微熱の糸が灼きついてほどけないので
東海林 春山
待雪草と風光る
1. 春告げる隣のあの子のまなざし
あの日、この胸にそれは絡みついてしまった。
あの日、世界に祝福されたようなその姿を見たときから。
欲しい、と無邪気に思った。その子どもの頃の傲慢な衝動は、いくら歳を重ねてもおさまらなくて。
それは決して、可愛くも、優しくもない。自分のどす黒い感情を煮詰めて編んだものだ。でも、とても愛しいものだ。だけど、断ち切れるならそうしたかった。いつまでもそれに一人で囚われているのは辛かったから。
それに触れると、すぐに何度だって舞い戻ってしまう。あの頃に。あの頃の自分たちに。
あのまなざしを、あの掴んだ手の柔らかさを、その笑い声を思い出すと、息が詰まるほど幸せで、甘くて、苦しくて、胸が疼いた。
これを辿った先に、あなたがいるといいのに。
# # #
隣の家に引っ越してきた彼女はお人形さんみたいで、挨拶するお母さんの後ろへ隠れるようにしたその姿をひと目見た瞬間から、仲良くなりたい、と梨生は思った。
「りおちゃんも同い年だって。ほら、ちゆ、ご挨拶」
綺麗なお母さんに促されておずおずと前へ出てきた女の子は、ちらりと目線を合わせたあと、すぐにちょっとうつむいて、小さな声を出した。
「――
お人形みたいなまん丸で大きな瞳が少し伏せられて、これまたお人形みたいな長いまつげが上品にその目を隠した。鈴を転がすような声、という表現があるけれど、ちゆちゃんみたいな声を指すんだろう、と梨生は思った。
「
一歩前に踏み出て梨生が挨拶を返すと、千結は顔を上げまっすぐに梨生の目を見て、そしてはにかんだ。
固い結び目がふっとほどけるように小さく笑うその顔を見て、きっと絶対仲良くなれる、と梨生は確信した。
小学二年生になる春休みに、千結とその家族は隣の空き家にやってきた。
梨生の家は小学校から離れているせいで、今まで学校の友達はみな遠くに住んでいたから、同い年の女の子が隣に来てくれたことを喜んだ。
真っ白な肌に、華奢な体、直接目を合わせるのを避ける千結の様子に、一緒に遊べるのかなあと当初は不安も覚えたけれど、手を引っ張って近所へ連れ出せば、彼女は少しずつ笑顔を見せ始め、毎日二人で遊ぶようになった。
ただ……千結の運動神経は壊滅的だった。初めて近所の広い公園まで思いきり走ったとき、後ろに付いてきているはずの千結を見失い、不思議に思って引き返した際、遥か後方でいかにも運動音痴といった風情で手足をのろのろバタバタと動かす彼女を見つけたときの絶望感たるや。せっかくお隣に遊び相手ができたのに、その子はめちゃくちゃどんくさそう。
それでも、毎日同じだけ外で遊んでいるのに一向に日に焼けない肌や、簡単には乗り越えられない場所を登ろうとして唇を噛みしめる一生懸命な顔などを見ていると、なんだか手助けしたいような、同い年ながら姉のような気持ちが芽生えて、梨生は腕を伸ばして千結の白い手を掴み、公園や森を共に走るのだった。
実際に血の繋がった梨生の四つ年上の姉・
粟田家は、都心のどこかから、「自然の多いところで、一人娘の子育てをしたいと考えて」、この東京の西のほうへ引っ越してきたらしい。姉の言い方には文句のひとつも返してやりたいものだったけれど、千結を改めて眺めると簡単には反論できなかった。
さらさらとした長い黒髪、太陽の光に透ける色素の薄い瞳や、すっと通る鼻梁とちょっとぽってりとした赤い唇、儚げな印象をもたらす雪原のような肌にほっそりとした手足は、本当に物語のなかのお姫様みたいで、都会の子はみんなこんなに可愛いのかな、と思わせた。そのうちに、都心育ちだからというわけではなくて、ただ単に千結がべらぼうに整った造形をしているだけだと、やがて梨生は気づくのだが。
初めの頃こそ、遊び場まで駆けるときには千結に合わせてスピードを落としていた梨生だったが、おおかたの遊び場所を千結に教え込んだのちには、もう彼女を待つこともなく遠慮なく走り、あとから来る千結を待つようになった。
遅れて追いついた千結が、息を荒げ白い頬を染めて言う。
「りおは、ほんとに走るの速いね。格好いい」
目を煌めかせて褒めてくれる千結に、君に比べたらだいたいの子は速いけど、と頭によぎった考えを梨生は言葉にはしなかった。言わないほうがよいことくらい、もう分別がついている。その代わり訊く。
「ちーちゃんは、何をして遊ぶのが好き?」
引っ越し以来、天気もいいし外を連れ回してばかりだったが、自分の趣味に付き合わせすぎたかもしれない、と思い直したのだ。
尋ねながらも、もしも「おままごと」と言われたらどうしようと思った。梨生はあれの面白さが皆目わからない。お母さんもお父さんも演じたくないし、赤ちゃん役なんて割り当てられた日にはいよいよ自分が馬鹿になったような気さえする。
「ちゆは……ピアノを弾くのが好き」
「あ、そういえば昨日ピアノが聞こえた! あれ、ちーちゃんだったんだね。すごい!」
褒められた千結は目元をふっと柔らかくしてはにかんだ。
出会ってすぐは"ちゆちゃん"と呼んでいたけれど、やがて"ちーちゃん"に変わっていった。その呼び方は、なんとなく彼女を年下みたいに感じていたのも関係していて、小さな子どもがお姉ちゃんぶってさらに小さい妹を守ってあげよう、あるいはある種、愛玩するような気分も確かにあった。
一方で千結は、意外にも遅くないタイミングで梨生を呼び捨てで呼んだ。
りお、と少し舌足らずで呼ぶそれには不思議と丸みがあって優しくて、梨生には心地よかった。成長して発話のたどたどしさがなくなってもその響きの丸さは変わらなかった。
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