=//= 39. 胡蝶の翅の瞬き交わる夜、君に逢えたら
最初は、息苦しさだけがあった。
全てが不明瞭であるなか、うまく呼吸ができていないのだ、ということがわかった。それは単純に、どうやら口が何かで塞がっているためだった。普段は言葉を喋るか、ものを食べるかだけの機能を担っている器官が、今はもっと違うことに忙しくしているようだ。意思を持った何かが舌に絡みつき、引っ張ったり吸い付いたりするので、こちらも負けじと押し戻したり啜ったりして応戦していた。
それが息苦しさの要因と思われたが、より精確に述べるならば、胸を焦がす感情が身体中を支配しているから息をするのもやっとの状況、というのがいちばん適していると感じた。
自由になって新鮮な酸素を吸ってすぐ、ふたつの唇から漏れ出た熱の籠もった息がひとつに重なって湿度を増し、宙へ消えた。
間近な距離で見つめ合う二対の瞳はそれよりもずっと高い熱を孕んでいる。
暗闇に慣れたのか、視覚が機能し始めた。絡まるような視線がこちらに注がれている。
灯りの点いていない部屋のなか、膝をついたベッドが、ぎ、と小さく軋んだ。
見下ろす先には、寝巻きを着て仰向けに横たわった千結がいる。
その小さな顔の横へ無防備に投げられた両腕をちらと見て、ゆっくり覆いかぶさる。両手に指を絡める。氷のごとく冷たい指が、きゅ、と握り返してくる。
「ちーちゃん」
まるで自分のものではないような声が喉を震わせた。声質はよく知るものだが、そこに
気付いたときには、二人ともベッドの上に起き上がり抱き合っていた。汗にしっとりと濡れた素肌の胸が互いに押しつぶされる。いくら口付けを交わそうとも、満ち足りることがない。欠乏感を埋めようと唇を重ね合わせても、それは埋まるどころか、もっと、という焦りが募るばかりだった。
火照った首筋を汗がつ、と流れたのを感じる。
雪原を思わせる真っ白な肌。
その上を、太陽の寵愛の名残がある、いくらかトーンの暗い自分の手が滑ってゆく。
伝わるその感触はなぜだか懐かしく、そうするのがずっと以前から当たり前だったみたいな、もう幾度も彼女と肌を重ねていたのを今さら思い出したような感覚をもたらした。
次の場面では、膝の上に載せた彼女を片腕で支え、大きく開かせた脚の間にもう一方の手を伸ばしていた。いや増す水音の合間で、千結の押し殺した吐息が密やかに高まっていく。外側を触れるだけに留めていた指をゆっくりと中へ沈めた途端、彼女はまぶたを閉じて小さく鳴いた。
見たことのない表情に顔をひそめている彼女を見つめながら手を動かすうち、ふつふつと愛おしさが身体の奥から湧いてくる。こんな行為では充たせないくらい、この感情は大きく、強かった。自分という存在の器が融けて、自分が感情そのものになった錯覚すら覚えるほどに。肉体こそが不可欠なこの儀式において、いっそ肉体はないような感覚に陥った。
感覚器官から得るものだけが、己の実存を確認できる唯一の鍵だった。
千結の口から漏れ聞こえる吐息を聴き、ふたりの汗と体臭の混ざり合った甘ったるい匂いを嗅いだ。仄暗い室内でますます艶やかに光る彼女の
目の前で震える、ふんわりと稜線を描く雪山の頂上をほのかに染める桜色が綺麗で、誘われるままにそれへ唇をつけ口の中で転がすと、ますます指が切なく締めつけられた。
彼女のなかは、温かいというよりも溶けそうに熱いくらいだった。
「ちーちゃん」
無意識に呼びかけた声によって、千結の柔らかさや固さ、湿り気や熱さを味わう以外にも、舌には言葉を紡ぐ役割があったことを思い出す。
悩ましげに細められた瞳が、こちらを流し見る。
もっと。もっと。
「ちーちゃん」
彼女がぎゅっと目をつむる。全身を震わせながら、言葉にならない音ばかり奏でていた彼女の喉が息も絶え絶えに名前を呼んだ。
「りおっ――」
果てた千結の顔を見た瞬間、ぞくぞくとした悦びが自らの内側をいっぱいにし、霧散していたはずの肉体が輪郭を再び形づくった。
もっとこの顔を歪ませたい、といびつな感情がぴくりと動き、彼女のなかに入ったままの指先をくゆらせた。すると、いっそう彼女は眉を寄せ、苦しげに短く息を吐き、それから吹き飛びそうな意識を留まらせようとしたか、こちらにしがみつき肩に思い切り歯を突き立てた。
「――っ」
鮮烈な痛みが走ったが、それすらも快感に滲む。
茫漠としていく意識のなかで、どこからか耳鳴りのような音が届いてきた。それはだんだんと存在を増してゆき、やがて鋭い線形に響きを変えていった。
遠のいていく感触や熱さと入れ替わりに、聴覚だけがやけにはっきりとしていく。
耳鳴りみたいだと感じていたものは、ピーポーピーポーという緊急車両の音だと突然に理解した。
――梨生の視界が捉えたのは、見慣れた暗い天井だった。
どっどっどっどっどっ……布団のなかで、心臓が狂ったように暴れていた。
もちろん隣に千結がいるわけもなく。
「ゆ、夢だ……」
窓の外から救急車の音が鳴り響いていた。
混乱する脳が現実に適応するのを待ち、跳ねる心臓にじっと耐え忍ぶうち、その救急車は遠ざかっていったようだ。
傍らに置いていた携帯電話で時間を確認すれば、まだ未明だった。
梨生は枕へ顔を埋め、罪悪感に低く唸った。
――さいあく、ごめん、ちーちゃん、ごめん。こんな夢、勝手に見てごめん。
同じく、隣の部屋で千結も目を覚ましていた。
そして、千結は、悔しかった。それが現実ではなく、夢だったことが。
悔しさのあまり、涙が滲んだ。夢を終焉へ導いたサイレンの音を恨んだ。救急車が運ぶ人間について、邪魔したからには絶対に生きて健康になって家族や友達と会え、と呪った。
梨生がひとしきり自己嫌悪に浸り、眠れぬまま目をつむっていたら、熱く濡れそぼった肉が指を締め付ける感覚がふいに蘇った。思わず指先をこすり合わせてみても、それはやはり乾いている。……そんな確認をする自分がとんでもなく嫌だったし、一瞬それがぬめることを期待してしまったのもおそろしく恥ずかしかった。
何度も千結に呼びかけていた自分の声が頭にこびりついている。彼女を汚してしまった後ろめたさがじわじわと背中を這いのぼっていく。
夢の内容を脳がトレースしようとするのを必死に振り払う。
かたや、千結はその記憶を必死に追いかけていた。だが、所詮は朧ろな夢。先ほどまであんなにも生々しさを伴っていた光景は無情にも蒸発してゆく。
夢の中でしか得られなかった感覚よりも、現実で経験した感触はもっと明瞭に思い出せた。官能的な夢とはかけ離れた、ただ純粋に嬉しかった時間。
暗い映画館で、緩く合わさった指の付け根。ほんのりと温かい手のひら。
アクシデント的に繋いだ手を離したくない、と願っていたら、あの子はそれを解かずにいてくれた。映画が終わったとき、自然とその手は解いてしまったけれど、こちらも彼女も、そのことについて話さないまま家へ帰った。
あれに、ちゃんと意味はあったのかな。
彼女たちは、手を壁へ伸ばす。
壁の向こうで眠っているはずのあの子を思い浮かべながら。
――この指が、重なったらいいのに。
もちろん彼女たちの手は届くはずもなく、壁の内側で千結はため息つき、腕を下ろした。そして、むっすりと不満の鼻息を漏らした。夢のなかでは、梨生に触らせるばかりで自分は彼女を
――現実の私だったら、あんな風にされるがままなんてことは絶対にない。
だが一方で、あんな風に梨生から求められるのも、たとえようのない甘美さに充ちていた。
声を思い起こす。狂おしく千結を求めていた梨生の声を。
昔から淡く夢想していたものの確かな想像には至らなかった声の響きが、ついに聴けたのだ。……夢のなかではあったけれど。
サイレン音に断ち切られた夢の続きを妄想した。しかし、想像力には限界があった。
愛しい手指と重なることのない指は、行き場を失って彷徨い、やがて自らの疼く場所へ伸びた。
全てを忘れ去ってしまわないうちに、断片的な文字通りの“夢”を、反芻した。
交わした吐息を。この身体をためらいなく滑った手のひらを。隅々まで這い、味わい尽くしていた舌を。確信を持って届けられた瞳の熱を。
今、この身体を探るこの指は梨生のものだ、と千結は自らに宣言する。
『梨生』になって自分を愛すのだ。……ああ、でも、やっぱり梨生の身体も知りたい。
すでに見た夢を思い返しつつ、見られなかった夢の続きを妄想し、己の身体に触れた。どちらも幻想であり、同じくらい覚束ない。梨生となって自分へ情熱的な愛を注ぎたい気持ちと、彼女からの愛を自分自身として心ゆくまで感じたい気持ちの間でふたつの立場をたゆたううち、意識が混濁してゆく。梨生と自らの存在が融け合っていく恍惚感で、息が上がる。
「ちーちゃん」と、この身体を求める声の響きを繰り返し想起した。
幻影の梨生の全身を触り、ねぶって、
どちらでもなく、どちらでもあった。
そうして現実の世界で千結が絶頂に至ったとき、ぴんと伸びた脚がベッド脇の壁を蹴り、ゴンと鈍い音を立てた。
白濁する意識の隅でしっかりと千結は「やば」と思った。
目をつむっていた梨生は「あれ、ちーちゃん起きてるのかな」と動揺した。
ふたりは、息を詰めた。
「…………」
壁の向こうから物音がしないのを確認し終えた彼女たちは、そっと息をつく。
まだ夜明けまで、時間はある。もうしばらく眠れるだろう。
――もう一度、あの子に夢で逢えないかな。
彼女は、指先で触れた感触を思い描きながら眠りに落ちた。
彼女は、触れられた指先の熱さを思い描きながら眠りに落ちた。
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