6. 目をつむって。手をあげて。


 心がすごく忙しいのは好きじゃない。

 嬉しすぎたり、悲しかったり、不安だったり、とんでもない怒りだったり、そういう心が乱されることからは、梨生は距離を置いた。だからたいていのことは周りに合わせるし、衝突しないためなら多少のことも我慢した。嬉しさで胸が弾むときも、全身全霊でそれを味わい尽くすのを自然と恐れたし、無防備に喜びや悲しみ、怒りを爆発させる同級生を見ると、なんだか怖いような気がした。



 四年生の秋だった。

 千結の隣の席のオカモトくんが、海外出張でお父さんが買ってきてくれたという太いボールペンを朝から自慢していた。フローティングペンと呼ばれるその側面には、外国の有名なタワーやビルのイラストを背景にアメコミのヒーローが何人もいて、ペンを傾けるとその空間をヒーローたちがゆっくりと飛んでいった。男子たちは「おーっ! いーなー!」と盛り上がっていたけれど、梨生も千結も「うるさいなあ」と思うだけでたいして興味を持たなかった。


 体育の時間になって体育館で並んでいるときに、千結が赤白帽を身につけていないのを先生は目ざとく見つけた。今日はマットと跳び箱の授業だから、チームの区別に使うわけでもなし、ほとんどの生徒が首に赤白帽をひっかけているだけでまともに被っている子もいないのに、先生は「取って来なさい」と千結に命じた。はい、と小さく返事をする千結の眉間にかすかな力がこもっているのを見てとった梨生は、「ちーちゃん、『帽子必要ないのに』って思ってる」と見破った。ただでさえちーちゃんは体育の授業が嫌なのに、ますます嫌いになっちゃうよ。

 まもなく更衣室から帰って来た千結は、反抗心の表れか、彼女もまた首に赤白帽をだらしなくひっかけてムッとしていた。そしてやっぱりいつもと変わらず、マットの上では一回転を成し遂げられずぺたりと座り込み、その低さだと逆に飛びにくいのでは? という低さの跳び箱も飛べずに、千結専用レーンとなった低い跳び箱を何周もしていた。

 運動が得意な梨生にとって体育の授業は思いきり体の動かせる楽しい時間だったが、授業後は自尊心がぼろぼろになってしょんぼりしている千結をケアするのも、今や体育の授業の一環だった。いつも通り更衣室から教室への道を千結の横に寄り添って歩いていたら、彼女は右手のひらへ顔をうつむけている。


「どしたの、ちーちゃん」

「……なんか入った」


 覗き込んだ手の中指の先に、小さな棘のようなものが見えた。梨生は立ち止まってその小さな手を取り、棘を押し出そうとしばらく試みたが、千結の「――痛い」という言葉を契機に諦めた。


「保健室行って取ってもらお」

「授業遅れるかも」


 目立つのを嫌う千結の手を引っ張って、梨生は保健室のほうへ歩き出す。


「遅れたらあたしが先生に説明したげるから。さっさと行こ」

「いーよぉ。ちっちゃい棘だし」

「膿むと痛いよ」

「……」


 痛いことも嫌いな千結は大人しく梨生に引っ張られながら、


「ほんと、たいくって嫌い」


と零すので、梨生は苦笑いした。



 無事保健室で棘を抜いてもらって足早に向かった教室は、授業の開始には間に合ったけれど騒然としていた。オカモトくん自慢のボールペンが失くなったというのだ。

 梨生は、ほえー、可哀想に、と他人事のように感じていたが、先生が教室へ入って来てもその騒ぎは収まらず、結局、『みなさん目をつぶってください。岡本くんのペンを盗った人がいたら手を挙げてください』が行われることになった。梨生はそんなことより国語の授業を受けたかった。今日の授業では"ごん"が撃たれてしまう場面に差し掛かるはずだった。ごんの運命を皆がどう思うのか知りたかった。そんなことを考えながら、梨生は素直に目をつむった。こういうとき、彼女は薄目を開けて事の次第を覗き見るなんてことはしなかった。誰かが気まずげに手をそろりと挙げるのか、挙げないのか、それを先生がどんな顔で見て、どう落とし前をつけるのか、つけないのか、そういう諸々を見て心を煩わせたくなかった。

 気詰まりな沈黙が、「――はい」という先生の言葉で破られて、やはり、「残念ですが、誰も手を挙げませんでした」と続いた。はーあ、という気怠げなため息が教室のそこかしこから漏れる。梨生もため息をつきたくなったが、代わりに机の上の国語の教科書をそっと開く。『ごんぎつね』の最後の段落を読み返しながら、それにしたっていきなり撃つことないじゃんねえ、と胸の中でつぶやいた。


 すると、タカちゃんがすっと手を挙げ、「先生」と発言した。教師に促されたタカちゃんがすっと立ち上がり決然として言う。


「いっこ前の体育のとき、粟田さんが帽子を取りに授業を抜け出してました」


 びっくりして、梨生ははじかれるようにして教科書から顔を上げてタカちゃんを凝視した。"抜け出した"という事実だけを述べて彼女はまた椅子に座り、そのあとを続けはしない。

 一瞬虚をつかれた様子だったオカモトくんが、飛びつくようにして隣の千結の筆箱をひっつかんで開ける。


「――あった! おれのペン! 粟田が盗んだッ!」


 教室中が一斉にうるさくなる一方で、梨生の耳にはむしろ音が遠く感じられた。なんで。そんな。

 千結が彼のペンを盗んだことを問題にしているわけではない。そんなことはありえない。

 うるさい生徒たちを黙らせようと「静かにしなさい!」と声を張り上げる担任教師なんかお構いなしに、子どもたちは興奮した声を上げる。その騒ぎのなかで、のんびりとした様子でタカちゃんが口の端を吊り上げ、斜め前のトモちゃんと視線をそっと交わすのを梨生は見てしまったのだ。

 タカちゃんは、別に千結を名指しで犯人と言ったわけではない。今日、確かにあった事実をひとつつまんで、発言するときの作法に則って正しく、無造作に、教室に放り込んだだけだ。そして、千結の筆箱からオカモトくんのペンが見つかった。――他人の悪意というものを目の当たりにして、梨生はまったく信じられないような気持ちだった。

 何より信じられないのは、この事態の渦中にあって、前方を見つめたまま、背筋を伸ばして何も言わない千結だった。

 先生がプラスチックの物差しでバチバチ!と音高く黒板を叩いた。それでやっと少し教室は静かになった。そして、先生は怖い顔をして千結へ問う。


「粟田さん。粟田さんが岡本くんのペンを盗んだんですか?」


 教室が水を打ったように静まり返った。ゆっくり千結はつぶやく。


「違います」


 間髪入れずにオカモトくんが叫ぶ。


「でもお前の筆箱ん中にあっただろ!?」

「知らない。私じゃない」


 それでまたクラスは喧騒に包まれた。

 そんなわけない。千結があんな子どもっぽいペンなんて欲しがるわけないし、万一それがすごく素敵な物だったとしても、千結がそんなことするわけない。そんなの、ありえない。

 手を挙げ、先生に指される前に梨生は椅子を引いて立ち上がった。椅子の足と床がこすれて、ギギ、と耳障りな音がした。教室中の視線が梨生に突き刺さる。梨生は息を呑み、それから言った。


「――粟田さんは、のろまです」


 男子たちがワハハと笑い、女子たちはくすくす笑った。梨生は言い方を間違えた、と少し焦りながら言葉を続けた。


「粟田さんは、体育の授業の初めに体育館を抜け出しましたが、更衣室まで帽子を取りに行って、だけどすぐ戻ってきました。更衣室は体育館のそばにあるからです。でも、このクラスは体育館から遠いので……もし、粟田さんがペンを盗りにここへ来ていたら、もっと時間がかかったはずです。その……粟田さんは走るのが遅いから」


 最後はちょっと声が小さくなってしまったが、千結の運動音痴ぶりを知る同級生たちの間には、確かになーと納得の空気が広がっていた。


「体育が終わったあとも、私と粟田さんは更衣室から保健室に行って、この教室に帰ったときには、ペンがない! ってなってたから。だから……盗んだのは、粟田さんじゃないと思います」


 梨生は静かに述べながら、タカちゃんに顔を向けたいのを我慢した。別に彼女を糾弾したいわけじゃない。怖いことはまっぴらごめんだ。千結のことを守れさえすればいい。

 でも、これ以上千結の無罪を証明するような説得力のあることは何も言えない。意気消沈しながら梨生は椅子へ沈んだ。先生は、困ったように口ごもった。その顔は、「せっかく一旦は話がまとまりかけたのに」とでも言いたげで、それにも梨生は打ちのめされた。

 すると、「あ!」と大きな声が上がった。再び大勢の視線がそちらへ向かう。視線の矛先となったアオキくんは、一瞬気まずげに「おれ……今日お魚当番だったんだ」と小さく言った。お魚当番とは、教室の後ろの水槽で飼っているメダカに朝夕の餌を与える当番のことだ。

 それから、アオキくんはのんびり屋らしくふにゃりと顔を崩して、


「でも朝に餌やるの忘れてて、体育の途中でそれ思い出して、やっべー魚が飢え死にしちゃうかもって思って、体育館こっそり抜けたんだ。で教室帰って餌やったんだけど、そのとき、オカモっちのペン、ちゃんと机の上にあったの見たよ。おれ、そのときペンでちょっと遊んだし、間違いない。……てことは、ペンが失くなったの、体育の初めのほうじゃないってことだよね」


 彼の発言を受けて、「なんだよ早く言えよなー」なんて声が飛び交い、「だって今思い出したんだもん」とアオキくんも応えている。


「じゃあ――」


 口を開いた教壇の上の先生を、子どもたちが見上げる。


「粟田さんは盗んでいないということですね。粟田さん、大丈夫ですか?」


 背筋をまっすぐにしたまま、千結はこくりと頷く。


「とにかく――何かの間違いがあったということです。岡本くんも、勉強に関係ない物は持ってこないように。いいですか?」

「えーかっこいいのに」

「そもそもボールペンは学校に持ってきてはいけません」

「ふぁーい」

「じゃあ、授業始めます」


 そうして、国語の授業は始まった。まるで犯人は千結かのように恐ろしい顔つきで問い詰めたくせに、千結が犯人じゃないとわかったら、先生はちゃんと謝りもしないでうやむやにして終わらせてしまった。梨生は納得がいかなくて、ごんの最期なんてどうでもよくなってしまった。



 学校からの帰り道、いつも通り梨生と千結は二人で家に向かって歩いていた。

 梨生は未だに納得がいっていない。先生にも、タカちゃんにも、オカモトくんにも、クラスの皆にも、そして千結にも。


「なんでちーちゃん……」


 珍しく考え込む様子でずっと黙っていた梨生が、ランドセルの背負い紐をぎゅっと握りしめながら口を開くと、千結が振り向いた。その普段と変わらない千結の落ち着いた顔を見て、梨生は悔しさで胸を苦しくさせながら喘ぐようにして言った。


「なんで、もっとちゃんと違うって声上げないの。皆に勘違いされちゃうじゃんか……」


 泣き出しそうな梨生の顔を少しの間見つめて、それから千結はあっけらかんと答えた。


「りおはわかってたでしょ?」

「え?」

「私があんなこと、やってないって」

「うん……」

「りおはわかってくれるもん。りおがちゃんとわかってくれてればそれでいい」


 何でもないように言い放つ千結に、梨生はしばし言葉を失った。


「そんなの……でも、本当に警察がちーちゃんを捕まえたら、あたしだってちーちゃんのこと信じられるかわかんないよ」

「そのときは、私がりおにちゃんとわからせるから大丈夫」


 歌うように言う千結に、またしても梨生は何も言えなくなった。


「……」


 教室中が千結を疑って声を上げていたときに、微動だにせず、背筋をぴんと伸ばして毅然としていた千結の姿を思い出した。あのまっすぐな背中は、『梨生から千結に向ける信頼』に対する、『千結の揺るぎない信頼』によって支えられていたのだ。


 なんとまあ、ふてぶてしいほどの信頼ではないか。

 こんな可愛らしい見た目で、その実、なんと肝の据わった女の子なんだろう。

 呆れながら、千結に対する認識を改めたときであった。


「ちーちゃんは、たくましいね……」


 心の底から感心して言ったのに、


「――のろまだけどね」


千結は皮肉っぽく口元を歪ませて梨生を睨んだ。

 梨生は声をあげて笑った。そして、この外見より遥かに強い親友を誇りに思ったのだった。

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