#9. 風早のごと走る君の背


 いつだか水族館で見た、水中を縦横無尽に飛び回るペンギンみたいだった。

 弾丸のような速さで、天地もなく自由にこの世界を泳ぐ。太陽の光を受けて、その表面がきらり、きらりとせわしなく光る。

 私はそれが眩しくて目を細めてしまう。


 あるいは、サバンナを走るチーター。しなやかな身体を踊らせて爆発的な加速を見せる。見事な調和を響かせて全身が描くなめらかな軌道は、どんな芸術家だってそれを再現できない。


 鬼ごっこでは、クラスの誰も梨生を捕まえられなかったし、彼女が鬼になれば誰も逃れられなかった。

 太陽光が降り注ぐ校庭で、梨生は誰よりも自由だった。

 校庭で思いきり走る梨生を見て、私と遊んでいるときは力を抑えていたんだ、とわかった。彼女の体内を駆け巡るエネルギーを存分に解放して、びゅんびゅんと風を切る背中には羽が生えているようで、彼女は世界に愛されている、と私は思った。

 二人だけで遊ぶときには見られないピカピカの笑顔がちょっと寂しくて、でも、嬉しそうな姿に私の心も弾んだ。



 泥棒と警察に分かれて鬼ごっこをする遊びでは、私は梨生と一緒に泥棒になりたがった。梨生が必ず私を逃してくれるから。

 開始直後、意図しようとしまいと、私は持ち前の運動神経のなさから、さっさと警察に捕まって牢屋の空間に囚われる。梨生は、追いすがる鬼たちを踊るようにしてかわしながら校庭を駆け回る。迫り来る追っ手が伸ばす腕を避け、ぐっと地面を蹴って作る砂埃すら、完璧な舞台演出のひとつのようだった。

 そして、あっという間に牢屋へ近づくと、そこから出られない私の手を彼女は小気味よい音を立ててタッチする。

 そのまま手を握って一緒に学校の外へ連れ出してくれればいいのに、と何度思ったことか。

 でも、彼女は次々に他の囚われの身の人たちの手に触れて、風のようにまた校庭へ駆けていってしまう。

 それでも嬉しかったのは、絶対に私のところへ一番に来てくれたこと。群がる鬼たちの間をすり抜けてまっさきに飛び込むのは、いつも私のところだった。



 運動会、私は大嫌いだったけれど、でも、心待ちにしてもいた。

 走ることだけ考えて、まっすぐ前を見て、他の誰も追いつかせず、誰も彼をも蹴散らしてしまう、そんな梨生の走る姿を見るのが誇らしかったから。

 徒競走でゴールする頃には、走ること自体が楽しくてたまらないといった様子で、彼女は口を大きく開けて笑う。いつだって一位の旗を持つ彼女に、「すごかった!」と伝えると、照れて小さく笑う。その大きな笑顔も小さな笑顔のどちらも好きだった。

 だから、運動会は大嫌いな行事でもあり、嬉しい行事でもあった。



 二人きりで遊ぶとき、私を置いて行ってしまう背中が眩しかった。どんどん遠ざかって小さくなる背中を必死に追いかけて、でも見えなくなってしまって、だけど、着いた先で必ず待っていてくれる。

 追いつけない速さで遠くなる背中が愛しかった。

 自分のそばに置いておくだけでは、風になる喜びに躍動する彼女の身体は、笑顔は、見られない。


 私に合わせて隣を走ってほしいなんて思わない。彼女の持てる限りの力を使って、私も、世界も置いてけぼりにしてしまえ、と願った。


 だって、追いついた先で、梨生は絶対に私を待っていてくれるから。

 彼女の隣は絶対に私のためのものだ、と信じて疑わないまなざしをして。

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