34. 青天の霹靂、飛び込むの運命


 数週間ぶりに顔を合わせた千結は、いつになく疲れが顔に表れていた。


 仕事帰りに二人きりで外食することが習慣化してから随分経ち、こうも会えないのは珍しくて梨生は何度か誘いをかけていたけれど、千結の関わっていたシステムのリリース直前だとかでどうしても終電間際で帰る日々が続いているらしく、夕食を共にするのも難儀していた。

 やっと彼女の仕事がひと段落したため今夜会うことになっていたが、待ち合わせの数時間前に「ごめん、仕事でトラブルがあって遅れる。20時には絶対行くから、どこかで時間つぶしてて」と連絡があり、20時を15分ほど過ぎた頃、千結は珍しく慌てた様子でお店へ駆け込んできた。外は上着なしには肌寒いほどなのに、オータムコートを腕にかけ、ずっと走ってきたのか額には汗が浮かんでいる。


「ほんとにごめん、梨生。お待たせ」


 普段と比べて明らかにくたびれた千結の様子に、梨生は思わず目を瞠った。


「――ううん。ちーちゃんおつかれさま。とりあえず、座って飲み物頼みなよ。ごはんは少し頼んであるけど、ちーちゃんが食べたいものどんどん注文しちゃいな」

「うん。……だめだ、今日はビール頼む」


 くずおれるように椅子へ身を預けた千結は、メニューを一瞥してすぐドリンクを決めた。届いたビールジョッキを梨生のグラスとかち合わせて、それを傾ける様は、まるで喉の乾ききった旅人が数日ぶりに水へ飛びつくようだった。いっそ惚れ惚れするくらいの勢いに梨生は「いい飲みっぷり」と感嘆の声を上げた。千結はほとんど中身の失くなったジョッキをごとんと卓上へ置き、気怠げに口元を拭う。


「労働の辛さが骨に沁みてから、ビールの良さがわかるようになった……」

「それは……大人の階段登ったね。ほんとにおつかれ」


 千結の話を聞いている限り、勤続三年目にしてばりばりと働き、チームのなかでも頼りにされているようだ。梨生の職場はほとんど定時退社が当たり前のため、千結の働き方は別世界みたいに感じる。昔から「面倒くさい」が口癖でもあった彼女が、まさかこんな風に働くなんて、なんというか意外でもあった。


 すぐに運ばれてきた、鯛とタコのカルパッチョやミートボールのトマト煮込みなどを千結のために取り分けてやりながら、梨生は訊く。


「今日も仕事で何かあったの?」


 盛大にため息をついて千結は、


「客先で稼働させたシステムが、原因わかんないエラー吐いちゃって……」

「ふむ、なんか大変そう」

「とりあえずバグ――コードの書き間違いがあるはずってことで、メンバー総出で原因を探してた」

「原因、見つかったの?」


 彼女は「うん」と頷いてから、見る間に顔をしかめ、


「でも、その原因が……またこいつか……! っていう人でね……!」

「ああ、うん。あるよね、そういうこと」


 苦笑いする梨生に、千結は力なく頭を振る。


「本人に気をつける気があるんならいいの、ゆるす。腹は立つけど、ゆるす」

「うん。その人は……その気がない?」

「そう。――たとえばね、そいつの書くコード、他人に読ませる気ないでしょってくらい、わかりにくくて。ちゃんとメソッド分けてください、ってずっとお願いしてるのに、いつまでもだらだら長いコード書くわ、名前の付け方はセンスなくてわかりづらいわ、せめて説明のコメント残せ、って言い続けてるのに、何も書かないわ……」

「――ふむ」


 正直、千結の言うことはちんぷんかんぷんだが、頷いておく。こういうときは本人の内に溜まった毒素が口から流れ出るままにしておいたほうがいい。


「あのおっさん、自分のやり方が正しいと思い込んでて、何か指摘しようものならとんでもなく機嫌悪くなるし。こっちがどれだけ気を回して、言い方考えてると思ってんの。おまえの進捗の遅れ、どれだけ周りが巻き取ってきたと思ってんのっていう……」

「厄介そう」


 短く合いの手を入れた梨生に向かって重々しく首肯し、それから千結は頭を抱えた。


「今日もね、エラーの原因はどうやらそのおっさんの担当してた箇所だぞってわかって、定時過ぎても皆で頑張って原因箇所を特定しようとしてるのに、ふと気付いたらあいつ、芸能人のしょーもないスキャンダルのネット記事見てるんだよ……! こっちは梨生待たせて、必死でコード解析してるっていうのに……!」


 フォークを握りしめ、彼女は歯の間から声を絞り出した。梨生の同情に満ちた目にはっと我に返った千結は、


「ごめん、愚痴ばっか言って……」


とうな垂れた。こんなにも弱々しい彼女はなかなかお目にかかれない。梨生は微笑み、手を千結の頭へ伸ばした。


「ううん、よくわかんないけど、ちーちゃんがすごーく頑張ってるのはわかった。ヨシヨシ、えらいえらい」


 頭を無造作にかき混ぜられながら、千結は上目遣いで訴える。


「私には今、100万回のえらいえらいが必要」

「わたしの手首が腱鞘炎になりかねないから、ここらへんでやめとくね。そのおっさんにやらせたら?」

「あいつが私に腕を伸ばした瞬間、セクハラで訴訟」


 二人で笑い、皿へフォークを伸ばす。料理の感想を言い合っていたところ、ふと千結は思い出したように、


「そういえば、中学のときのタカイって覚えてる?」

「ああ、うん。ちーちゃんの――元カレ」


 梨生がにやりとして言うと、「あれはカウントしないで」と千結はため息をついた。そして魚介のクリームパスタをフォークへ絡めつつ、


「今タカイと働いてる。会社は違うけど、タカイ、同じプロジェクトでうちに出向してるから。バグの場所特定したのもあいつ」

「そうなんだ。タカイくん、成人式のときはなんか面白い感じに仕上がってるみたいだったけど」

「なにそれ」

「よく覚えてないけど。変わってない?」


 パスタを口に含みながら千結はうんざりした表情になる。


「相変わらず性格悪い。けどまあその性格の悪さが仕事には役立ってるかな。ねちねちしつこくミス見つけるし」

「ふーん……相変わらず、かっこいい感じなの?」

「え、わかんない。相変わらずなの?」


 きょとんとして問われ、梨生も首をひねる。


「わかんないけど、中学のときはそんな風に言われてたから」

「どーなんだろ。でも確かに女子社員はもてはやしてるかな」


 何でもなさそうに言い、彼女は新しく注文したワイングラスを傾けた。少し気になって、梨生はそっと聞く。


「ちーちゃんは、大丈夫なの?」

「なにが?」

「前みたいに、タカイくんに言い寄られたりして、なんか会社で気まずい感じになったりとか……」


 千結は小さく笑った。


「そんなのないし、あったとしてももっとうまくやるよ。もう中学生じゃないんだし」

「そっか」


 ちーちゃん大人みたいだ、当たり前だけど、と梨生は思った。

 会社員として精力的に働き、異性からのアプローチなんてどうとでも処理する、と一笑に付してみせる。

 なんだか遠いものを見るような、切ない気持ちに梨生の心臓はきゅっと縮んだ。


「心配?」


 そう言って、千結は悪戯っぽく口角を引き上げた。そこには、同性でも思いがけずどきりとする面妖な色気があった。キャンドルが主な光源の薄暗い店内でその微かな微笑みが作る陰影は、なにか抗いがたい魅力がある。

 昔に比べてごく自然なボディタッチも増えたように思うし、やっぱり彼女も年齢を重ねて、そういう振る舞いに慣れたのだろう。


「あー……うん」と苦笑混じりに返答しながら、梨生は胸の裡で思う。

 ――それはそうだ。こんなに綺麗な子なんだから、周りも放っておかないはずだ。

 彼女もそう遠くないうち、いつか結婚してしまうだろう。そして自分はそれをそばで見続けるのだろう。それならば、少しでも目を逸らせるものを自分も持っていたほうがいいはずだ。


 そっと息をついて、梨生は口を開く。


「わたしさ、最近婚活始めたんだ」

「え……なんで」


 あまりに唐突な話題に面食らった千結は目を丸くしている。梨生は唇を緩めて答える。


「みきが結婚したじゃん。石油国は脱炭素化でどんどん貧乏になってくだろうから、フツーの日本の会社員でいいわー、とか言って。あのみきが赤ちゃん抱っこして、幸せそうにふんわり笑ってる写真とか見てると、あーいいなって。みき以外も結構周りで婚約したりとか聞くようになったし」

「婚活って――何してるの?」

「んーとね、アプリ。ほら、サキちゃんもここで彼氏見つけたって言ってたやつ。連絡とるの面倒だけど、ときどき趣味合う人なんかもいるし、意外と苦痛じゃないかもって思い始めたところ」

「……そうなんだ」


 ひっそりと顔をうつむけた千結の様子に、引かれたかな、と梨生はやや気まずい思いを抱く。

 すると、ぱっと顔を上げて千結ははっきりと述べた。


「私ね、家出たいと思ってたんだ、もう25だし」

「へえ! そうなんだ、ちーちゃんが」


 梨生は目を大きくして、感慨深く応じた。千結は頷き、それからひと息に言った。


「でも私、料理とかできないじゃん、梨生教えてよ、ていうか一緒に住まない?」

「教え――」


 教えるほどの技術は持ち合わせていないが構わない、そう答えようとして、最後に差し込まれた言葉の意味を掴み損ね、「ん、住む??」と梨生はそれをおうむ返しに言った。千結は身を乗り出してゆっくり口を開く。


「どこかで、一緒に部屋借りてさ」


 テーブルの上へ置いていた梨生の両手が、ただならぬ目力を発揮した千結に掴まれた。その瞬間、卓上のスマートフォンが「ヴ」と一度震えた。おそらく婚活アプリでやりとりしている男性からメッセージの返信があったのだろう。スマートフォンへちらりと目線を投げた梨生の手を、再び千結が強く握る。瞳は、それ以上の力強さ。

 気圧されて、梨生は思いがけず言葉を飲み込んだ。黙った彼女に構わず、千結は続けた。


「そしたら、広い部屋でも家賃安く済むだろうし」

「――あ、うん。そう、だろうけど……うーん……?」

「二人だったら生活費も安く収まるし、うちの親心配性だけど、梨生と暮らすんなら安心させられるから」


 眼前の彼女は、いつになく切羽詰まった顔つきで、断ればそれこそ絶交しかねない圧を放っている。


「そう……だねえ……」


 曖昧な返答でお茶を濁そうとした梨生へ畳み掛けるかのごとく、千結は、


「今の梨生の家の近くでもいいし、もっと通勤しやすいところがあるならそこで」

「それは……別にいいんだけど……」


 握られた手をさりげなくそっと引こうとしても、ぎゅうと握って彼女は逃してくれない。向かい合う彼女は食い入るようにこちらを見つめてくる。生半可なはぐらかしでは、この場を許してくれそうにない。


「もし……もし、梨生にいい人ができて、その人と一緒に暮らしたいって思ったら、そのときは――すぐ、私引っ越すから」


 キャンドルの炎と共に、薄い色素の瞳が頼りなく揺らいだ。

 ……そんな心細そうな顔をしないでほしい。

 

 梨生は肩から力を抜いた。そしてつばを飲み込んで、ようよう言葉を絞り出す。


「じゃあ……ちょっとだけ……お家探してみる? いいところ見つからなかったら――」

「見つけるから大丈夫!」


 食い気味で言い放った彼女に、つい苦笑がこぼれた。


 ――そう、大丈夫だ、わたしとちーちゃんは友達なのだから。

 独り立ちしたいという友人を助けるのは、友人の務めでもある。大丈夫、わたしはよき友人だ。この数年、彼女とはちゃんといい友人関係を保ってきた。

 二人暮らしを通じて、大丈夫だということを証明できるはずだ。同じ家に暮らせばきっと、四六時中一緒にいた小学生の頃みたいになれるに違いない。

 それに、忙しそうな彼女の私生活を、料理や家事の面からも手助けできるだろう。これは、すごく素敵な“友達”なのではないか。


「じゃあ、どの沿線のそばがいいとか、予算とか、擦り合わせよう」


 早速手帳とペンをいそいそと取り出した千結をぼんやり見ながら、梨生は繰り返し自分に言い聞かせていた。


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