13. やつらも人間になり始める年頃だ
夏祭り当日、昼ごはんのそうめんをすすっていたら、テレビを見ていた母親が言う。
「せっかくお祭り行くんなら、浴衣着てったら。お姉ちゃんの綺麗なのあるよ」
「えーいいよお。めんどくさい」
「せっかくなのに。今だけよ、浴衣着るだけでちやほやされるの」
「うるさいなあ。浴衣着ても着なくても、ずっとお母さんがちやほやしてくれたらいいじゃん」
付け合わせのナスの素揚げを口に放り込み、錦糸卵とキムチをお供にずるずるとそうめんをすすりながら言う梨生に振り返って、母親はにやりと唇を歪めた。そしてソファから立ち上がって、
「あーっ本当に梨生はいつまでも可愛い。毎日無駄飯をたらふく食べてこんなに大きくなって、口もちゃーんと達者になって」
わしゃわしゃと愛娘の頭を撫でくりまわした。梨生は今年の春から夏にかけてぐんぐん背が伸びた。食欲は
「お母さんのご飯が美味しいので食べ過ぎちゃうんですう」
「そ。お粗末さまでした」
「ごちそーさま〜、夜ご飯いらないからね」
「10時までには帰ってきなさいよ」
皆、浴衣を着てくるだろうか。自室に入ると、やっぱり浴衣を着ようかなという気持ちがもたげて、でも面倒だし、と思い直してクローゼットの前で佇む。普段着なら、適当なTシャツとかじゃないほうがいいよね。……あーでもあんまり気合い入りすぎた格好だとそれも恥ずかしいし、うーいっそ浴衣のほうが楽なのか、お母さんに着付け頼もうかな、でも今さら頼んだらまたあれこれ言われるんだろうな……などと延々悩んでいる間に、浴衣を着る時間なんてなくなって、普段よりは少しめかした、でも気合い入りすぎダッサ、と思われないラインの服を慌てて選んで家を飛び出し自転車に飛び乗った。ペダルを踏み込んでから、あ、ちーちゃんと一緒に行く約束すればよかった、と気づいた。
ぎゅうぎゅうの駐輪場になんとか自転車を駐め、待ち合わせ場所のスーパーマーケットの前へ行けば、すでに数人の友人が集まっていた。
「あ、皆浴衣着てるー可愛いー」
「梨生、色気ねー」
「やる気あんのか」
「だってめんどいじゃんねえ。皆偉い偉い、頑張ってて」
「なにそのヨユー。彼氏持ちの女の態度じゃん」
「いたらこんな女だらけでお祭り来ないし」
「それな」
「ほんそれ」
早くも灯された提灯の明かりや、祭りの気配にざわめく人々の喧騒に囲まれて、華やかな浴衣姿の女の子たちはいつにも増してうるさかった。徐々に人数は揃い出して、あとは千結を待つのみとなった。
「ごめん、遅れた」
と鈴を転がすような声がして、振り返るとはたしてそこには、浴衣に身を包んだ千結 a.k.a 美少女、がいた。一瞬全員言葉をなくして、それから一斉にしゃべりだす。
「アワタ……そりゃあないよ、反則だよ」
「美少女は満を持してやってくるねー
「あーはいはい優勝、かいさーん」
「お母さんが着付けてくれたこの浴衣、ボロ切れに見えてきた、お母さんごめん。て思ったけど、むしろお母さんの血のせいじゃんね、お母さーん、恨むぅ〜〜」
「何の撮影ですかって話だよ、横並びたくねー」
千結の隣にいたクンちゃんが嫌そうな顔をして離れると、千結はむすっとして、
「なんでよ、並ぶし」
とクンちゃんを追いかけるので、彼女は、
「やだやだ、梨生、アワタの隣はお前と決まっている」
ぐい、と梨生の肩を掴んで千結の隣へ押し込んだ。
「じゃー行こ」と動き出した集団に付いて歩き出して、梨生は千結へ挨拶するタイミングをなんとなく失ってしまった。
自分だって千結の横に並んでその圧倒的な差を感じるのは正直落ち込むけれど、浴衣を着ていない分、同じ土俵に立っているわけでもないのでそのダメージは少ないかもしれない。
視線を感じて横を見ると、千結がこちらを見上げていた。……なんだこれ、この子、すごく可愛い。久々にまともに顔を合わせた彼女は、浴衣効果も相まって眩しすぎた。梨生は目を細めてひと言挨拶する。
「やほ」
「……」
「ア、ワタ。サスガだね。カワウィーね」
苗字で呼びかけるのも、可愛いと素直に伝えるのもなぜか居心地が悪くて棒読みになる。千結は眉根を寄せた。何か口を開きかけて、「置いてくよー」という友人らの声に口を閉じた。
「ほら行こ」
なんとなく気詰まりを感じて、梨生は千結をなるべく見ないようにして足を早めた。
車道を封鎖して立ち並んでいる屋台の間をゆっくりと歩く。昼間はじっとりと暑く、じっとしているだけで汗が噴き出したが、日が暮れる頃には涼しい風が吹いて過ごしやすかった。
じゃがバタ、かき氷、ヨーヨー釣りに、お好み焼き、クレープ、射的。銘々好き勝手に屋台飯を食べたがっては足を止め、気まぐれにゲームへ挑戦しては小学生のときのように大笑いした。
焼き鳥にかぶりつきながら、みきが振り返って千結へしゃべりかける。
「そういえばアワタんとこ、大会だめだったん?」
「うん」
「こないだ学校で、たぶんコンクールの直後だと思うけど三年の先輩が大号泣してるの見たよ」
「へー。アワタも泣いた?」
「泣かないよ。もう練習飽きた」
「はは、相変わらず冷めてんなー」
それでも、運動部並みに練習がきついと聞くうちの吹奏楽部だから、熱血とかそういうのを毛嫌いする千結にしてはよく続いている。ピアノを弾く千結の姿を思い出して、ちーちゃんは音楽が好きなんだな、と梨生は思った。ぼうっとしていたら、前を行く友人たちといささか離れてしまった。はっとした瞬間、くい、と服の裾を引かれた気配に振り向くと、
「たこ焼き食べたい、付いて来て」
と千結が言う。慌てて前方のクンちゃんたちへ声を張り上げて、
「あっ、ねー! ち、アワタ、たこ焼き食べたいってー!」
だが、すでに人垣を挟んでしまった彼女らは、
「えー? じゃああとで合流ねー」
ひらひらと手を振って行ってしまった。
「たこ焼き屋さんどこ?」
「こっち」
「あ、戻るんだ……」
ひらりと方向転換する千結に付いて歩く。人混みのなか、前後でしばらく歩いていると、千結が立ち止まって梨生を振り返った。追いついて横に並ぶとまた彼女は歩き出した。
久しく近くで肩を並べることがなかったから、いつの間にか千結との身長差が広がっていて梨生は内心びっくりしていた。盗み見るようにして隣の千結へ視線を投げる。
藍と白の幾何学模様に紅が散る浴衣は落ち着きと品があって、けれど柔らかい杏色の七宝文様の帯は彼女の年齢に沿った無垢さを添えていた。いつもは下ろしている長い髪の毛も今夜は結い上げており、露わになった白い首筋はほっそりとして、うなじにかかる
そのとき、前方を見ないで走ってきた小さい子どもと千結がぶつかりそうになった。慌てて千結の腰を引き寄せたら、よろけた彼女は梨生の胸にぽすりと収まった。
「あ、ごめん、ぶつかりそうだったから」
梨生はパッと手を離し、急いで半歩遠のいた。
「……ううん」
小さく答えた千結のそばにいるのが居た堪れず、とりあえず目に入った屋台を指差して梨生は早口で言った。
「あ、焼きそば。食べたかったんだー買ってくるちょっとここで待ってて」
千結の返事も待たずに、梨生は焼きそばの列へ飛び込んだ。一人きりになって、顔をこするふりをして熱くなった頬を両手で覆う。
――やばい、なんであたし、あんな彼氏ヅラしちゃったんだ。なにもう怖い。百歩譲って引き寄せるのはいいとしても、そのあとの半歩離れる感じとかまじキモい、百歩譲られてもその半歩でマイナス1億歩だしキモい判定100点満点、恥ずかしさで叫び出したい。……いやでもだってちーちゃんすっごく可愛いからさあ。あんな美少女連れてたら、誰だって彼氏ぶりたくなるよね。そう、自然の摂理ってやつ。
……焼きそば購入の列へ並んでいる間に気持ちの整理はついた。のに、手持ち無沙汰な様子でどこか遠くへ視線を投げて自分を待っている100%美少女の千結の姿を見つけた瞬間、また恥ずかしさが胸に迫ってきた。
無事たこ焼きも手に入れ、二人して食べながら縁日を眺めて歩いた。すっかり太陽も落ちきって、夏の濃い闇のなかに、屋台の眩しいほどの光や提灯のぼんやりとした赤が浮かぶ。祭囃子の和太鼓、
クンちゃんに「今どこ?」とメールを送ったけれど、返信はない。小学生の頃なら気にも留めなかった千結との沈黙に妙にそわそわさせられる。
「あのさ」
口を開いた千結へ顔を向けると、まっすぐ見上げてくる。
「うん」
「りお、なんで今日"アワタ"って呼ぶの」
思いも寄らない話題に、梨生は言葉に詰まった。
「え、だって……ちー…、アワタ氏、名前好きじゃないって言ってるって聞いたから」
視線を外した千結はやや黙って、
「――りおに苗字で呼ばれるのは、なんか変な感じがする」
「……そう。じゃあやっぱ、これまで通りちーちゃんでいく」
拍子抜けしてしまった。ちーちゃんと呼んでいいんだ、という安心感と、自分だけがそれを許されている、という特別感に梨生の目尻は下がった。
そして、嬉しさのついでに、千結と手を繋ぎたいという欲求が自然と湧いた。それは下心とかではなくて、手を繋いで一体感を得たい、というような無邪気な衝動だった。昔はなんの躊躇もなく手を取っていたはずなのに、今それをするのは結構勇気がいる。
……あたしもちーちゃんも、今は食べ物で両手が塞がれてるから、そもそも手は繋げないんだけど。その状況にむしろほっとする。
呼び方問題は、自覚していたよりも大きな違和感だったようで、いったん解決してみれば、不自然なわだかまりが消え去ったように梨生の心は軽やかになっていた。『アワタ』というよく知らない美少女を前にして、いちいちどぎまぎしていたのが、よく見知った親友の『ちーちゃん』になって、心が安らぐ感覚だった。言葉少なであっても、さっきよりずっと気軽な心持ちで、千結と二人で出店の間をぶらぶら歩いていた。
すると、ふいに「粟田」と千結にかけられた声があった。三人で連れ立った男子のうち一人が一歩前に出て片手を挙げている。サッカー部の男子だった。千結はたいして表情も変えず、二言三言話すと、「じゃあ」と切り上げてそこを離れた。なんとなく話し足りなさそうな彼を横目に通り過ぎながら、あの男子、違うクラスだけどあたしも知ってる、と梨生は思った。学年のなかでも目立つタイプの男子だった。
小学生の悪ガキたちは気になる女子へ間違ったアプローチをしてきたけれど、中二ともなればやつらも人間になり始めて、きちんとしたコミュニケーションの仕方ってやつを学ぶだろう。
――もしかしたら。彼女の隣に今いるべきなのは、あたしじゃないのかも。
「……ごめん、ちーちゃん、もしかして誰か男の子と来たかった?」
「なんで」
真顔になって、眉間へわずかに力を込めた千結を見て、反射的に梨生はやや焦った。
「え、えーと、そういうお年頃かなあ? 的な」
もにょもにょと答えた梨生を無視して、千結は周りを見渡すとごみ箱に目を止め言った。
「ごみ箱あるから、さっさとそれ食べて」
そして梨生の持つ焼きそばを指差す。
「ん? なんで」
「いいから」
言われるがまま手に持つ焼きそばをすすって、パックを空にするや、
「これも食べて」
たこ焼きをつまようじで口元へ押し付けてくる。素直にパクつくと、飲み込む間もなく、千結は球体をひょい、ひょい、と次々に梨生の口へ運んでくる。
「ちょ、早い、早い」
口の中がたこ焼きでいっぱいになった梨生が思わず笑いながら抗議すると、千結も悪戯っぽく唇を綻ばせている。
焼きそばもたこ焼きもなぜか一気食いさせられた梨生が咀嚼している間に、千結は空になった二つのパックをごみ箱へ捨てに行った。帰ってきた千結に向かって梨生は歯を剥き、
「イー、青海苔ついてない?」
と念のため確認したら、千結は真顔で、
「ついてる、びっしり」
と答えたものだから、
「え、嘘」
と慌てた瞬間に、
「嘘っ」
と破顔した千結が、梨生の手をかっさらうようにして繋いだ。驚いた梨生の手を柔らかく握り直して千結が言う。
「来年は、ちゃんと浴衣着て来てね」
覗き込むようにして向けられたその屈託のない笑顔に、梨生の胸はどきりと跳ねた。
――こんな表情を見せられたら、男子はイチコロだ……。男子たちに同情するような、自慢したいような気持ちを抱えながら、梨生は声を絞り出す。
「ちーちゃん……いいオンナになったなあ……」
言われた千結は顔をしかめている。
「なにそのオジサンみたいな言い方」
「ちーちゃんは……いつの間にか小悪魔ちゃんになってしまった……」
「キモい、やめて」
相変わらず手は離さないまま、肩でどつかれる。
「ちーちゃんちっちゃくなっちゃったから、全然効かない」
「ちっちゃくなってないし。りおが無駄にでかくなっただけだし」
肩をぶつけ合う。ぶつけたそのまま離れることなく、肩を寄せ合って手を繋ぎ、夜店の提灯の間を二人はくすくす笑いながらゆっくり歩いた。
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