11. 呼吸の速度


 今年の梅雨は短くて、六月の下旬にはもうカラリと晴れ、力強い太陽とそれを照り返す樹々の緑が眩しく目を刺し、初夏の青草の匂いが胸を満たした。


 放課後、梨生は陸上トラックの上を走っていた。

 宣言どおり、梨生は陸上部へ、千結は吹奏楽部へ入った。

 梨生は運動を好んだが、チーム一丸となってだとかワンフォーオールだとかの空気は嫌いだったため、何らかの運動部へ入るにあたっては、そういった"絆"の色が薄い部活を選ぶことにした。その点、陸上部はよかった。基本的に個人競技だし、リレー走にしたって、少なくとも走っている間は一人だ。誰かのために、とか、チームのために、とか考えなくていい。ただ、自分が誰よりも速く走ればいい。部活動だから、時折顧問や先輩から理不尽なことを課されるのには嫌気が差したけれど、まあそんなものか、と受け入れるのは得意だ。

 小学生のときは、エネルギーの赴くままでたらめに体を動かしていたが、部活動では、きちんと根拠のあるメソッドに従って体系的に練習を重ねればタイムが縮むのが純粋に面白かった。体にもしなやかな筋肉がついてきて、それが誇らしかった。

 千結の吹奏楽部はなかなか強豪であるらしくストイックに練習しているし、梨生は梨生で朝練があり放課後も遅くなるので自転車で通学を始めており、二人は別々に登下校していた。ちなみに千結の運動音痴っぷりは、自転車を安全に運転するのもままならないほどなので、彼女が夜遅く帰宅する際はバスを使っているらしい。



 スタートダッシュの練習を規定の本数走り終え、地面に転がしておいた水のボトルまで歩いて梨生はべたりと座り込んだ。はあはあと乱れる呼吸にも構わず、水をごくごくと飲む。暑くて、練習着のTシャツの袖をくるくるとまくりあげた。

 どさりと倒れこむようにして、梨生の隣に三年生の香織先輩もへたりこんで水のボトルを掴んでいる。飲み干す勢いで梨生がボトルを傾けていると、香織先輩から、


「どしたのその傷」


と、左の二の腕の縫い傷を指して訊かれた。


「あーこれ……木登ったら落ちちゃって、そのときに」

「木! 猿かよ」


 目を大きくして、それから先輩は快活に笑った。


「いやあ、あの頃はやんちゃな子どもでした」

「たった二、三ヶ月前のことじゃん」


 小学校から同じで部員仲間のクンちゃんが的確に指摘してくるので、梨生は神妙に、


「このかんに著しく成長を遂げましたね」


と頷いておくが、香織先輩は、「いや、いまだに猿だろ」なんて言う。


「やだなあ、もう木なんて登りませんよう」

「おーい、いつまでだべってんだよ、次、テンポ走やるぞー」


 顧問の呼びかけに皆、「はーい」と応えて立ち上がる。


 梨生は右手で、ぽり、と傷跡を掻いた。

 練習中はポニーテールにしている毛先が首筋を撫でた。髪、切ろうかな、とふと思う。

 母親から、「髪の毛だけでも女の子らしくしてなさい」と言われ、また、綺麗な千結の髪に憧れて長くしていた髪だけど。

 ――女の子らしくする必要なんてない、毎日制服でスカートを履かせられるし、体育の授業は女子だけでやる、短距離走のタイムは男子の先輩にどうしたって勝てない、身体は否応なしに女性の特徴を身につけていく。中学に上がってから毎日、あたしは女子なんだって自覚する機会はある。

 すっかり日に焼けた自らの脚を見下ろす。

 スカートは短くしすぎるな、とうるさく注意されるわりに、陸上のユニフォームのボトムはそのスカートより断然短くて、ほぼパンツみたいなものだ。変なの、なんでこれがよくてスカートの丈はあれこれ言われなきゃならないんだろう。

 学校の周りには"変質者"が出るから、学校の敷地は高い塀でぐるりと囲われている。


 校舎のほうから吹奏楽部の練習の音が聞こえて、灰色のコンクリートでできた建物を見上げる。あの校舎のどこかで千結は楽器を演奏しているんだろう。

 ――それに、憧れたところで、あたしの髪の毛はちーちゃんみたいにはならない、そんなのはもうわかってる。

 髪を一度解いて再び結い上げ、お団子にした。週末に美容院へ行こう、と決めながら。




 ある日の昼休みの終わりぎわ、学校の廊下で久しぶりに梨生と千結は顔を合わせた。千結の隣には、ふわふわした髪の毛とふっくらした頬が可愛らしい女の子がいた。千結は梨生をじっと見つめてから微笑んだ。


「りお、髪切ったね」

「うん、走るのに邪魔だし、暑いしね」


 かろうじて結べるくらいに短くした自身の髪に触れて梨生は答える。それより、千結の隣に気軽な様子で佇んでいる女の子のほうが気になって、目線で千結へ紹介を求めると、


「ホンダ」


と簡潔で雑な紹介をいただけた。そんな千結の振る舞いにもこだわる様子を見せず、ホンダさんは軽く手を挙げてにこやかに言う。


「本田でーす。アワたんとは吹部すいぶで同じでーす」

「安藤です、どーも。ホンダさんの髪、すごく可愛いね。巻いてるの?」


 軽く会釈して、彼女のふんわりとカールした髪の毛について尋ねる。髪を切ったばかりだと、他の女子のヘアスタイルがなんとなく気になる。ホンダさんは、もともと笑顔に近い顔つきをさらに柔和に綻ばせた。


「ううん、これ天然。いい感じでしょ〜」

「うん、可愛い。ホンダさん何組?」

「二組」

「あーじゃあ、ササキ クミコ知ってる?」

「うんうん、クンちゃんでしょ。普通に友達〜」


 初対面でも難なく打ち解けている二人の間でかすかにムッとしている千結が目に入って、梨生はホンダさんに向かって頭を下げる。


「ちーちゃん、気難しいとこあるけど、何卒よろしくお願いしますね」

「承知しました」


 ホンダさんも両腕を脇に揃えてしっかりお辞儀をしている。先ほどよりも明らかにムッとして千結は言う。


「りおは私のなんなの」

「いやあ、もはや人生の半分くらいはちーちゃんといるからさあ、オヤゴコロみたいなのあるよね」


 あはは、と笑うホンダさんは、横にいる千結のリラックスした雰囲気からも推し量れた通り、好人物なのだろう。千結にそういった気安い関係の友人が新たにできたことを、梨生はほんの少し寂しく感じつつも、嬉しかった。



 その日の放課後、今日も部活に励んでいた梨生は、タオルを教室に忘れたことに途中で気がついて、校舎まで取りに行った。通り過ぎる各教室から楽器の音がする。どうやら吹奏楽部が楽器ごとに散らばって基礎練習をしているようだった。自分の教室の前に着いたものの、そこからも、ボー、と楽器の音がするので、入るの気まず、と梨生は思った。陸上部員と一緒にトラックに居る分には気にならない露出度の高い練習着も、なんだか場違いな気がした。

 扉のガラス窓から中を覗くと、机を寄せて空けた空間に数人が椅子に座り、譜面台の前で同じ楽器を吹いていた。その中には千結もいた。確か彼女は"クラリネット"を担当していると言っていたから、あの長い棒状の楽器がそれなのだろう。オーパッキャラマド。童謡でしか知らなかったクラリネットという楽器が初めて像を結ぶ。それを吹く千結は、なんだか知らない人みたいだった。


 いつまでも尻込みしているわけにはいかないので、なるべく音を立てぬよう扉を開けて教室へ入ったが、楽器を吹き続けながらも吹奏楽部員の視線が一気に梨生へ集まった。「ピ」と甲高い調子外れな音が混ざったのを横目に、梨生は腰を屈めて今さらながら「失礼しまーす……」と小さく言って足早に教室の後ろを横切った。自分の私物スペースからタオルを取り出している最中さなか、折り悪く練習がひと段落したらしく、さっきまで伸びていた音が一斉に止み、メトロノームの音だけが教室に響いた。

 オーパッキャラマド! 早く出よう、と梨生がきびすを返すと、千結と目が合ったので無言で手を振れば、彼女も黙って小さく手を振り返した。

 素早く出口に向かう背中から、


「友達?」

「はい」


とどうやら先輩と千結のやりとりが聞こえた。静かに扉を閉めながら、あのちーちゃんも先輩後輩してるんだ、と梨生は思った。

 そりゃそーか。彼女の世界はもう、小学生の頃みたいなシンプルな関係性だけで構成されてるんじゃない。



 中学に入学して以来、梨生にはひとつ負い目に思っていることがあった。

 千結が中学受験をしなかったのは、自分がいたからであるのは明らかだった。同じ中学へ行く、と嬉しそうに報告してくれた彼女の目が赤かったのを梨生は覚えている。千結の家は教育に関して熱心な家庭だから、それを説得させるのは大変だったろう。

 そうして受験をさせず同じ学校へ進学したにも関わらず、クラスも部活も違って、千結とは少し疎遠になってしまっている。その後ろめたさからもなんとなく、彼女とはますます距離が生じていった。

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