7. 憂いの種と満点のビンタ


 四年生の冬、年が明けてちょっとした頃。学校で皆と遊んだのち、家へと帰っているときに、千結は重たい口を開いた。


「あのね、りお」

「うん」


 なんとなく千結の元気がないな、とは思っていた。梨生は一歩前へ跳んで振り返り、千結の顔を見つめて後ろ向きに歩き出す。


「あのね、私、もうすぐ塾に通い出すから、りおとこんな風に遊べなくなる」

「あ……そうなんだ」


 クラスにも何人か塾へ通っている子はいる。学校が終わると毎日すぐに塾へ向かうから、その子たちとは遊べない。千結もそうなるのだと知って、気持ちがしぼむ。梨生は明るい声音を作って訊く。


「でも、週末は遊べるんでしょ?」

「うん――でも、どんどん遊べなくなると思うし……私――中学受験するんだ」

「……じゃあ、中学、ちーちゃんと同じとこには行けないんだ……」

「うん……」


 梨生もさすがにショックを隠せなかった。後ろ歩きで進む元気もなくなって、千結の隣に並んでとぼとぼと歩く。夕陽が作る二つの影を見つめながら、沈黙を分け合った。ぽつりと、梨生の口から言葉が漏れる。


「――ちーちゃんが塾行くなら、あたしも行こうかなあ」

「ほんとっ!?」


 梨生の何気ないつぶやきに、千結はいつになく興奮した様子で振り向いた。深く考えもせずこぼれ出た自分の言葉だったが、千結の嬉しそうな表情に梨生は勇気づけられて、


「……うん! お母さんに頼んでみる!」

「うん!」


 二人はぎゅっと手を繋ぎ、力強く帰路を辿った。



 翌日、登校するために家の前で落ち合ったとき、梨生の表情から、彼女の塾通いに関する交渉は失敗に終わったことを千結は悟った。


「だめだった。塾行くだけならいいけど、中学受験するつもりなら、うちはそんなヨユーないって。来年はお姉ちゃんも高校受験するし」

「……そっか」


 沈んだ表情の千結をなんとかしたくて、梨生はことさら元気に、


「中学生になっても遊ぼうね」

「うん……」


 しかし、彼女の表情は晴れず、そして、塾通いが始まるとやはり千結との時間は大幅に減った。

 その頃初めて、「もしかしたら、あたしたちの関係は永遠じゃないんだ」と梨生は気づき始めて、なんだか空恐ろしい気持ちになった。



 もうすぐ四年生も終わる頃、春も近づいて暖かい日も多いのに、今朝は目覚めたときから寒かった。玄関を出ると、朝の弱い千結にしては珍しくすでに門扉の前で待っていて、そしてにこにこと笑顔を浮かべていた。自然と梨生の胸も温かくなる。


「おはよ、ちーちゃん」

「おはよっ、りお。あのね、私、受験しないことにした!」

「えっ」

「だから、同じ中学行こうね!」


 白い息を弾ませて、千結が嬉しくてたまらないというように笑いかける。


「……そうなんだ! じゃあ、また前みたいにちーちゃんと遊べる?」

「うん! いっぱい遊ぼう!」


 ぱっと梨生の手を握り、千結は不恰好なスキップをしだした。相変わらず手足の動きがガチャガチャとしてブサイク極まりないけれど、それが千結の爆発的な喜びの発露の結果だと梨生はわかっているから、梨生も足並みを揃えてスキップで登校した。目が少し赤かった千結の顔を、頭の片隅に浮かべながら。




 五年生の秋。給食のあとの休み時間、校庭で梨生は走っていた。

 五年生にもなると、女子と男子はことあるごとに対立するようになって、ほとんどの男子は校庭で、女子は教室内で休み時間を過ごすようになっていた。なんだか男女で仲良くしているのはダサい、という空気がいっぺんに広まったのだ。仲良くしていると、「おまえら付き合ってんの?」とガキどもがすぐ囃す。フツーに楽しく遊べばいいじゃん、と思う梨生にとってその空気は煩わしかった。

 駆け回るのが好きな梨生はいまだに多くの男子へ混じって校庭へ出ており、それに千結も付き合って校庭の片隅でぼんやりしている。クンちゃんやみきちゃんと教室で遊んでなよ、と梨生が勧めても、千結は「いい」と言って、何が楽しいのか退屈する様子もなく、梨生が走り回るのを保護者のように眺めて過ごすのだ。


 タイヤの遊具へ腰掛けている千結に、図体の立派なゴウダくんが何かしゃべりかけているのを、梨生はサッカーボールを追いかける傍ら目の端に留めた。最近、男子たちは千結によく構う。それは男女関係なく仲良く、という昔の構い方ではなく、むしろ千結が“女子”であるがゆえだった。

 何度千結から迷惑そうに冷たくあしらわれても、なおめげないゴウダくんを見るたび、梨生は「ゴーダ、それは高嶺の花ってやつだよ……」と心のなかでつぶやいていた。


 しばらくして同級生たちの注意がある一点に向かっているのに気づいた梨生がそちらへ目を向けると、立ち上がった千結の髪をゴウダくんが引っ張っていた。「痛い!」と声を上げた千結の声を聞くやいなや、梨生は走り出していた。


「やめなよ、ゴーダ!」


 千結とゴウダくんの間に立って大声を上げるが、口をひん曲げた彼は梨生に一瞥をくれたあともその手を離しはしなかった。千結のつやつやの黒髪が、彼のぎゅっと握った拳に乱れていた。

 二人の間に割って入って、梨生はゴウダくんの体を突き飛ばした。たたらを踏んだ彼はきっと視線を鋭くして梨生を睨み、そして彼女の肩を思いきり押し返した。梨生は大きくよろけ、踏みとどまろうとしたところをさらに彼が掴みかかったので、尻餅をついてしまった。素早く立ち上がろうとした瞬間、足首に痛みが走った。ヒュッと飲み込んだ息と、荒い息だけが自分の口から漏れるのを梨生は聞いた。

 すると、千結がゴウダくんに憤然と歩み寄り、睨みつけるようにして立ちふさがった。白い顔を真っ赤に染めて、燃えるような目をしている。

 こんなに怒った千結を見るのは初めてだ、と梨生が地面に座り込んだまま呆気にとられていたら、さらに驚くことに、彼女は大きく振りかぶってゴウダくんの頬に平手打ちを決めた。腰のしっかり入った、きれいなビンタだった。校庭の片隅で、バチン、と重い音が響いた。

 梨生は本当に感心していた。千結といえば運動神経がまるでだめなのに、惚れ惚れするような美しいフォームで、そして思わずゴウダくんに同情するような生々しい打撃音を伴って、見事なビンタを披露したのだ。

 頬を打たれたゴウダくんは呆然として顔を押さえている。騒ぎを聞きつけた教師を含め、皆集まってくる。


「大丈夫?」


 振り返った千結がしゃがみ、梨生の手を掴む。


「痛い? 立てる?」

「うん……、ッ」


 足を動かした瞬間の痛みに短く息を吸った梨生の脇の下に肩を差し入れ、千結が彼女を立ち上がらせる。


「保健室行こう。歩ける?」

「うん、ちょっとひねっただけ。でも……先生呼んでるよ」


 支えられて歩きながらも後ろを振り返り、「粟田さん!」と声を上げている先生を見る。先生は、黙って泣いているゴウダくんの肩に手を置き、こちらへ呼びかけていた。


「どーでもいい」


 千結は吐き捨てるように言った。

 ぴょこぴょこと少しずつ歩みを進めていると、隣から伝わる震えに気づいた。そっと横を窺い見れば、唇を噛みしめた千結がぽろぽろと涙を零していた。


「……なんで泣いてるの?」


 静かに訊いた梨生の顔は見ないで、千結は嗚咽を漏らさぬように低く答えた。


「……悔しい。私のせいでりおが怪我した」

「ちーちゃんのせいじゃないよ。ゴーダ、ちーちゃんのことが好きなんだよ、だから、ちょっかい――」

「そんなのどーでもいい」


 断ち切るように千結が言う。哀れ、ゴウダくん。

 鼻を乱暴にすすって千結は続けた。


「それに、ゴーダと喧嘩するの、一瞬怖いと思った。りおが怪我したのに」

「当たり前じゃん、ゴーダでかいもん」

「でも、りおはすぐ助けてくれたもん」


 彼に立ち向かう直前の記憶を引っ張って――すると鮮烈な怒りが梨生の胸に蘇った。


「……だって、ゴーダ、ちーちゃんの髪掴むから」

「え?」

「せっかくちーちゃんの髪、綺麗なのに」


 互いの髪を編みこんで遊んだときの、指の間をするりと流れる千結の髪の感触を思い出した。ちーちゃんの髪は、それ自体が丹精込めて作られた工芸品みたいで、繊細で。――だから、あんな風に荒々しく触っていいものじゃない。

 静かな怒りを滾らせて言った梨生の隣で、千結はつかの間黙ってから涙を拭き、梨生へ微笑みかけた。


「――あとで髪、編んで」


 梨生はそっと息を呑んだ。

 綺麗だった。千結は近頃、急に大人びてきて見える。


「……うん」


 至近距離で肩を組む千結の顔から視線を剥がして、梨生はまっすぐ校舎のほうへ目をこらした。

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