28. 天高く消え去るは流れ星


 太陽の熱が暖かい。かすかに秋の匂いをのせた微風が髪を揺らす。

 力を抜いた手首を振り、トラック上を何度か飛び跳ねると、ゴムの地面が心地よく脚を押し返した。身体が軽い。競技用ウェアから伸びた左腕にある傷は、いつも通り少しぴりぴりと熱をはらんでいた。

 レースの直前になると、この傷跡は決まって熱く疼いた。正確には、冷たい門が叫びを上げて強かにぶつかり合ったあの音が、脳にこびりついた日以降の試合のとき。


「On your marks.」


 スターティングブロックの前へ歩みながら、傷跡に触れる。梨生にとって、その仕草は走る前の儀式になっていた。傷がどくどくと脈打っているように感じた。鼓舞するかのごとく。決して忘れるなと念を押すかのごとく。

 わかっている。

 金属のぶつかる鋭い音が頭のなかで遠くこだまし、そして、「かっこいいとこ見せてよ」という言葉が浮かぶ。

 わかっている。

 子どもの頃にはきっと憧れられていたはずの、でも今は、不甲斐ない自分。

 呪いのようにリフレインするその言葉に応えたくて、見返したくて、ずっと走ってきた。

 高三の秋。このレースで三位以内に入れば関東大会へ出場できる。それが叶わなければ、梨生の高校陸上は今日で幕を閉じる。

 わかっている。試合に勝ち続けることが何かの証明になるわけではないことを。


 ――それでも。

 大きく息を吸う。

 全ての音と言葉は遠くなって、ゴールの白線だけが意識の俎上に浮かび上がる。それを鋭く睨みつける。

 待ってろ。今、今すぐに、誰よりも速く、風になってお前を踏み越えてやるから。


 片膝をつき、スターティングブロックに両足を置く。太陽を浴び続けた地面が手の指へ温もりを伝えてくる。地面に落ちる自分の影がぴたりと定まる。


「Set.」


 それが聞こえた瞬間、腰を高く上げ、そしてピストルの破裂音が空気のひと粒を震わせ始めると同時、練り上げた集中力を脚から爆発させた。

 弾丸のごとく飛び出た勢いそのまま、倒れこむようにひたすら前進した。脚を伸ばし、地面を蹴って、腕を引く。前傾姿勢から徐々に上半身を起こし、顔を上げる。視線の先には、憎々しいほど焦がれてやまない白線がある。


 いいリズムにのれた。いつも以上にストライドは広く、ピッチは速い。ぐんぐんと加速していく。全てのエネルギーが寸分の狂いなく身体中を巡って噴出し、梨生を前へと押し進めた。それは風に運ばれているかのようで、足先が接地している瞬間がまったくない感覚すら覚えた。もはや、自分が手足を動かしていることさえ忘れて、須臾の間、彼女は風景と溶け合った。


 だがその多幸感はほんの一瞬で、まもなく梨生は息苦しさを感じ始めた。自分の肉体の存在を感じる。重い。脚だ。地面がある。肺が空気を求めている。脚を上げろ、腕を振れ。いや、力を抜け。もう一度、全身を風にのせろ。


 白線は目の前に迫っていた。

 他の選手の存在がにわかに意識される。数人が横並びになっている。

 身体が重い。息の吸い方がわからない。全ての筋肉の繊維がきりきりと悲鳴を上げている。

 それでも。どうか。あと少し。くそ。あと少ししかない。もう。終わる。


 使い尽くしたエネルギーの代わりに、懇願と絶望と怒り、安堵と不安が、彼女の身体をかろうじて前方へ進ませた。

 団子のようになった数人のなかで、ぐいと上半身をつんのめらせて白線の上を駆け抜けた。


「……ッ」


 おおお、とどよめいた観客の歓声は耳に遠く、数秒間、酸素を体内に取り込んで汗を噴き出すだけの器官になった自分の肉体をどうにかなだめていた。


 荒い息を吐きながら、スコアボードを見上げる。少しの間を置いて、一位から選手名とタイムが表示されていく。三位までを固唾を呑んで見守り――それから脱力して座り込みたくなるのを抑えて、梨生は共に走った選手たちの肩を叩き、握手を交わし、祝意や謝意を伝えた。


 駆け寄ってタオルを肩にかけてくれる部員や顧問たちに応え、梨生は微笑んだ。同級生の励ます声に頷いたり、梨生の代わりに涙を浮かべている後輩の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜたりしながら、彼女は胸の内でひっそりと思う。


 ――結局、最後までいいところ見せられなかったな。

 あの子に会っても、陸上に関してはなんとなく積極的には話題にしていない。だけどもし関東大会まで行ったら、母親ネットワークの力でちょっとは彼女の耳にも届くかな、そうしたら、ちょっとは見直してくれるかもって。……都合のいい時だけ、鬱陶しかったネットワークを利用するんだけど。


 刻まれた呪縛じみた熱を抱えながら、会えない期間も走り続けた。

 再会したあとは、あの無条件に肯定するような目の光を思い出しながら。

 どうしたら、かっこいいところを見せられるのか、その答えだけを求めて、受験勉強もそこそこに毎日運動場を駆けた。


 ――知っているのだ。

 彼女の憧れた安藤梨生のかっこよく走る姿は、過去にしかない。

 小学生の頃の小さな閉じた世界では、梨生は誰よりも速く走れた。彼女の手を引き、彼女を守って、彼女と笑った。

 だがそれは、彼女たちの生きる世界が広がるにつれ、自明のことではなくなった。


 とうとう、かっこよくはなれなかった。

 でも――自分はずいぶん、速くなった、と梨生は思う。


 ゆっくりと、誇らしい気持ちが彼女の胸を膨らませた。透明な秋の空を見上げる。高く青い空にはひつじ雲が広がるばかりで、もちろん星はまだ出ていない。

 動機は不純だったかもしれないが、この三年間、自分はやりきった。

 そっと己の二の腕へ触れる。

 自分だけがそれを知っていれば、十分なのだ。


 梨生の口端に、柔らかく笑みが浮かんだ。


 その姿へ、たった一人で万雷の拍手を送る少女がいた。観客席から立ち上がり、名を呼びたいのを我慢して、彼女は痛くなるほど両手を打ち合わせた。

 自分へ宛てられた拍手だとは露と思わず、それに背を向けて梨生は歩き出し、競技場を出るときにもう一度振り返って深く一礼した。



 梨生の陸上競技は、そうして終わった。


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