば、「仕方なくだよ、もう。めんどくさい」と、もう普段と変わらぬ様子で千結は気だるげにつぶやいた。
夕方からは、予定通り餃子を一緒に作った。たっぷりの餡と、いくつか変わり種として、キムチやチーズ、明太子、チョコレートや林檎の甘煮なども用意した。
ひと通り餃子の包み方を教えたものの、千結の作業スピードは遅々としていて、おまけに二人が作ってバットに並べた餃子たちは、どれが彼女の作か一目でわかる。それでも最初のほうの餃子から最新作まで辿って見てみれば、本当に少しずつだが進歩が認められ、それもまた微笑ましいのだった。にやけてしまう顔面をごまかそうと袖をたくし上げた腕で顔を隠した梨生に、目ざとく気付いた千結が鋭く問うた。
「何」
すでに語気は詰問調子で、思わず梨生は噴き出し、それでも、
「なんでもない」
と笑い混じりに答えたが、
「私の餃子、ぶさいくだと思ってる?」
と彼女は切り込んできた。
「ふふふ、思ってないよ」
「思ってるでしょ」
顔を逸らして言い逃れる梨生の脇を、餃子作りはやめないまま千結は肘先でつつく。
「ちーちゃんの進歩が目覚ましくて、感心してたの」
笑い声にはなってしまったけれど本心を伝えたところ、彼女は疑り深いまなざしを向けてきたが、「ほら」と第一作目と最新作を順に指差したら、彼女は顔を綻ばせた。
機嫌良さげに再び餃子作りに精を出し始めた千結を横目で見ながら、小さい手で一生懸命に餃子を包んでるの可愛いなー、と梨生は思った。
こうした表情豊かな千結の姿は、一緒に暮らしていないと見られないものだろう。
誰彼なく自慢したい気持ちが梨生の胸を膨らませた。
二人で休日を満喫したあとしばらく、千結とはすれ違いでまともに会えない日が続いた。急遽取った休暇の煽りを受けて、仕事の遅れを取り戻す意味でも彼女は忙しくしているのかもしれない。
今夜もしばらく彼女の帰宅を待ってみたが、梨生は諦めて先に寝ていた。
夜中、ふと目が覚めて喉の渇きを覚えた彼女は、キッチンへ向かった。電気を点けて冷蔵庫から水を出したとき、真っ暗な居間でビーズクッションへ仰向けに埋もれている千結に気が付いた。ボトルを置いてそちらへ向かうと、彼女は外着のまま眠っているようだった。跪いてそっと肩を叩く。
「ちーちゃん」
台所から届くほのかな灯りのなか、千結が薄く目を開ける。
「――梨生」
「ちゃんとベッドで寝なよ」
「うん……」
立ち上がった梨生が彼女を引っ張り上げようとして腕を取った瞬間、逆にぐっと腕を引かれて体勢を崩した梨生は千結の上に倒れ込んだ。
「っちーちゃん」
慌てて起き上がろうとするも、
「ちょっとだけ……」
とつぶやいた千結に抱きしめられて、身を起こせない。突然の事態に跳ねた心臓が、そのまま駆け足を続ける。顔を背けると、クッションの中のビーズが、ざり、と音を立てた。
ちーちゃん、だいぶ疲れてるはずだもんね、と胸の裡でため息をついた梨生が腕を上げたところ、また逃げられると思ってか、千結が身を固くしたのがわかったけれど、そのまま彼女の頭へ手をやり、ぽんぽんとあやすようにリズムを刻んだ。彼女の体から力が抜けたのが伝わってきた。
あくまで労いのスタンスを崩さないよう、睦ましい雰囲気は出ないよう、少し乱暴に手を動かし続けた。
心臓が落ち着いてくる。疲れた友達を労わるのは当然のことだ。さっきはびっくりしたため、脈拍がちょっと速まっただけだ。
「……」
ぽんぽんとあえて呑気なリズムを作っていたつもりが、いつのまにか梨生の手はしっとりと艶やかな千結の頭を撫でていた。梨生の手が少し大きめなのもあるが、ともすると片手に全て収まるのではないかと感じるほど千結の頭蓋は小さかった。
――同じ洗剤に同じ柔軟剤、シャンプーもトリートメントも同じものを使っており、彼女は香水もつけていないはずなのに、なぜだか甘く感じられる匂い。
手が止まりそうになってしまい、かすかに咳払いをして、そろそろ離れようと梨生が身動ぎをしたら、まだ行かせまいとして千結の両腕に力が込められた。
まるで恋人がするように巻きつく腕は、切なげですらあった。
梨生の肌が一斉に粟立つ。
全身を素早く駆け巡ったぞわぞわを打ち消すよう、梨生は怒りの感情へ意識を向けた。
こんな薄暗い中では、間違いを起こしかねない。一体彼女はどういうつもりなのか。お酒の匂いはしないけれど、酔っ払っているのだろうか。
たまらず問い質した。
「ちーちゃんさ、酔ってる?」
思ったより不機嫌な声が出て、ひやりとした。だがしかし、返ってきたのは、
「酔ってなんかない」
ぽつりと、耳のすぐ横で彼女は言った。その声音の静けさに、梨生の怒りは瞬時に蒸発した。
「……」
「ただ、こうしたいだけ」
わからない。いつも通り、その声は落ち着いて聞こえる。
梨生がわかるのは、自分のなかで高まっていく衝動だけだ。
さっきは離れようとしたけれど、今もし腕を解かれて目を見交わしでもしたら、この目に灯った情欲を気取られてしまうかもしれない。
だからいっそ、しばらくはこのまま抱き合っていたほうが安全だ。
梨生はぎゅっと目をつむった。
――困ったな。こんなんじゃ、勘違いしてしまいそう。
詰まりそうな息を梨生がゆるゆると逃したそのとき、千結の腕がいっそうきつく梨生を抱きしめ、
「――りお」
と悩ましく囁いた。梨生の首筋に擦り寄った彼女の唇から、温かく湿った吐息が漏れる。
梨生は遮二無二跳ね起きて、
「ちーちゃんっ、はいもう化粧落として寝る!」
と叫び、有無を言わせず千結を立ち上がらせ、背中を押して洗面所へ連れて行った。洗面所の白く無機質な
ほぼ駆け足になって梨生は自身も部屋へ帰り、ベッドに潜りこんだ。まぶたを閉じて何度も寝返りをうったが、眠れない。
巻きついた腕を思い出す。細いのにちゃんと柔らかい身体の感触が蘇る。不思議と甘く香る匂いと、消えそうなくらいに小さく囁かれた声の調子が立ち昇る。
耳の先まで熱くなって、痛みすら感じるほどだ。
ごくり、と喉を鳴らす。そもそも水を飲みに起きたのだが、もう今夜は部屋を出る気になれなかった。
疲れていると、人肌の温もりが恋しくなるものだ。
誰か他人の体温や柔らかさを感じて、それに包まれ、自らの実存を確認して安心したくなる。それは特定の“誰か”である必要すらなく、こちらに危害を加える存在でなければ誰だっていい。そういうものだ。
こんなことで間違ってはいけない。間違っては、また彼女を失ってしまう。
けれど。
……あの絡みつくような腕の強さは、それだけなんだろうか。
あの吐息の熱さは――
その吐息を思ったとき、唐突に脳裏へ蘇ったものがあった。
もうずいぶん前に夕陽のなかで幻視した、千結の瞳の熱だった。
高校生の頃、彼女の部屋でその髪を編んだあと、向かい合った目のなかに見た、揺らぐ欲望だった。
それは誤解のはずで、あの戸惑いに燻っていた熱はすっかり冷めて、沈黙していたはずだった。モノトーンの灰を被り、記憶の底に沈んで、なかったことになっていたはずだった。
だが、彼女の柔らかな吐息によって、たやすく灰は吹き飛び、なかから火の粉がぱっと散った。
目を刺す黄金の夕暮れと、それを写すとろりとした瞳の熱。
胸のなかでは、小さな炎の舌がちろちろと踊り始めた。
いつまでも眠れぬベッドの中で、梨生は浅い呼吸を繰り返した。
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