#33. アイドルも拉麵すすれば洟は出ますか、ビール飲みたくなりますか?


「あ、シンクに置いといてくれればいいから」

「いいって〜、洗う洗う」

「ホンダは食べる専門だったから、最後くらい洗わせておけばいいよ」

「アワたんもどうせたいして料理手伝えてないでしょ。はい、アワたんは水で流す係ね〜」


 むっとするけれど、本当のことなので黙って立ち上がる。梨生は自身も食器を重ねながら微笑む。


「ありがとね、二人とも」


 梨生は働きだしてからすぐ、都心にアパートを借りた。私たちはときどき週末に彼女の家へ集まってご飯を食べ、お酒を飲んで泊まる。数駅だけ離れた場所にホンダも部屋を借りているから、二人は気軽にお互いの家へ行き来しているらしい。ずるい。と羨ましがる私に折れるかたちで、このお泊まり会は定期開催になった。

 昨夜は鍋をみんなで囲んだ。私は鍋の準備を手伝おうと試みたけれど、なにぶん料理スキルが皆無のため、食器を出したり、まな板や包丁を洗ったりするぐらいしかできなかった。仕事が長引いて参加の遅れたホンダは、折りよく出来上がった鍋をおおいに食べ尽くした。今回も梨生はほとんどお酒には手をつけず、甲斐甲斐しく鍋を取り分けていた。


「おやすみー」


 声をかけ合い、電気を消して布団に入る。私とホンダは一枚の布団を分けあって眠る。ホンダは寝相があまりよくない。ほどなくして、二人分の寝息が聞こえてくる。彼女たちは寝つきがとてもいい。

 複数の寝息が聞こえるなか、自分だけが意識を保っているのを自覚すると、ますます眠れなくなる。暗闇に包まれて、この人たちは、体はここにあっても意識はどこか遠くの見えない場所にあるんだと考えれば考えるほど、私だけが置いていかれたような、すごく孤独な気分になってしまう。

 消灯された天井を見つめる。

 三人で集まるのが当たり前になってずいぶん経った。この関係性がすごく心地いいのは事実。――だけど、もどかしいのも事実。それでもやっぱり、この関係が壊れるのは怖い。


 そんなことを考えているうち、眠りに落ちていた。



 布団のなかから暖かさが減った気がして目が覚めた。カーテンの隙間から、まだ弱々しい朝の光がわずかに部屋へ射している。隣へ頭を向けたけれどホンダはいなくて、部屋の隅で小さく衣擦れの音がする。


「――ホンダ」


 その背中へ声をかける。振り向いた彼女はばつが悪そうな顔を浮かべた。


「ごめん、起こしちゃった?」


 配慮された小さな囁き声が、夜と朝の境目へほのかに溶ける。


「ううん。もう帰るの?」

「うん、お昼から彼氏と会うことになったから、いったん家帰ろうと思って」

「そ。出てったら私、玄関の鍵閉めとく」

「ありがと〜」


 コートのボタンを留めながら、彼女はにこりとした。あくびをして、ホンダの後ろを玄関まで歩く。冬の朝はやっぱり格段に寒くて、フローリングを踏みしめる裸足が冷たい。


「じゃあね、気をつけて」

「うん。――アワたん、私さあ」


 玄関で靴を履き終えたホンダが振り向いた。


「再来月から大阪支店配属になったんだ〜」


 いつもと変わらない笑顔で彼女は言った。


「――うそ。……どれくらいの期間か決まってるの?」

「う〜ん。ま、2年はあっちなのかなあ」

「……そっか」

「うん、だからさ」


 彼女は優しく目尻を緩めた。


「ドゥのこと、がんばりなよ〜」

「……」


 手を振ってドアを開け、彼女はうっすら明るい夜明けの向こうへ足を踏み出した。ドアがそっと閉じられて、こっち側はまた暗くなる。鍵をひねって施錠する。

 物音を立てないよう部屋に帰り、布団へ潜り込んだ。温かい。梨生の眠るベッドのほうへ寝返りをうつ。彼女もこちらへ横向きになっていたから、薄暗いなかでもその顔がよく見えた。


 ホンダと会えなくなるのは寂しい。彼女とは、なんのかんのと中学の頃から付き合いが続いている。無愛想な私を突き放すことなく、ずっと面倒見のよい友達でいてくれた。梨生との間に立って色々としてきてくれたこと、してくれていることを思うと、ホンダには返しきれない恩がある。

 ……でもその寂しさとは別に、まったく身勝手なことには、ホンダがいなくても梨生は変わらず私と会ってくれるだろうか、という不安がじわりと胸を覆う。


 すやすやと眠る梨生は、なんの心配もなさそうに穏やかな顔をしている。手を伸ばせば触れられる距離にいる。

 ホンダのおかげで、梨生とはいい友人関係に戻れたと思う。ホンダを含めた三人で、すごく均衡が取れている。一歩でも踏み出せば、その均衡は崩れてしまうんじゃないかと、怖くなるほどに。

 だから、私は腕を伸ばさずに、再び目を閉じた。



 #


 ホンダが大阪へ引っ越すのと前後して、私の仕事が忙しくなってしまった。週末にゆっくり会えるほどの時間はないなか、これで梨生と会う習慣が途絶えるのは避けたかったから、何度か仕事終わりの食事に誘った。彼女は特に気負った様子もなく快諾してくれて、私はほっとする。

 食事に誘う口実としては、“一人では外食ができないから”ということにしている。

 でも、本当のところでは、食べたいものを食べたいときに、自分でお金を出してお店で食べることに関して、何を恥じたり気まずさを感じたりする必要があるというのだろう、と思っている。私は一人だろうとどこへでも食べに行く。

 それでも、都合のいい梨生の呼び出し理由がない今、私は『一人では外食臆する系』の皮を被っている。


 ただ今日の食事は、珍しく梨生のほうから誘いがあった。

『仕事、まだ忙しい? 最近会えてないから、ごはんでも一緒に食べない? ちーちゃんの職場の近くで、気になるラーメン屋もあるし』と言って。――このメッセージを読んだときの私の喜びは、伝えようがない。

 絶対に19時までに退社する、ということを前もって周りに伝えていた結果、梨生との待ち合わせ時間には無事間に合った。スキップさえ刻みそうな浮かれた気持ちをなんとか落ち着けて、梨生と落ち合った。


「ちーちゃんおつかれさま」

「おつかれさま、梨生」

「仕事あがって大丈夫だった?」

「うん」


 明日、巻き返しをはかるつもり。それにしても、梨生のオフィスカジュアルな格好が気になる。すらりとした脚に、パンツスタイルがよく似合う。


「えーと、この道をこのまま行って……あ、あれだ」


 スマートフォンで店の場所を確認していた梨生が指差した先を見て、私は一瞬固まった。梨生は店の外にはみ出た客たちの列を見て、申し訳なさそうに言う。


「わ、やっぱ並んでるね。どっか別のところでも全然いいんだけど、どーする?」

「待つ」


 ここのラーメン屋、席数が意外と多いし、回転早いから。そう思ったけれど、口には出さない。ここにはランチでよく来る。ランチどころか退社後に寄ることもある。ようは行きつけと言っていい場所だけど、梨生に対しては「私は一人では外食できない」ということにしてあるので黙っていた。


 並んでいる間に、入店したらすぐさま注文ができるようメニューを渡された。今さら確認しなくても、どんな品があるかも、自分が何を食べたいかもわかっている。メニューを確認する振りをして、隣の梨生へ視線だけを向ける。何かを考え込むときの彼女の癖で、わずかに口がすぼまっている。少しだけ切った髪、よく似合ってるな、と思う。私も切ったけれど、どうせ梨生は気付かないんだろうな、最近はずっとロングにしてるし。


「よし、決めた」


 満足げに口角を引き上げてそう言った彼女から、素早く目を逸らす。梨生がこちらへ顔を向け、


「あれ、ちーちゃん髪切った?」


 気付くの遅い、と思う。私は会ってすぐ気付いたのに。

 でも、嬉しい。


「――うん」

「前髪つくったんだね。昔みたい」

「……子どもっぽいかな」

「ううん、可愛い」


 最近までの私は可愛くなかったのか、というのと、今現在可愛いと思ってもらえてるならいいか、と迷った顔面が結局、仏頂面のままになる。

 こんなとき、咄嗟に素直な笑顔を浮かべられたらいいのに。


「梨生も切ったね、似合う。ラーメンどれにするの?」


 恥ずかしいから早口で言い切って、話題を変える。ああ、なんて可愛くないんだろう。


「えっとね、味噌ラーメン。ちーちゃんは?」


 あ、それ梨生には結構辛いかも、と言いかけて、私がこのお店を知り尽くしていることがバレたくなくて言葉を飲み込んだ。私も当初それを頼もうと思っていたものの、


「――私は塩ラーメンかな」


念のため、マイルドなものに変えておく。

 外で立ち尽くして待つのは寒いけれど、あと数人で私たちも入店できる。息を吸い込んで吐いた途端、白くなって宙に消えた。まだまだ春は遠そうだ。


「ごめんね、並ぶことになっちゃって。ちーちゃん寒くない?」


 健康優良児な梨生は、昔から体温が高くて寒さにも強い。


「大丈夫――」


と答えてから、ふと思いついて、「こうすれば」と言い足し、梨生の腕に自分のそれを絡ませてぴったりくっつく。梨生は小さく微笑み返して泰然としている。

 “友達”だからこんなことをしてもいいはず、という私の振る舞いは、きちんと“友達”としてごく自然に受け容れられる。思惑に沿った反応なのに、私の胸はかすかに痛む。


 ただの欲望を、姑息な打算で自分に理由を与え、梨生に対しては“友達だから”という建前でくるみ、実行する。ただの“友人”に留まりたくない、と願いながら、“友人”であることを担保にして、その場限りの下心をいっとき満たしている。

 こんなことを何度も繰り返すうち、このぐちゃぐちゃに絡まった行為を、梨生はますます“友達”として当たり前みたいに流すようになっていく。



「ぃらっしゃっせ〜」


 やっと通された店内は、麺をゆがく湯気で心地よく暖まっていた。テーブル席へ案内される私を、調理場にいる店員が不思議そうに見てきた。いつも一人で来店するのに、今日は連れがいるのを意外に思っているんだろう。通り過ぎざま、余計なこと言うなよ、という警告を込めて目で威嚇しておく。

 私たちはすぐ注文を終え、水をコップへ注いで飲んだ。梨生は感心したように、


「へ〜。外から見るより、だいぶ店内は広いんだね」

「うん」


 きょろきょろと興味深げに見回す彼女が可愛らしい。


「梨生、ビールとか頼む?」

「ううん、いいや。明日も仕事だし」


 小さくかぶりを振ってから彼女は笑って、


「ちーちゃんって結構お酒好きだよね」

「そんなことない」


 お酒なんて、だいたいは甘ったるいか、苦いだけだと感じている。


「でもいつも勧めてくるじゃん」

「――うん。一応」

「ごめんね、わたしが付き合えなくて。飲みたかったら、ちーちゃん飲んでいいから」


 梨生を酔わせたいから、なんて言えるわけない。あの夏の日、すごく甘えてきた梨生が嬉しくて、何度もチャンスを狙っているけど、彼女は頑なに自分の酒量を守っている。

 せめて自分がもっと酒に弱かったなら、アルコールの力を借りてずいぶん素直になれるのかもしれないのに。

 手癖で肩のあたりの髪に触れ、束にしかけて手を下ろす。ため息をついた私を見て、梨生は心配そうに眉を下げた。


「やっぱ仕事大変?」

「ううん、もう慣れたし。課長がおそろしく仕事できない以外は不満ない」

「勤務二年目にしてずっと残業だもんね。慣れても疲れるよ。今日はありがとね、時間作ってくれて」


 彼女は人懐っこく笑みを浮かべた。

 ――『ううん、可愛い』。

 梨生の言葉を、さっきから頭の中で反芻している。

 最近梨生は、なんでもないことのように簡単に私のことを「可愛い」と言う。嬉しいけど、照れもせず口にされるそれは、なんだか重みがない。それは、友人同士の距離感で口にされる、挨拶やグルーミングのようなものだ。私が素直に彼女へ可愛いと伝えられないのとは違って、梨生はなんら葛藤も抱えていないように見える。

 ここ数年はずっと、私たちは“よき友人”だ。会わなかった期間のことを思えば、気楽な友人関係に戻れたのはとてつもなくいいことだとは思う。

 ――でも、それ以上を望んでしまうのは、いけないのだろうか。



「お待たせしました〜っ! こちら味噌ラーメンと、麺固め・味普通・油少なめ・海苔と味玉トッピングの塩ラーメンですね〜」


 食べ始めてまもなく、梨生はラーメンの意外な辛さに案の定苦戦していた。新陳代謝がいい彼女の頬は赤く染まり、上着を脱ぎ去った首筋の上をつ、と汗が滴り落ちている。噴き出す額の汗を拭い、彼女はコップの水をごくごくと飲み干す。


「――梨生、それ辛い?」

「う、ん。美味しいけど、だいぶ辛い……」


 汗だくで涙目の頼りない表情を見て、胸が詰まりほんの一瞬迷ったけれど、


「塩ラーメン、辛くないよ。交換する?」

「え……ほんと? めちゃくちゃ助かるかもしれない……。けど、これ結構辛いよ、ちーちゃん大丈夫?」

「いいよ。辛いの食べたい気分だし」


 塩ラーメンの器を梨生のほうへ押し出すや、彼女はますます眉を下げて、


「ありがとちーちゃん〜っ。正直舌がもうヒリヒリして闘いの域に入ってたあ」


 梨生は涙を拭き、洟をかみ、交換した塩ラーメンに箸をつけてしばらくすると、


「み、味覚が戻ってきた。安心の塩。美味しい」


と嬉しそうに麺をすすっていた。それを見ながら頬が緩むけど、でも一方で、汗をかいてる梨生もよかったな……と惜しくなるのは止められない。


「ちーちゃん、味噌の辛さ大丈夫?」

「大丈夫。美味しい」

「ちーちゃん全然汗かいてないもんね。わたしもう岩盤浴一回分は汗かいたよ」


 彼女は白い歯を見せ、あどけなく笑う。


 その笑顔を見せつけられると、友達としてそばにいられるなら、それもいいか、と私は思ってしまう。


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