16. 近くて遠くてぬるくてあったかい
今日は文化祭の片付けの日にあたるけれど、週末に練習ができなかった分、朝練があった。眠い目をこすりながら陸上部員たちは芝生の上でストレッチを始めていた。
「あ、てかさ」
ミーハー気質のさやかが口を開いた瞬間から梨生は嫌な予感がした。
「三組の高井くんと粟田さんが付き合い始めたって聞いた? あたしめっちゃショックなんだけど〜」
「びっくりしたよねー」
クンちゃんは大きく広げた脚の上へしっかりと上体を倒しながら応じた。長距離専門の三年のオオキ先輩が会話に入ってくる。
「"あわたさん"って、あの粟田千結?」
「そうですよ。先輩知ってるんですか?」
「この学校で知らない男子いないんじゃね? え〜俺もショック〜」
頬に両手を当ててくねくねと先輩は揺れた。
「おーき先輩が粟田さんと付き合える可能性一ミリもないんで、ショック受ける必要ないですよ」
「うっせーな。おまえはそのタカイとやらと付き合える可能性あんのかよ」
「なきにしもあらずですよ、五ミリくらいはあると思ってます」
澄まして言うさやかに、クンちゃんが、
「えーでもあいつ顎割れてんじゃん」
「そこがいいんじゃん」
「でも高井って性格悪いらしいよ」
「ふーん」
性格悪いのか。やだなあ。
黙りこくっていた梨生にさやかが振り向いて、
「梨生、粟田さんと仲良いんでしょ? なんか聞いた?」
「いや……別に」
「はー親友も知らぬ間に愛を深めてたのなー最近の若者はさあ」
首を振って呆れたように言う彼女の横で、梨生は、私たちは今も"親友"なのかな、と静かに思った。あのときの千結の目を思い出して、梨生の胸はインクの染みが広がるように苦く疼いた。
祭りの残滓を一掃し、今日も今日とて部活でくたくたになるまで走って、すぐさま帰る時間になっていた。冬の足音が聞こえるこの頃は瞬く間に日が暮れてしまう。梨生が自転車に乗って学校から大通りに続く桜並木の道に出ると、前方に二つの後ろ姿が見えた。
うわ、このタイミングで。
それは、千結と
今日も千結から『話したいんだけど』とメールが届いていたのを無視していたし、片付けの間は校舎のどこかで彼女に鉢合わせしないよう気を配っていた。いつまでも彼女と話さないわけにはいかないし、いずれ「ごめんごめん、しばらく携帯の調子悪くてさあ」と明るく何でもないように言うつもりだったが、今はなんとなくまだ顔を合わせる気になれなかった。
自転車のペダルを出来るだけ漕がず、のろのろと蛇行運転をしていたが、徒歩の二人との距離はどんどん縮まっていく。一瞬学校に戻って時間を潰そうかと考えたものの、自分がこんなにこそこそする必要はない、と口を結び、ペダルを漕ぐ足にぐっと力を込めた。
勢いに乗ったスピードのまま、なるべく前だけを見て二人を追い越し、十分に離れたところでサドルへ腰を落ち着けた。
「……」
自分の心がこんな風にもやもやするのはなぜなのだろう。一番距離の近かった友達に彼氏ができて、置いてけぼりを食う感覚なのかな。それもあるし、やっぱり、告白を受けているときに合ってしまった千結の目が――嬉しさに輝いた目が、何よりショックだったのだと思う。
それは、千結の部屋に入り浸ってはフィクションの少女漫画を読み、お泊まり会みたいだとはしゃぐ、子どもっぽい関係性にいつまでも拘泥している梨生をさし置き、男女の関係性へ先に足を踏み入れた、優越感ゆえの嬉しさだったのではないか。
恥辱に梨生の胸は苦しくなるけれど、でも、一方で不思議な安心感もあった。
――そうだよ、そう、それが普通だもん。あたしたち、もう中二だし。男の子と付き合ったりしたっておかしくない。
けれど……ちーちゃんはタカイくんになんて呼ばせてるんだろうか、と気になった。
彼女が嫌いだという下の名前で呼ばせるんだろうか。ずっと苗字で呼ばせていたらいいのに。あたしだけが下の名前で呼ぶ権利を持っていたい……なんて、これも子どもじみた独占欲だ、と梨生は自嘲するように嗤った。
家に帰って夕飯を食べ終え、自室へ戻るも姉の電話の声がやはりうるさい。漫画を携え階下のリビングルームで読んでいたが、ほんの数日前まで夢中になっていたそれもなんだか今は色褪せて感じられる。スウェット姿の梨生がソファに寝そべり、テレビを見るでもなく、だらりとしているのを見た母親が声をかけた。
「なんか梨生がリビングにいるの久しぶりねえ」
「……んー」
ダイニングテーブルで梨を剥きながら母が言う。
「最近はちーちゃんとこばっかりお邪魔してたもんねえ。最後だからってあんまり迷惑かけないのよ」
「……最後?」
「え、だってあんた。粟田さん
「えっ?」
ソファの上に飛び起き目を丸くしている娘を見て、母も目を大きくした。
「なに、知らなかったの? お隣、今度引っ越すのよ。近くらしいけど」
「……いつ……?」
「確か来月の下旬頃って言ってらしたわよ。寂しくなるわねえ」
「……」
ゆらりと立ち上がり、自室へ戻る。
ちーちゃんが、引っ越す……。お隣さんじゃなくなっちゃうんだ……。とてつもない寂寥感が梨生の心臓を締め上げた。なんでちーちゃんは引っ越しのこと言ってくれなかったんだろ。
携帯電話のメール画面を開く。『話したいんだけど』と書かれた千結からのメールをしばらく眺めた。携帯電話を裏返して本体の後ろを見る。そこには、『ちゆ&りお ズッ友』という落書きと共に今よりもずっと幼い二人が写る、端がすでに剥がれかけたプリクラがある。
梨生ははっとした。最後に千結の部屋を訪れたとき、彼女が口ごもって何かを言いかけていたことを思い出したのだ。はあ、とため息をついて、少し考えてから『ちーちゃん、引っ越すの?』とだけ書いてメールを送った。
すぐに彼女から、『梨生、いま家にいる? 散歩行こう』と返信があった。
夜の住宅街を二人並んで歩く。門扉の前で落ち合ったときに短く挨拶した以外は、ずっと黙っていた。
「……」
橋の上で、古ぼけた街灯の弱々しい光を受けたモニュメントがひっそりとうずくまっている。なんとなく登りたくなって、梨生はパーカーのポケットに両手を突っ込んだままタッタッと軽やかにそれの頂上まで駆け上った。小さいときはよじ登るようにしていたこれも、今となっては取るに足らないものになってしまった。
振り返ると、千結が当たり前のような顔をしてこちらへ腕を伸ばしていた。昔は確かに登るのを手助けしていたが、成長しても変わらず助けてくれるものだろうと信じて疑っていないその様子に梨生は苦笑いしてしまった。
ふわふわのマシュマロみたいな手を掴んで、ひょいと引っ張り上げたら、その身が軽すぎたのと勢いがよすぎて、華奢な柔らかい身体が飛び込んできた。どきりとして、それを誤魔化すようにくすくす笑って離れた。
モニュメントから足を投げ出し、並んで座る。橋の下の幹線道路を、赤い光が照らしていた。梨生はパーカーのポケットの中に忍ばせていた夏みかんゼリーのジュースを隣の千結へ渡す。
「これあげる」
昨日、一緒に飲めなかったやつ。
「あ、懐かしい」
受け取った千結が柔らかく微笑む。両手の中へ大事そうに缶を包んだ彼女を横目で見ながら、梨生は自分の分の缶を振った。小さく息を吸ってプルタブを引き起こし、パキという音を契機に口火を切る。
「――粟田家、引っ越すんだね」
「……うん」
「どこ?」
「XX駅のほう」
同じ市内ではあるものの、今の最寄駅よりも大きい駅名を千結は挙げた。
「学校変わる?」
「ううん」
「なんで引っ越すの」
「なんかマイホーム建てたらしい」
「……はあー。ちーちゃん、お隣さんじゃなくなるのかあ……」
「……遊びに来てよ」
「うん……」
同じ中学に通っていても、昔より二人の間には距離が生じてしまったのだ。このうえ家が離れてしまってはますます疎遠になるばかりだろう。
暗い展望に口を閉ざしていれば、そっと千結が言葉をかけた。
「……昨日、花火、一緒に見られなくてごめん」
「……うん……」
なんとなく横並びになっていたくなくて、梨生は千結に背を向けて座り直した。そして囁く。
「ちーちゃん、タカイくんと……」
「……」
「付き合ったらしいじゃん」
千結は深々とため息をついた。
「付き合うつもりなんてなかった、いつのまにかそうなってた」
「え? 何それ」
思わず振り返って問いかけた梨生の目をちらりと見てから、拗ねたように千結は口を尖らせた。
「今朝教室行ったら、黒板に『高井♡粟田おめでとう! お幸せに』って書いてあって、はあ? と思ったんだけど、周りがなんかもうそういう空気で……帰りもタカイが無理やり一緒に帰るってなって」
「え……でも、昨日なんて返事したの?」
「昨日は……なんて言ったかなあ……」
記憶を辿るように宙を睨む彼女へ、梨生は静かに訊いた。
「……ちゃんと断ってないの?」
「断っ――てない、かも、しれない……」
後半にかけて声が弱まっていった千結から視線を逸らして、梨生はつぶやいた。
「じゃあ、ちゃんとタカイくんと話し合いなよ……」
「――めんどくさい。りおがわかってればいい」
そう言って、彼女は梨生の背中へこてん、ともたれかかった。だが、梨生の心は冷え冷えとしていた。
――わかんないよ、もう、ちーちゃんのことは。
ガラス窓越しに見た、花火に照らされた彼女の瞳を思い出す。
彼女の考えは、もうあたしにはわからない。いつも一緒に居ることのできた小学生のときとは違う。それに、あたしは自分の気持ちだってろくにわかっていない。
少し背を押し返して言う。
「ちーちゃん。これは、相手の居る話だから。相手の気持ちもあるから、ちゃんと話さないとだめだよ」
「……わかった」
「ちゃんと話すんだよ、面倒でも」
また千結が梨生の背中に体を寄せてきて、
「うん……」
と小さく応えた。
千結の体を振り払ってしまいたい衝動と共に、それでもやはり、背中からじんわりと伝わってくる温かさに嬉しさを感じてしまう。
ジュースをひと口飲んだら、ぬるくて苦くて、美味しくなかった。
あたしたちはもう一本のジュースを分け合うような近さにはいないのだ。
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