27. 貴殿は猫ちゃんである


 夜の公園で会うのが二人の習慣となってからしばらくしたある日、ベンチに並んで座っていたとき、梨生は千結のコートの肩口で光る物を見つけた。ひょいとそれをつまみ、街灯の光にかざして見たそれは、


「動物の毛?」

「ああ――」


不思議そうにつぶやいた梨生の手から毛を取り、千結は息を吹きかけてそれを宙へ飛ばした。


「うち、猫いるから」

「えっ!?」


 冬の透き通った空気をびりりと震わせた梨生の驚き声に、千結も肩をびくりとさせた。


「嘘!」


 両肩をぐっと掴み、押し倒しかねない勢いで迫ってくる梨生に、


「う、そじゃない」


千結はなんとか答えた。


「いつから!?」

「今の家に引っ越したあと」

「わーっ写真、見せて!」

「いいけど」


 飼いだしたのはこのへんかな、とスマートフォンを差し出す千結へ身体を寄せ、梨生は顔を輝かせて次々と画面をスワイプさせている。そこには、ふわふわのぬいぐるみのような子猫が短い手足を伸ばして床を転がったり、頭に比して大きな耳をピンと立ててカメラへまん丸の瞳を向けたりした姿が写っている。


「可愛いね〜〜っ! わあ、これ! くーっ可愛いの権化〜っ。この妖精ちゃんのお名前は?」

「ぽんた」

「ぽんちゃん! ラブリーぽんちゃん、ラブぽん! めちゃキュート、キューぽん!」

「変なあだ名つけないで」

「ぽんちゃんは女の子? 男の子?」

「男の子」

「なんていう猫の種類なの?」

「わかんない。保護猫だから」

「ちーちゃんにもらわれてよかったねえ、ぽんちゃん」


 デレデレと顔全体をとろけさせている梨生に、千結はつぶやく。


「梨生、そんなに猫好きだったんだ」

「こんな可愛い生き物を嫌いな人類いる? そんなやつ、人類じゃないよ」


 雑と言う他ない断言に、千結は当然の疑問を投げる。


「じゃあなんで梨生は猫飼わないの?」

「……うちの父親が猫アレルギー持ちのうえに、なんと人類じゃないんだよ」

「お父さん、猫が好きじゃないってこと?」

「そう。不可解かつ理不尽だよね。そんな理不尽のおかげで、わたしはこんな素晴らしい生き物と暮らせないんだよ……」


 虚ろな目をさせていた梨生が、液晶画面へ顔を向けるなり「あ、これもキューぽんだぁ!」とすぐ満面の笑顔に戻る。そんな彼女を見ながら、千結はおずおずと切り出す。


「……うちに、ぽんた見に来る?」

「えっいいんですか!?」



 歓喜雀躍した梨生はしかし、それから少しの間、千結の予定が合わないだとかでお宅訪問をお預けにされていた。その代わり、子猫時代から今に至るまでのぽんた写真提供に伴うメッセージアプリ上での彼女とのやりとりは頻繁になっていた。

 鋭かった寒さが緩み、春の気配が空気の匂いや人々の振る舞いへ滲みだした頃、ようやく念願叶って梨生は粟田家へ訪れることを許された。


 週末、予備校の授業を終え、日暮れ前に落ち合った二人は千結の自宅へ向かう。彼女の家までの長い坂を二年ぶりに歩いていると、梨生の背中をいやな汗がじわりと滑り落ちた。何度も夢に見た道のりと――ああ、あの冷たい門扉が見えてくる。

 門扉が激しく閉じられる金属音とその残響、そして叫び声が、梨生の脳を揺らす。

 しかし今日、その門は彼女が通るのを待って千結の手でそっと閉じられた。いつの間にか浅くなっていた息を大きく吸って、玄関ポーチに立った梨生はことさら明るく言った。


「新しいちーちゃんち入るの初めて! 緊張する」

「親いないから、気楽にしてよ」


 玄関の扉を解錠しながら言った千結に、


「あ、そうなの? 手土産、持ってきたんだけどな」


片手の紙袋を掲げてみせると、


「二人で食べちゃお」


と彼女はどことなく悪戯っぽい笑みを返した。


 招かれて入った玄関の中は、他人の家の匂いがして、そして、


「ねこチャン!!!」

「“ぽんた”」

なまぽん〜!」


すでに梨生の携帯電話へ何枚も写真を保存されている、粟田家の猫、ぽんたがちょこんと鎮座ましましていた。


「わ〜ん、実物がいちばん可愛い!」


 こちらを認識するなり黄色い声を上げた梨生に当初驚き、ふわふわの茶色い毛を膨らませて横っ飛びしたぽんただったが、手を伸ばしてくる梨生へそろそろと歩み寄り、鼻を寄せてその匂いを確かめている。


「や〜ん、嗅いでくれてるよ、ぽんたがわたしを」

「さっさと靴脱いで上がって」

「はーい」


 廊下へ上がった梨生から再び少し離れ、ぽんたは様子を伺っているようだった。梨生がしゃがんで「ぽんちゃんぽんちゃん、キューぽんちゃん」と腕を伸ばすうち、彼はそっと近づいてきた。


「グッドボーイ、グッドボーイ」


 梨生はぽんたの頭を撫で、顎の下を撫で、腰を撫でた。するうち、彼もしゃがんだ彼女の周りを尻尾をまとわりつかせながらするすると回り、ときどき額をこすりつけた。


「ぽんた〜愛しいねえ」

「梨生、ずっと玄関でそうしてるつもり? 部屋行こ」

「うん。あ、お邪魔しまーす」

「いまさら」


 おざなりに粟田家訪問の挨拶を述べた彼女に、千結は唇を緩めた。


 二人と一匹が千結の部屋へ移動したあとも、用意されたお茶と手土産の饅頭にも手をつけないまま、猫用のおもちゃを使って梨生は飽きもせずぽんたと遊び続けた。

 すっかり打ち解けた様子の彼女とぽんたを眺めながら饅頭をつまんでいた千結が声をかける。


「ぽんたも慣れてきたみたいだし、抱っこしてみたら?」

「うん、でも……」


「猫の抱き方がいまいちわからない」と戸惑う梨生の前で、千結は飼い主ならではの無造作な仕草でいとも簡単にぽんたを抱き、「こう」と言ってぽんたを渡してきた。

 長い毛はふわふわと柔らかく、その体温は温かかった。

 涙ぐみさえしながら「愛しい……愛しい……」とつぶやき続ける梨生の腕のなかで、ぽんたも喉をごろごろと鳴らしている。


「ぽんたが懐くの、珍しい」

「え、そうなの?」

「初めての人の前にはあんまり出たがらないし」


 意外な事実を知った梨生は目を輝かせ、


「ほんと〜? ぽんた。さてはわたしのこと好きだな〜?」


顔を寄せて、ぽんたの冷たい鼻に自身の鼻もくっつけて笑った。彼はざらざらの舌で梨生の鼻を舐めた。


「はは、痛」


 梨生がくすくす笑っていたら、千結はぽんたをひょいと抱き上げ、ベッドの上へ移動した。その顔を見上げると、少しむっとしているようだった。


「あ、ごねんね、ぽんちゃん独り占めして。わりと動物から好かれるんだよね、わたし」


 梨生はベッドの足元まで這って、千結の膝上のぽんたを撫でた。千結はためらいがちに口を開く。


「そうじゃ……なくて」


 咳払いをした彼女は、目線を泳がせながら、


「ぽんたに構い続けるんじゃなくて、せっかく家に来たんだから、……私ともっと」


 最後に一瞬だけ梨生と目を合わせ、それからそっぽを向いて口元を覆うと、小さな小さな声で、


「……遊んでほしい」


とつぶやいた。


「えっ、な……? ち、ちーちゃん、可愛いこと言うね……? どうしたの……」

「……」


 あまりの愚直に率直な要望を受けて、梨生もしどろもどろになって訊くが、千結は視線を合わせてくれない。


「な、何して遊ぶ……? 猫じゃらしとか、ねずみのおもちゃならあるよ……」


 床から次々と猫用おもちゃを拾い上げて提案する梨生へ、千結もようやく顔を向けたものの、


「――ぽんたじゃないんだから」


と低く応える。


「そ、だよね……」


 今一度“遊ぶ”ということの定義を考えると、それはいったい何なのだろう、と梨生は悩んだ。二人はもう高校生だし、昔みたいにあやとりをしたり糸電話をしたりするような年齢ではもちろんない。女子高生なら多くの場合、街へ出かけて一緒に買い物をしたり、お腹がたぷたぷになるまでファミレスのドリンクバーで無為なおしゃべりに時間を費やしたり、一杯のドリンクや見栄えのするケーキひとつで何時間もカフェに居座ったりすることを“遊ぶ”と呼んでいるはずだ。

 今ここで、ちーちゃんと遊ぶなら一体何が適切でベストなのだろうか……と彼女は呆然と千結の隣へ腰掛けた。なんだかいい香りのする、よく片付いた千結の部屋を見渡し、女子高生が二人で行う最適な“遊び”とは――という答えのない問いの旅へ梨生が乗り出しかけたとき、


「……髪、編んでほしい。昔みたいに」


と千結がつぶやいた。


「――髪?」

「うん……落ち着く、から」


 彼女は目を逸らし、小さく頷いた。

 まるで出会ったばかりの頃みたいに、うつむきがちで内気な少女がいた。だから、自然とその頭の上へ片手を置いて、梨生は笑いかけていた。


「わかった」


 千結の両肩を掴んで、背中をこちらへ向けさせる。ベッドが控えめにきしんだ。

 窓から入る夕方の太陽の光が、艶やかな千結の頭髪を照らしていた。

 手櫛でその髪を梳く。随分と久しぶりに彼女の髪の毛へ指を通すが、その感触は変わらずなめらかだった。彼女の体温とシャンプーの香りがほのかに伝わってくる。昔よりもずっと短い髪だから、すぐに三つ編みはできてしまうだろう。梨生はゆっくりと丁寧に髪を編んでいく。

 長閑な時間に、ぽんたの尻尾も静かに揺れているのが千結の身体越しに見えた。

 ぺちゃくちゃしゃべっていなくとも、二人がまだ幼かった頃の穏やかな気持ちが梨生の胸を満たした。


「ちーちゃんの髪は、ほんとに綺麗だよね」

「――梨生は、長いほうが好き?」

「え? わたしは、別に……。ちーちゃんはどんな長さでも似合うと思うけど」


 今は肩くらいの長さの彼女の髪は、すぐに編み終わってしまう。終端を結ばずに作った三つ編みは、指先をかければすぐにほどけた。精巧で繊細な千結の絹糸のような髪が指先をくすぐり、流れた。

 懐かしい感触に梨生は目尻を緩め、その髪をほどいてはゆっくり編み直した。笑い混じりに梨生は言う。


「でも短いと、すぐに編めちゃって物足りないかも」

「じゃあ……また伸ばそっかな」


 傾いた西陽がいよいよ眩しく射し込む。

 まるであの頃の時間が指から流れ込んでくるようだった。まどろみと、静かな親密さが部屋に満ちていく。

 何も考えずとも手が覚えている三つ編みの動作を終えたら、編んだ髪の隙間へ指先をひっかけ、わずかに力をかける。すると、水が流れるようにするすると黒髪はほどけて流れる。何度もそれを繰り返す。


「でもこうしてほどくのも好きだから、たくさんほどけるぶん、短いのもいいかも」

「……」


 無言を返す彼女は、「どっちなの」とかすかに不満げな表情を浮かべているに違いなくて、梨生は笑い声を漏らす。

 こうやって顔を見ずに話していると、素直な気持ちをしゃべれる気がした。


「ね、ちーちゃん」

「……なに?」


 改めて今、二年の空白を経てその名を口に出して呼びかけていること、それを実感すると、その華奢な背中を抱きしめたくなった。それは純粋に、友達へ向ける穏やかな親愛による衝動からだった。それでも、梨生はおでこをそっと彼女の背中へ付けるに留める。


「また、ちーちゃんとこうしていられて、わたし、ほんとに嬉しいんだよ」


 ――あれから、かっこいいところは結局見せられていないけれど。それでもそばにいることをまた許してくれているのが、たまらなく嬉しかった。


 そのとき、階下で玄関の扉が開閉する音と、「ただいま」と言う女性の声がした。


「あ、ちーちゃんママ、帰ってきたみたいだね。挨拶しなきゃ」


 しんみりとした調子で打ち明けた自らの気持ちがにわかに恥ずかしくなって、梨生はベッドから立ち上がった。同様に立った千結の膝の上から、ぽんたもトンと床へ優雅に着地する。


 振り返った千結の片側の髪は、まだ三つ編みになったままだったから、梨生はふっと微笑んで、彼女の正面から手を差し入れてそれを解いた。

 するりと指のあいだを流れていく髪から視線を上げると、千結と目が合った。今は身長が同じくらいであるため、真正面から視線がかち合う。

 夕暮れの蜂蜜色が、彼女の濡れた瞳を輝かせていた。

 梨生ははっとする。次いで、ごくりとつばを飲み込んだ。その潤んだ瞳に熱の気配を感じたからだ。


「……」


 さっきまで少女時代の安らいだ気持ちでいたのに、親友の目の中にありもしない淫靡な熱を読み取ってしまう自身に、背徳感と嫌悪感を梨生は覚えた。

 思わず彼女から目を逸らし、


「あ」


視線の先の本棚に、梨生はあるものを見つけた。赤く分厚い本に、太い黒字で書かれた大学名と学部。大学受験用の入試問題集だった。


「これ……」


 ふらふらと本棚へ近寄って、梨生はつぶやいた。息を呑み込み、なるべく何でもないように訊く。


「――ちーちゃん、ここ受けるんだ?」

「うん……うちの両親がここで出会ったから、どうしても私もそこへ、しかも同じ学部へ入れたいんだって」


 うんざりした調子で答える千結に、梨生はできるだけ明るく笑い返した。


「千結ー? お友達来てるのー?」


 玄関の靴で推察したか、千結の母親が階段の下から呼びかけているようだ。

 梨生は床から鞄を取って言う。


「ちーちゃんママに挨拶したら、もう帰るね」

「――もう?」


 そのかすかに甘えの混じった声に、先ほどまでなら梨生の頬は柔らかく緩んだだろう。

 だが今は、赤い表紙に浮かぶ大学名が脳裏にちらついて、その頬はぎこちなくなんとか苦笑の形を作るだけだった。


「明日までの宿題残ってたの、思い出した」

「そう。あ、梨生待って。ぽんたの毛、たくさん付いてるから」


 千結が持ってきた粘着テープのカーペットクリーナーを服にコロコロと転がされながら、梨生はうわの空だった。

 大学受験について考え始めた頃、梨生の好きな作家がある大学で教鞭を取っていることを知り、そこへ入れたらいいな、と思うようになっていた。

 学部こそ違いすれ、あの赤い本の背表紙に書かれた大学は、梨生がほのかに憧れ始めた進路だった。


 言いようのない焦燥感が急速に彼女の胸を覆っていった。

 こんな些細なことで不安になるちっぽけな自分が、梨生は嫌だった。


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