8. 刻印
もうすぐ小学校も卒業だ。六年生の三学期が終わろうとしている。
学校の周りで遊んでいた同級生らと別れて、梨生と千結は帰宅の途についていた。
「友達いっぱいつくーる!」
いつの間にか、中学校へ入ったら何をしたいか交互で口にしながら靴を飛ばして歩いていた。蹴り飛ばした靴まで片足ケンケンで向かう。
自宅近くの公園の横にさしかかったとき、千結はひときわ大きく脚を振り、声を張り上げた。
「りおとずっと友達ー!」
しかし千結の蹴り上げた靴はあらぬ方向へ飛んで行き、がささ、と草木をかき分け、高い木の枝に引っかかった。
「……あー」
到底届きようもない場所に落ち着いてしまった千結の靴を見上げ、思わず声を漏らした梨生の横で、当人は靴下だけになった片足を少しのあいだ宙に浮かしていたが、やがてその足もそっと地面に下ろした。樹上で居心地良さそうに鎮座している靴は、千結のお気に入りのものであることを梨生は知っている。
「ちーちゃん待ってて」
その木は公園の敷地内にあり、石垣で嵩上げされた地面の上に生えていた。梨生はかかとをつぶして履いていた右足の靴をきちんと履き直して走り出し、その石垣を登った。木の根元から、ひっかかった靴を見上げる。棒か何かで突っつこうにも、やはり手が届くような場所ではなかった。木の幹を叩いてみたが、当然太い木はびくともしないで、千結の靴は枝の先でのんびりしている。渾身のキックを何度お見舞いしてやっても同様だった。
「りお、もういいよ……帰ろ」
石垣の下でそう声をかけてくる千結は、片足だけ靴下をさらして、なんとも心細そうに佇んでいる。
帰らない、という意思表示をするために、梨生は額へ滲んだ汗を拭い、上着を脱いで腰にくくりつけた。春の陽気をかすかに含んだ風が、タンクトップから出た腕に心地よく吹く。
幸いこの木の根元は少し傾いている。木の幹へ手をかけ、地面を蹴ってそれへ飛びついた。
「りお、いいってば。危ないよ、帰ろうよ」
不安に満ちた声で制止を呼びかける千結の声も置き去りにして、梨生はひたすらに上を目指した。うろに足をひっかけ、枝分かれする幹を踏み台にしていけば、意外にもするすると木を登れた。あとひと息。あんなに遠くに見えた靴が、あと少しの場所にある。太い枝に足をかけて下を見ると、思った以上に地面が遠くて心臓が縮みあがりかけたが、千結の姿を見て心臓はきちんと息を吹き返した。固唾を飲んでこちらを見守るその瞳は、梨生の身を案じて早く降りて来てほしいという焦燥と、本当に梨生はあの高さまで登りきってしまうのではないか、という期待に揺れていた。それを見て梨生は、絶対にちーちゃんの靴を取ってやる、と決めて腕を再び木へ伸ばした。
はあ、はあ、という自分の荒い呼吸音がうるさい。靴のある高さまでは到達した。ただ、それを載せている枝の先は、梨生の全体重をかけるには頼りない太さだった。
もう少し。もう少しなのに。
少々の太さがある枝の根元に腰掛け、上半身と腕をめいっぱい靴へ伸ばす。
あとちょっと。少し乗り出せば中指が靴の端へ届きそうだ。這いずるようにしてわずかに身を枝の先へ寄せ、手を伸ばす。指の先が靴に触れた。もう一度。また触れた。靴が揺れる。あともう一回。中指が靴を弾いた。――靴は吸い込まれるように地面へ落ちていく。
やった! 靴の行方を追いかけて下方を覗き込んだ視線を、そのまま千結へスライドさせる。千結は歓喜と興奮に目を大きくし、感嘆の声を上げようと息を吸っていた。だが、瞬時にその目が恐怖に染め上がる。梨生の体は宙に投げ出されていた。頼りなかった枝はやはり
「梨生っ!」
千結の悲痛な声が空気を切り裂く。
――重力に従って落ちていく体験よりも、今しがた見た、この世の終わりを映したような凍りついた千結の瞳が、そしてそんな目をさせてしまったことが、怖くて、悲しくて、たまらなかった。
…………
そのあと、意識が戻ったときにはもう病院で、鋭利な何かですっぱりと切った左の二の腕は何針か縫合済みだったし、ぼうっとしている間に脳の検査や色々な手続きは終わって、気づいたら病院の廊下のベンチで母親にくだくだとお説教を食らっていた。
「もう、ほんっとにあんたはしょうがないんだから。怖いったらないわよほんとに。もう、今度こそだめかと思ったわ。お母さんの寿命、百年縮んだわよ、もう」
「……お母さん、何歳まで生きるつもり」
ようやくまともに口を利いた娘に、母親は一瞬口をつぐみ、それからにっこりと微笑んだ。
「150歳くらいまではいけそうだったのに、梨生のせいであと50年くらいかしらね」
そうして梨生を引き寄せ、その体をそっと抱きしめた。
「……生きててよかったー。……もう、無茶もたいがいにしなさいよね」
「……うん、ごめんなさい」
地面に落ちた瞬間の記憶がないのでいまいち実感はなかったが、母親の体に包まれてその温かさを感じていると、言いようのない死の恐怖が胸に込み上げて、じわりと涙が浮かんだ。
いつもは梨生が眠る頃に帰ってくる父親も病院へ駆けつけ、共にタクシーで家へ帰った。
自宅へ着く頃にはすっかり夜も遅くなっていたが、タクシーが家の前に停車した音を聞きつけてか、慌ただしく扉を開ける音がして、隣の家から人影が飛び出してきた。
「梨生!」
その人影は車から出たばかりの梨生の胸へ飛び込んだ。
「ちーちゃん」
「りお! よかった! よかった!」
千結に続いて彼女の両親もすっとんできた。タクシーの去ったあとには、互いにぺこぺこと頭を下げるふた組の親たちと、泣いてしゃべるのもままならない千結、彼女に抱きすくめられて困惑する梨生が残された。抱きしめられた左腕が、ちょっと痛い。
「りおが死んじゃったらどうしようって思ったあ……」
「大丈夫だよ」
「ごめんね、ごめんね」
「大丈夫だってば」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにさせた千結がはっとして、
「腕!」
と言うなり体を離し、梨生の左腕の患部のあたりで手を浮かせた。梨生が落ちたときに居合わせていたから、彼女がどんな傷をどこに負っていたのか知っているのだろう。
左腕だけ袖を通さず上着を羽織ったそこへ気遣わしげに目を落とす千結に向かって、梨生は精一杯の笑顔を向けた。
「あっという間に治してもらったよ。あんまり覚えてないし」
「ごめんね……りお」
「ううん、気にしないで」
うつむく千結の手を取り、その顔を下から覗き込んでニッと白い歯を見せつけた。
そろそろ家に入るよ、と促す親たちの声に頷いて、「おやすみ、ちーちゃん」と声をかける。
「うん……おやすみ、りお」
繋いでいた指先が名残惜しげに伸びて離れた。
当分のあいだ、母からはことあるごとに小言を言われた。
「ちーちゃんが青い顔してうちに飛び込んできたときは、心臓止まるかと思ったわよ。それで駆けつけてみたら、あんたは意識ないし血まみれだし。ほんっとに死んだかと思ったんだから」
「はいはい、ごめんなさい」
もう何度目か知れない内容に梨生が生返事を返したところ、ちょうど食卓にコーヒーカップを運んできた母親はため息をついた。物憂げに席へついた彼女に、トーストをかじりながら梨生は目を向けた。
「梨生、あんたももう中学生なんだから、飛んだり跳ねたりしてないで、いい加減女の子らしくしなさいよ」
呆れと心配をない交ぜにした目で静かに語りかけてくる母親の言葉を、トーストと一緒に飲み込みながら梨生は尋ねる。
「……お母さんそれよく言うけどさあ、"女の子らしく"ってなーに」
まっすぐな目で訊く娘を前に彼女は少し黙ってから、
「何って、女の子らしくは女の子らしくよ。木に登ったりしないし、石とかガラクタを集めないの。お隣のちーちゃんは女の子らしいでしょ」
「ちーちゃんだって、いつも一緒にあたしとおんなじことして遊んでるし」
今度こそ呆れだけをのせて母は目をぐるりと回してみせた。
「あんたが連れ回すからでしょう。ほんとにもう、ちーちゃんに怪我させないでよね」
「……」
そういえば、出会ったばかりの頃の千結は、もっとスカートとかひらひらした格好をしていたかもしれない。野生児の梨生とばかり過ごすうち、動きやすい服装を選ぶようになったのだろう。
――ちーちゃんは、女の子らしくいるほうが好きだっただろうか。
一週間もすると縫合した部位から抜糸をした。短い丈だと袖の下からわずかに覗くその二の腕の傷は、「ほとんど綺麗に治るはずだが少し跡が残るかもしれない」と医師から言われた。梨生自身はそうかと素直に受け止めたが、隣でそれを聞いた母親は言葉にこそしなかったものの落ち込んでいるようだった。
事故以来、千結が申し訳なさそうに、悲しそうに梨生の左腕の傷を見るものだから、梨生はノースリーブの服を着たいときにも彼女の前では傷跡をなるべく隠すようにした。
中学校の入学式が明日に迫った日の夕暮れどき。引っ越してきたばかりの千結の初登校の前日と同じように、二人は橋の上のモニュメントに座っていた。
あのとき梨生は不安でいっぱいの千結を励ましたが、今度ばかりは、今までとはまったく異なるであろう中学校生活に対して梨生も一抹の不安を覚えていた。なんとなく二人は黙って、雲と空の色を刻々と変える夕陽を見ていた。
膝を抱えて座っていた千結が身動いで、小さく梨生に声をかける。
「――見ていい?」
左側に腰掛けていた彼女は真剣な顔をして、梨生の服の半袖の裾をつまんでいる。梨生は頷いて袖を引き上げた。
「……」
二の腕の傷が露わになると、千結は眉をひそめて痛ましそうにそれを見つめた。
「……まだ痛い?」
囁くように千結が訊く。
「……ううん」
梨生もつられて声を潜めた。
すると、千結は白くて小さい手を伸ばしてその縫い跡へそっと指を這わせた。
「ごめんね」
まだ周囲よりもわずかに熱を持つその肌に、千結の冷たい指先は気持ちよかった。
跳ねそうになる息をそろりと逃して答える。
「大丈夫だよ」
傷跡を見つめる千結の長いまつげを見下ろしながら、この傷は消えなくたっていい、と梨生は思った。
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