4. 線と鍵と宴


 心地よい初夏の風に乗って、ピアノの音が隣家から小さく聞こえてくる。

 梨生の場合、休みの日は早起きもせずお昼近くまで眠っているから、微睡みの中から聴くそれは夢の感触を伴って心地よく響いた。練習が終わってピアノが止むのを合図にベッドを抜け出して、梨生の一日が始まる。


 千結がピアノを好きだと知って以来、彼女にねだって、何度もピアノを弾いてもらった。ピアノの前の椅子にちょこんと座り、さらさらの黒髪を揺らして音を奏でる千結の背中や、白と黒の鍵盤の上を優雅に舞う千結の手を見つめているとうっとりとして、演奏が終わったときには毎回熱狂的に拍手をしてしまったし、振り返って照れた様子で小さく笑む千結に惜しみない賞賛を送った。あんなに嫌だったはずのピアノの練習がしたくてたまらなくなった。

 ちーちゃんみたいにピアノが弾けたらいいのになあ。

 姉の果歩にも梨生にも弾かれることのなくなった安藤家のピアノは、カバーを被せられ大きな箱みたいになって、リビングの片隅で沈黙を保っている。


 ある日、母親に「またピアノを習いたい」とお願いしたら、彼女は呆れた顔をして、「昔あれだけ嫌がって辞めたのに。ちーちゃんがやってるからって」と言う。

「いいじゃあん、今度はちゃんと続けるからぁ。ね〜え」と散々駄々をこねにこねて、梨生はまたピアノを始めた。


 当然、梨生がたどたどしくピアノを練習する音は隣の家にも届いていて、千結からは「りお、ピアノ始めたの?」と訊かれた。

 以前にも習っていたことは伏せて、「うん……梨生も、ちーちゃんみたいに弾きたくて」と答えたら、彼女はにこり、「今度一緒に弾こうね」と顔を綻ばせた。

 ここまで朗らかに笑う千結は珍しく、そうやって豊かな表情を見せる彼女は、人形というより、絵本や童話に出てくる愛らしい天使みたいだ、と梨生は思った。

 だから梨生は一生懸命ピアノを練習した。母親に買ってもらった連弾の楽譜を千結に見せたときの笑顔はとびきりだった。


 ひとつの椅子に並んで座り、4つの手が鍵盤の上を舞う。いつも千結が左側、梨生が右でメロディラインを弾いた。走りがちな梨生の旋律に伴奏の千結がぴったりと寄り添い、ときにはリードした。

 楽しい気持ちが抑えきれず跳ねる仔馬のように、肌にしっとりと吸い付く極上の絹糸のように、屋根に叩きつける荒れ狂う風雨のように、打ち棄てられた教会に挿す空っぽだが色とりどりの光のように、次々に表情を変える千結の指使いに導かれて、梨生は踊った。呼吸を合わせ、あるときは主旋律と伴奏が入れ替わる五線譜の上を進んでいると、二人でダンスをしているようだった。

 他のどんな遊びとも違う、言葉も視線も交わさないピアノの連弾でこそ、千結の気持ちがわかるような気がした。

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