17. からからリペア空回りペア
二日もすると、「高井と粟田が別れた、粟田が高井をフったらしい」という噂が梨生の耳に届いた。梨生は詳しい内容なんて聞きたくなかったから、その話題が出るたびにその場をさりげなく離れた。
ある日の5限と6限の間の休み時間、梨生のお腹は猛烈に空いていた。あとひとコマで放課後になるのも待ちきれずに食堂まで早足で歩いて、薄い期待を胸に売店を覗いてみたが、ひとつとして売れ残ったパンはなく、しかたなく紙パックのミルクティーを買った。
廊下を歩きつつ、教室へ戻る前に飲み干す勢いでストローを吸っていると、後ろからぱたぱたと駆け寄る音がしてカーディガンの腕を引かれた。振り返った先には、
「ホンダさん?」
「あの、アンドーさん。ちょっといーい?」
少し切羽詰まった似合わない表情を浮かべているホンダさんに内心疑問を浮かべつつ、梨生は「うん」と頷いた。
ホンダさんは周りを見渡してから階段の脇へ梨生を引っ張り、いくぶん声を落として話し始めた。
「アワたんのことなんだけどさあ〜……」
「え? うん」
肩を落として歯切れ悪く言う彼女の様子に、ひたりと冷たい予感が胸に差し込む。
「なんか最近クラスで浮いてるっぽいんだよねえ〜……」
「え」
寒気がした。
「ほら、高井くんと付き合ってソッコーでアワたん別れたじゃん。それがどうも高井くんの心を傷つけちゃったみたいで、なんかヤツがアワたんの悪口言いふらしてるっぽくって〜……」
タカイくんについて「性格悪いらしい」と言っていたクンちゃんの声が蘇る。
「プライドたかおの心せまおで最悪だよねえ。でもそんなクズおのファンがうちの部にもいてさあ〜……アワたんに高井くんがこっぴどく振られたことが気にくわないみたいで。そのうえその子クラリネットのパートリーダーで結構発言力あるっていうか……その空気に部員らも流されてるってゆーか……最近アワたん
「……」
胸が詰まって、うまく返事すら出来ない。
「で、アワたんもう部活やめるって」
「そう、なんだ……」
しょんぼりと言うホンダさんへなんとか言葉を返した。
はあ、とため息を吐いて、ホンダさんは上履きの先を床へ所在なく打ち付けながら話す。
「校則で退部できないから、まあ実際には幽霊部員になるってことなんだけどぉ〜……。だから、私もちょくちょくアワたんのとこ様子見に行くつもりだけど、あの子のこと、アンドーさんにもちょっと気にかけてあげてほしいんだ〜」
ホンダさんがだぼだぼのカーディガンに隠れた両手を合わせてお願いのポーズを表す。
「うん、わかった。ホンダさんありがとう」
そのとき、始業開始を知らせるチャイムが鳴った。
「あ、6限始まっちゃったね、急ご〜」
ふわふわとした足取りで廊下を進みだした彼女のあとへ続きながら、梨生の心臓は誰かの手に圧し潰されているみたいに苦しかった。
うわの空でその日最後の授業を受けていたが、地理教師のパナサキは終業の鐘が鳴ってもしゃべり続け、生徒たちがぶーぶー言い出した頃にやっと授業を終えたので、梨生が千結のクラスへ急いだ頃には、教室はすでに空っぽだった。
部活が終わったらちーちゃんと話そう、と考えつつ着替えを終えてトラックで準備体操をしていれば、ちょうど校門を出て行く千結が目に入った。
「ちょっと一瞬抜けさせてください!」
「え、梨生ーっ?」
先輩たちへ短く言い置いて、トラックの上に放っていたジャージを引っ掴んで走り出した。羽織ったジャージのファスナーを無造作に引き上げながら駐輪場に駐めていた自転車に飛び乗って、ぐっとペダルを踏み込む。
――ちーちゃんは、強いと思ってた。
けれど、さっき遠くから見かけた彼女の背中はしゃんと伸びているのになんだか張り詰めていて、脆く見えた。
並木道を一人で歩く千結に梨生は追いつき、追い越し、旋回して音高くブレーキをかけた。自転車の後方へ親指を向けて言う。
「へい、じょーちゃん、乗ってく?」
「――りお」
目を大きくして、立ち止まった千結がつぶやいた。
「送るよ、ちーちゃん」
決然として言う梨生に、
「……うん」
千結はかすかに微笑んで頷いた。
歩み寄る彼女を見ながら、はたと梨生は気づく。
「あ、れ。そういえば、ちーちゃんって自転車乗れないんだよね。2ケツは出来る?」
「ただ後ろで座ってればいいんでしょ」
「う、うん……」
簡単そうに答えた千結へ梨生は返事をしかけたものの、たちまち顔を強張らせて、
「こわ。ちーちゃん、ただただ座っててね、お願いだから。ココとココに足を乗っけて、座ってればいいから」
千結の運動音痴ぶりをよく知る梨生はにわかに不安を感じ始めた。
「大丈夫だって」
「あ、ケーサツ見つけたら教えてね、すぐ止まるから降りて」
「うん」
千結から肩と脇腹に手を添えられて、そっと自転車を走らせ始める。開始5秒で千結は自転車から振り落とされた――なんてことはなく、今のところちゃんと後ろに収まったままだ。
なんとなくぺちゃくちゃしゃべる気にはなれずに、黙って自転車を漕ぐ。突然の梨生の申し出に千結もなにか疑問を呈するわけではない。千結の現在置かれている状況を梨生が知っているのを、彼女自身も察したためだろう。
ホンダさんが言っていた、「クラスで浮いてる」、「居場所がない」という言葉が梨生の心臓を締め付けた。
――あたしが、タカイくんとちゃんと話せって言ったから。ちゃんと別れろって遠回しに勧めたから。だから、ちーちゃんは今いやな目に合ってる。
足元の車輪と同様、そんな考えがぐるぐると頭を回り続ける。
だがその思考も、やがてある困難を前に霧散していく。
梨生はしばらく自転車を走らせてから路肩に寄り、キッと自転車を停めた。後ろを振り返ってつぶやく。
「ちーちゃんやっぱ後ろに乗るのド下手……」
「――下手とかある?」
千結はやや気分を害した声音で聞き返した。
「うーん、なんか道曲がるときとか、なんか……すごいちーちゃん邪魔……」
車体を倒して角を曲がるのを、後ろの人が頑なに垂直を保とうとしてくるので、曲がりにくいことこのうえなかった。
「ちゃんと大人しく乗ってるじゃん」
「なんていうか、もう少し体のちから抜いて、曲がるときには一緒に体倒していいっていうか。いやわざわざ倒さなくてもいいんだけど、もっと楽にして、あたしのこと信頼してほしいみたいな……もうちょっとぎゅってくっついていいから」
「……うん」
後ろの千結はおずおずと両腕を梨生のお腹へ回し、体を寄せてきた。
「ちから抜いてね」
「うん……」
「いくよー」
先ほどよりもいくらか安定して走れるようになった。腰に巻きつく腕、背中の温かさは気になるけれど。
「――りお、腹筋かたい」
「え、……あーうん、まあ運動部なので……」
筋肉の感触を確かめるように、千結の手のひらが梨生のお腹をジャージの上からまさぐる。背中には、先ほどよりも密着して顔を寄せられている感覚がした。
「……あのーちーちゃん。ちゃんとケーサツ警戒してる?」
「忘れてた」
「お願いしますよ。捕まりたくない」
さっきまで沈んだ気持ちだったのに、後ろから与えられる温かさと柔らかさにそわそわしてしまう。
浮かれるなんて場違いだ、わかってる、と梨生は胸の中でつぶやく。
だいいち、今の千結はものすごい不安と心細さでいっぱいだろう。
――ああ、でも、やっぱりあたしは。
……彼女の不幸な状況を脇に置いて喜ぶあたしは醜い。これは二重の意味で裏切り行為だ。
こんなときにくだらないことに胸を高鳴らせて。しかも親友相手に。
あたしも変わっていく。ちーちゃんも変わっていく。
でも神様、この時間を止めてとは言わない、もうちょっとゆっくり進めてほしい。
スピードを落とした自転車の切る秋風が、少し上気した頬を撫でていく。
千結はそのまま塾へ向かうと言うので、駅前まで送った。駅の近くには警察署があるため、途中から自転車を降り並んで歩いた。カラカラと音を立てる自転車を押しながら梨生はそっと訊く。
「あのさ、ホンダさんから聞いたけど……ちーちゃん部活辞めるんだって?」
「うん」
「そっか……」
弱々しい梨生の相槌に対して、
「そろそろ受験勉強に集中したかったし。ちょうどよかった」
さっぱりした千結の声音に隣を見ると、せいせいしたとでも言うような顔つきだった。とはいえ、そこには少なからず強がりがあるはずだ。
もし、彼女が本来通り中学受験をして別の学校に行っていれば、こんな状況に陥っていなかったかもしれない。あたしのせいだ。苦い後悔が梨生の胸を絞った。
塾の入ったビルの下で別れを告げる。
「ばいばい、りお。ありがと」
「うん、ばいばい」
立ち去ろうとしない梨生に千結が眉をひそめる。
「……早く部活戻りなよ」
「うん、ちーちゃんがビル入るまでちゃんと見送る」
「保育園児のお母さん?」
「授業中にお昼寝しちゃだめだよ」
「保育園児には、しっかりお昼寝するんだよって言うんじゃないかな」
「大きくなるんだよ、ちーちゃん」
千結は、んべ、と舌を見せてから小さく笑って手を振ると、ビルの自動ドアをくぐった。エレベーターのボタンを押してもまだ外で見守っている梨生を見て彼女は唇を緩め、エレベーターへ入るときにもう一度梨生に向かって手を振った。
翌日から梨生は、クンちゃんとみきを誘って昼休みは千結とご飯を食べた。
中庭の樹の下にいくつか設けられているテーブルでの昼食は少し肌寒いけれど、秋の抜けるような空と乾いた陽射しが心地よかった。
木製の卓上へお弁当を広げながらみきが面白そうに千結へ言う。
「アワタ、なんか大変らしいじゃん」
そのからかい口調に千結は一瞬呆れ、しかしあくまで軽いノリに感化され、彼女も皮肉っぽく口の端を歪めた。
「まあね。おかげさまで」
黄金色の卵焼きを頬張ってみきが訊く。
「どんな風に高井のことフったの? なんか無慈悲にフったみたいな噂聞いてるんだけど」
「あーそれ聞きたいと思ってた」
クンちゃんも身を乗り出す。千結は小首を傾げてから、
「『ごめん、あんたとは付き合えない』って言った」
「へー。……ほんとにそれだけ?」
口いっぱいの白米を飲み込んで、みきが疑わしげに再度問う。千結は少し記憶を探るように宙へ眼をやり、
「……『なんか知らないあいだに付き合うことになってたけど、あんたと付き合うなんてひと言も了承した覚えがないし、まず、興味がない。タカイが私と付き合ってるつもりなら別れよう』って。二人きりで話してまた曲解されたらやだから、クラスの他の子たちがいる前で言った」
「……」
千結以外の三人が咀嚼も忘れてつかのま絶句した。ひと足先にその硬直から抜け出たみきが、
「あはは、そりゃ高井氏もキレるわ〜」
呵々大笑し、それから一転して、「キレ方は最悪だけどなー」と目に殺意を滾らせつぶやいた。
「そんな感じで男子フり続けたらいつか刺されるよアワタ。フり方ってものを学ぼう?」
クンちゃんが諭すように言ったのを、みきがすかさず神妙な顔で、
「おまえがフり方指南できるわけ?」
と尋ねると、クンちゃんは鼻白んだ顔つきをして嗤った。
「は? できるわけねーだろ。来る者拒まずだけど、来る者がまずいないっていう」
「間違いない」
「うわーん告白されてーよう」
そう言ってクンちゃんが箸を握り込んだ拳を振り下ろし机に突っ伏す。いつも通り、よりもやや過剰に馬鹿らしく振る舞う小学校以来の友人たちに囲まれ、千結も相好を崩していた。
放課後、千結を自転車で塾まで送り、とんぼ返りで遅れて部活に参加するのが梨生の習慣となってから数日が経っていた。今はもう千結も二人乗りに慣れた。
学校から少し離れた交差点で千結と自転車に乗って信号待ちをしているときに、「りお」と後ろから呼ばれた。
「ん?」
「……」
言葉が返ってこなくて首を動かしかけた瞬間、背中からぎゅっと抱きつかれた。
「――もういいよ、大丈夫。明日から一人で帰れる」
その言葉とは裏腹に、しがみつくように抱きしめられる。
「……ほんとに?」
「うん。りおはちゃんと部活して」
「……うん……」
離すまいとするかのようにきつく抱きしめるその身体は、そろそろ季節も冬に差し掛かろうかという外気のなかで熱を持っている。
信号は青くなったけれど、交差点の前で止まったままでいた。
梨生はハンドルから片手を迷いがちに離し、胴体に巻かれた千結の手の上に、自身のそれを重ねた。千結の手がそろりと動いて、指を絡ませた。
「……」
梨生は道路の先の信号を見つめていたが、その実、その目には何も映していなかった。
ただ、親友を励ましたいだけなのに。
背中の温もりと柔らかさ、胴体を締め付ける華奢な腕と、すがるように絡みつく冷たい指先が、どうしようもなく梨生の胸の鼓動を早くした。
罪悪感と幸福感でどうにかなりそうだった。
――こんなのはきっと、間違ってる。
自転車のペダルに片足をかけたまま立ち尽くすうち、青信号が点滅して、また赤に変わってしまった。
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